第一コリントス書簡

右(ガラティア書簡の解説)のようにパウロは第二回伝道旅行の最後にギリシャ南部の中心都市コリントスにはじめて行き、長期滞在している。その時にコリントスにもキリスト教会が成立した。その後、第三回伝道旅行の最後にエフェソスで長期滞在した時に、エフェソスからコリントスはエーゲ海をはさんで海運が活発だったから、パウロはくり返しコリントスの信者たちと連絡をとりあっている。そして、この段階ですでに、彼らとパウロの間にかなり厳しい対立が始まっていたようである。主たる問題は二つ、パウロが信者たちに「異邦人の肉屋で売っている肉は食うな」とうるさく言い立てたこと(異邦人が売っている肉は穢れている!そんなことを言われたら、みずから異邦人(非ユダヤ人)であるコリントスの信者たちには納得がいかなかっただろう)、そして多額の献金を集めてエルサレム教会に送れ、という命令(しかし第一書簡ではまだパウロはまだこの件がコリントスの信者の間で大きな問題になっている事に気が付いていない)。加えて、信者になったら結婚するな、とか、女は教会では黙っていろ、とかいろいろ。

パウロはこの段階ではまだ、コリントスの信者たちが厳しい反対意見を持っている、という事実に気がついていない。せいぜいのところ、生徒が先生に、この点はよくわからないので教えてください、と質問してきた、といった程度にしか考えていない。だからパウロはここで、彼らが言ってきた問題とは関係のない説教をまず長々と記し(彼らの間に分派争いがあるのはけしからん、と。実はこれもパウロは、あてにならない噂に基づいて想像しているだけである)、その後で、ようやく彼らの疑問に答え始めるのだが、上から目線で相手に説教しようとするだけで、彼らの疑問に本格的に向い合おうとしていない(そのことは、第二書簡を読めばよくわかる)。パウロのものの言い方はいつもこのように非常に一方的だから、我々は、議論の相手の立場に立てばパウロの言い分がどう見えるかを、常に検討してみる必要がある。

執筆時期は第三回伝道旅行の最後に近い時期だから、ほぼ55年ないし56年はじめ(54年の可能性もないわけではない)。

 

第二コリントス書簡

第一書簡のこの内容では、相手が納得するわけがない。特に、第一書簡ではエルサレム献金問題をまったく無視しているので、それではかたがつくわけがない(コリントスの信者にとっては、こんな言われのない高額な献金を押しつけられる理由なぞ、まったくなかった)。おまけに、パウロの居丈高な姿勢が問題を更にこじらせた。そこでパウロは、すでに第三回伝道旅行を終えてエルサレムへと出発する準備をしていたのだが、急遽コリントスに赴いて信者たちと直接話し合うことにした(2:1以下はその訪問の時のこと)パウロはこの時になってようやく、信者たちがこれらの件について本気でパウロを批判している、ということに気がついた。これはパウロにとっては当然大きなショックであっただろう。そして、おそらくは喧嘩別れに終わったこの訪問後いったんエフェソスにもどったのだが、その時点ではもうエルサレムに行く旅行に出発しないといけなかったので、その準備のために、パウロの一番の支援者だったマケドニアの諸会衆に急いで行く必要があった。それでマケドニアに到着してから、何とかコリントスの信者たちにも献金活動に参加してもらおうと思って書いたのが、この第二書簡である(従って執筆年代は55年ないし56年)。しかし他の論点も何一つ解決していなかったから、献金問題以外にもいろいろ書いている。

加えて、この書簡(及び第一書簡)を読む場合に、もう一つ、もっとはるかに重要な根本的問題が背景にひそんでいることを見落とすと、このコリントス問題の本当の実態がつかめない。実はコリントスの信者たちは、パウロの言うこととイエスが言っていたことがはっきり食い違っている、という事実に気がついていた。イエスはユダヤ教戒律にのっとってさまざまなことを「穢れ」とみなして排除するユダヤ教宗教支配層に対して、特に食べ物の「穢れ」(衛生上の問題ではなく、宗教的禁忌)について、それを言い立てて他人を支配、ないし排除しようとする姿勢に対して、強い批判を持っていた。だから、「外から人間の中に入ってくるもの(=食べ物)が人間を穢すことなぞありえない。人間の中から出てくるものが人間を穢すのだ」と言い放った(マルコ7:15)。コリントスの信者たちは、すでにこう言ったイエスの発言の多くパウロ以外のキリスト教宣教師から聞いていただろう。いろいろ議論のあげく、パウロはついに、「自分は(以前は)キリストを肉によって知ったとしても、今やもはやそのように知ることはしない」と宣言してしまう。(第二コリントス5:16)かつては「キリスト」のことを「肉」として、つまり現実の人間として生きていたイエスとして知っていたとしても、今ははっきり、そういうキリストを知ろうとは思わない。自分の知っているキリストは、炎天下の旅路で自分が幻想の中で出会い、自分に語りかけてくれた、あのキリストだけだ、それが本物のキリストだ、と。

これは、すでにペテロたちのキリスト教が自分たちが出会ったという「復活」のイエスを中心にして成り立っていたものをもっと個人体験的に純化して継承したものであるが、以後の長いキリスト教は、パウロを中心としたこの種のキリスト信仰と、実際に生きていたイエスという男のさまざまな発言や行為の思い出を大切にしていこうとする人々の思い出の間で、永遠に融合しない二本の太い糸がないあわされた不思議な縄として、歴史を刻んでいくのである。

もどって、パウロはこの書簡で、自分でもどうしようもなかったのだろうが、ほとんど支離滅裂な対応を続けている。一方では、何とか和解しようと穏やかで、穏和な態度をとろうとする。他方では、脅したりすかしたりして、何とか自分の「命令」を受け入れさせようとする。時には強い憤りを爆発させる。その結果、手紙の色調が一貫しないので、近現代の聖書学者の間では、ここにはパウロの二つ(以上)の書簡の文書がばらばらに並べられているのではなかろうか、という学説が流行った。特に2:14-7:4、及び10-13章は第二書簡以前に書かれたものだ、という意見が流行っている。一応考慮に価する学説ではあるが、しょせんパウロの文章である。色調が途中でがらっと変化したとしても、不思議ではあるまい。

このコリントス騒動の結末は喧嘩別れに終わったようである。パウロは彼らから多額の献金を得ることに成功せず、コリントス教会の代表者はパウロと一緒にこの献金をエルサレムに持って行く旅行に参加しなかった。以後かなり長い間、コリントス教会はパウロ系教会の一つとして名をあげられることはない。

 

WTによる「コリント人への手紙」の解説(洞-1 p944

西暦1世紀に使徒パウロが霊感を受けてギリシャのクリスチャンにあてて書いた,正典とされる2通の手紙。この2通の手紙は,英語に訳されたクリスチャン・ギリシャ語聖書の大半において,それぞれ7番目と8番目に置かれています。パウロは自分がこの2通の手紙を書いたことを明らかにしており,コリント第一の手紙は「コリントにある神の会衆」に,コリント第二の手紙は「コリントにある神の会衆,ならびに全アカイアのすべての聖なる者たち」にあてて書いています。―コリ一 1:1,2; コリ二 1:1。

パウロが実際にコリント第一および第二の手紙を書いたということについては,これを重大な疑問点とすることはできません。同使徒自身の証言があるだけでなく,両方の手紙の信ぴょう性や,それらの手紙が広く受け入れられていたことも,外的な証拠によって証明されています。この2通の手紙はパウロの作とされており,1世紀ないし3世紀の著述家たちによって引用されています。また,「アタナシウスの正典」(西暦367年)として知られる文献は,「使徒パウロの14通の手紙」の中に,「コリント人への2通」を含めています。この一覧表は,今日わたしたちが手にしているクリスチャン・ギリシャ語聖書の各書を含む目録としては最初のものであり,西暦397年のアフリカのカルタゴにおける公会議つまり司教会議で発表された一覧表より30年も前のものです。

コリントにおけるパウロの宣教  パウロは西暦50年ごろコリントに着きました。最初のうちは安息日ごとに会堂で話をし,「ユダヤ人とギリシャ人を説得」しました。(使徒 18:1‐4)しかし,会堂にいる人たちの反対に遭い,ののしりのことばを浴びせられて,同使徒は「諸国の人たち」,つまりコリントの異邦人に注意を向けました。パウロと彼らとの集会は会堂の隣の家に移され,多くの人が「信じてバプテスマを受けるように」なりました。同使徒は主から幻の中で,「この都市にはわたしの民が大勢いる」と告げられたので,そこに1年6か月とどまり,「彼らの間で神の言葉を教え」ました。(使徒 18:5‐11)パウロはコリントにクリスチャン会衆を設立するための器でしたから,彼らにこう言うことができました。「あなた方にはキリストにあって一万人の養育係がいるとしても,決して多くの父親はいないのです。キリスト・イエスにあって,わたしが,良いたよりを通してあなた方の父親となったからです」― コリ一 4:15。

コリントではゆゆしい不道徳行為が習わしにされており,やがてそれは同市のクリスチャン会衆 [961ページに続く] [944ページからの続き] にさえ影響を及ぼすようになりました。パウロは,彼らの間で「諸国民の間にさえないほどの淫行」の問題が持ち上がっていたため,手紙の中でこの会衆を叱責する必要を見て取りました。ある人が自分の父の妻を奪っていたのです。(コリ一 5:1‐5)パウロはまた,彼らが理解できる例えを用い,忠実さを保つように励ましました。パウロは,彼らがコリント近郊で催されるイストミア競技会の競技に通じていることを知っていたので,こう書きました。「競走の走者はみな走りはしますが,ただ一人だけが賞を受けることを,あなた方は知らないのですか。あなた方も,それを獲得するような仕方で走りなさい。また,競技に参加する人は皆,すべてのことに自制を働かせます。もちろん彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが,わたしたちの場合は不朽の冠のためです」― コリ一 9:24,25。

コリント第一の手紙  パウロは第3回宣教旅行中にしばらくエフェソスに滞在しました。(使徒 19:1)恐らくそこに滞在した最後の年に,同使徒はコリント会衆の状況に関する不穏な知らせを受け取りました。以前にもパウロは「クロエの家の者たちから」,コリント人の間に争論があることを聞いていました。(コリ一 1:11)ステファナ,フォルトナト,およびアカイコもやはりコリントから来ていたので,彼らがそこの状況について何らかの情報を伝えたのかもしれません。(コリ一 16:17,18)それにパウロは,コリントのクリスチャン会衆から問い合わせの手紙も受け取っていました。(コリ一 7:1)そのようなわけで,パウロはコリントの仲間の信者の霊的福祉に対する深い気遣いから,コリントのクリスチャン会衆にあててこの第一の手紙を書きました。西暦55年ごろのことです。この手紙の書かれた場所がエフェソスであることは,コリント第一 16章8節に記されている,「しかし,ペンテコステの祭りまでは,エフェソスにとどまるつもりです」というパウロの言葉によって確証されています。

パウロはコリント第一の手紙の書き出しのところで,仲間のソステネに言及しています。このソステネがパウロの口述に従ってこの手紙を書いたのかもしれません。そのように言えるのは,この手紙の末尾に近い箇所に,「私パウロのあいさつを自分の手でここに記します」とあるからです。―コリ一 1:1; 16:21。

コリント第二の手紙  パウロは多分,西暦55年の夏の終わりごろか初秋にコリント人への第二の手紙を書きました。同使徒はすでに第一の手紙をエフェソスで書いていました。そして計画通り,その年のペンテコステまで,あるいはそれよりも長くエフェソスにとどまったものと思われます。(コリ一 16:8)その後パウロはトロアスへ旅立ちましたが,トロアスではテトスに会えなかったので失望します。テトスはユダヤの聖なる者たちのための募金に関して援助を与えるよう,コリントに派遣されていました。それでパウロはマケドニアへ向かい,その地でテトスと合流します。テトスは,コリントの人々がパウロの第一の手紙にどう反応したかに関する報告を携えていました。(コリ二 2:12,13; 7:5‐7)それからパウロは,彼らに第二の手紙をマケドニアから書き送ります。その手紙はテトスの手を介して届けられたようです。その数か月後,コリントを訪れるためのパウロの努力が実を結びます。ですからパウロは,実際にコリントの人々を2度訪問したことになります。彼は初めて訪れた時に会衆を設立し,その後に2度目の訪問を計画しましたが,それは実現しませんでした。しかしパウロが計画した,もしくは「用意」をした「三度目」の訪問は成功しました。西暦56年ごろ,彼らと再会することができたからです。(コリ二 1:15; 12:14; 13:1)パウロはコリントへのこの2度目の訪問中にローマ人への手紙を書きました。

書かれた理由  テトスはパウロに好ましい知らせをもたらしました。コリント人への第一の手紙によって彼らの内には,敬虔な態度の伴った悲しみ,悔い改め,真剣さ,自らを清めたいという気持ち,憤り,恐れ,悪を正すことなどが呼び起こされていました。パウロはそれにこたえ,第二の手紙の中で,彼らが諭しを好意的に受け入れて当てはめたことで彼らをほめ,彼らが以前に会衆から追放したと思われる,その悔い改めた者を「親切に許して慰め」るよう勧めました。(コリ二 7:8‐12; 2:1‐11。コリ一 5:1‐5と比較。)パウロはまた,ユダヤの困窮している仲間の信者のための救援活動に関してさらに事を進めるよう,彼らを励ましたいと思いました。(コリ二 8:1‐15)それに,その会衆の中には,いまだにパウロの使徒としての立場や権威に異議を唱える人々もいて,パウロは自分の使徒としての立場を擁護しなければなりませんでした。実際,パウロがその手紙の中で非常に強い調子で語り,使徒としての自分の信任状を『誇った』のは,自分のためではなく,「神のため」でした。つまり,神に属する会衆を救うためだったのです。―コリ二 5:12,13; 10:7‐12; 11:16‐20,30‐33; 12:11‐13。

 

WTの解説は、パウロの神格化した表現で満ちている。「霊感」や他の資料を見ると、コリント会衆の成員は、パウロの指示や権威に疑いを挟んだ霊性の低い会衆であり、不道徳をならわしにしていた。パウロの愛情ある説得や厳しい叱咤により、悔い改めたので、温かく迎えられた、とする論調のものが多い。

当時の時代背景やキリスト教の伝播に関する歴史を無視したWT解釈を前提とした解説となっている。

例えば、「優秀な使徒」や「ユダヤにいる貧しい者」に関する理解など。

 リンク先→「優秀な使徒たちとは?」

 

「聖なる者たちのうちの貧しい人々とは?」

WTでは、「エルサレムへの献金」を「ユダヤの困窮している仲間の信者のための救援活動」であるとしているが、これは、ローマ15:26「聖なる者たちのうちの貧しい人々」という表現を適用したもの。WT的には、「ユダヤの聖なる者たち」とはエルサレム会衆の油注がれた者たちであり、当時のキリスト信者たちを指す。その信者たちのうちの文字通り「貧しい人々」、つまり困窮している仲間の信者たちを指すという理解である。

しかし、この「貧しい人たち」とは、経済的に貧しい人、という意味ではない。エルサレム教会の人たちは、自分たちのことを、神に対して謙虚な人という意味で「貧しい者」と呼んでいた。(ガラ2:10参照)キリスト教徒だけでなく、当時のユダヤ教の中の敬虔派全体に共通する言葉遣いである。マタイが5:3で「霊において貧しい者は幸い」と述べた時の「貧しい」という意味は、文字通りに経済的に「貧しい人」という意味ではなく、「神を乞い願う人」という意味で、原資料にはない「霊において」という語を付け加えたのは、当時のユダヤ教敬虔主義が反映されている。現に同じ資料を使った異邦人であるルカ6:20には、「霊において」という表現は付いておらず、単に「貧しい人は幸い」とあるだけである。

エルサレム教会の信者の中の貧しい人たちのために献金を集めて持って行く、というのではない。エルサレム教会が特に貧しかった人々で構成されていたという証拠はない。むしろ経済的には他の教会より豊かであった。

実際には、イエスの弟ヤコブを中心とするエルサレム教会の要請で、多額の献金集めが課され、パウロが引き受け、巨額の献金を運ぶ護送団を形成し、エルサレムまで運んだ。(コリ①16‐1‐3参照)

正統派ユダヤ主義の出身者であるパウロが、「貧しい者」という意味を知らなかったわけではない。献金をエルサレム教会に贈るべき正当な理由が見つからなかったので、「貧しい人」という表現をユダヤ教的キリスト信者の使う「神に対して敬虔な人」という意味ではなく、文字通り「経済的に貧しい人」という意味に用い、異邦人のキリスト信者たちを説得したのだろう。

異邦人でなるコリント会衆やマケドニアの会衆にも、同じように詭弁を弄して、多額の寄付金を集め、エルサレムへの旅と称する献金護送旅行を計画したのであろう。ユダヤ教の背景の内異邦人に対して、単に「貧しい人たち」と言っても、エルサレム教会全体を指すということは通じないが、言葉の説明をするのも面倒であるから、「聖者たちの中の貧しい人たち」と表現し、通じさせようとしたものである。

 

追記:コリ①51-5「父親の妻との淫行について」

パウロは、コリントの信者が「自分の父の妻」と結婚したことを、異邦人の間にも無い様な不道徳と断罪しているが、原文の表現を見ると事実を確かめているのではなく、噂に基づく自分流の解釈による裁きのようである。(コリ①51-5

文章にするのが面倒なので、メモだけ貼り付けておきます。

 

5:1 淫行があると言われている

ここもパウロは伝聞だけに基づいて相手に文句をつけている。(コリ①1:11「明かされた」参照)

NWT「淫行のことが伝えられています」。

 

5:1 父親の妻(女)と一緒になった

これは「自分の母親と」ではなく、母親はすでに死んでいて、父親がほかの女と結婚した。父親自身も死んで、後になって息子がその女と一緒になった、ということだろう。別にパウロが騒ぎ立てるほどの淫行という事態ではない。「一緒になった」の原文はechein<echo(_)=have。父親と息子が母親を共有しているという意味ではない。

多数の西洋語では「妻」という語と「女」という語を区別しない。(brideほか)「妻を持つ」という趣旨。

NWT「[自分の]父の妻を有している」。父と子が一人の女性を妻として共有している、という趣旨に解釈している。

 

5:1 一緒になった

字義的には単に「持つ」という動詞。当時の表現で「女を持つ」とは「結婚する」と同義。当時は戸籍も市役所もないのであるから、法的に結婚したかどうかは問題とはならない。

ただし、ローマ法では父の妻との結婚は禁じられていた。パウロが「異邦人にさえ見られない」というのは、その意味であるかもしれない。しかし、コリントスなどのヘレニズム社会ではローマ法が厳密に適用されていたという事実はない。当時婚姻すれば社会的に認知されていたが、パウロが文句をつけているだけである。しかし、コリントス信者の間では問題とはなっていなかったのであるから、社会的に認知されていたかどうかは別として、婚姻していたか、少なくても同棲していたのだろう。

現代人の常識からすれば、父親の妻と一緒になるということは、不届きな結婚という印象になるが、当時の社会は、まだ一夫多妻の名残もあった。また若くして死ぬ人が多かったので、男も女も生き残った方は再婚することが多かった。

初婚はかなり婚であるし、父親の再婚相手は非常に若かったことも珍しくない。父親の妻が長男より若い可能性は十分にある。(エウリビデスの悲劇「ヒッポリュトス」では、主役のファイドラが夫の長男に恋をする)特に父親が死んでしまった場合、後に残った若い女性がその息子と仲良くなり、結婚したとしても、他人がとやかく言う問題ではないであろう。

パウロという人間は、性道徳に何しては非常に保守的であり、禁欲主義的である。レヴィ記18:8,20:11の規定にも「父の妻と性関係を持ってはならない」とあった。これは父親が生存中に自分の母親だった人間と結婚するかどうかとか言うのではなく、「犯してはならない」という規定であった。しかし、律法学者はここから、一般的に父親の妻との結婚は、父親の死後であっても禁止する解釈を導き出した。

パウロは伝統的な男女関係以外は絶対に認めたくないし、結婚そのものに対しても否定的である。(7:1~)この異邦人の間にさえ見られないほどの淫行と騒ぎ立てたことに関するパウロの見解は、噂による偏見だけではなく、パウロの狭量な性道徳倫理が関係しているのだろう。

NWT「有している」。

 

5:1 異邦人にさえ見られない

「キリストにあってはもはやユダヤ人もギリシャ人もいない」(ガラ3:28)と宣言していながら、パウロは自分の倫理観を押し付け、文句をつけている。性根のところでは、ユダヤ人優越主義に支配されていることが露呈している。コリントス教会の人々が「異邦人」であることをすっかり忘れてしまっているのだろう。

「見られない」は便宜上補ったものだが、原文は何か補わないと文をなさない。異読にP68が「呼ばれる」(onomazetai)という語を補っている。ヴルガータやシリア語訳にも出てくるから、かなり古い時代まで遡る。

NWT「諸国民の間にさえない」。

 

5:2 あなた方はふくれ上がってしまっていた

原文は現在完了形。事実を指摘している。疑問文に解するとしても、単なる質問ではなく、皮肉の意味。文の後半の「悲しむ」は、仲間を失うことに付いてではなく、こんなことをした奴がいるということを悲しんで、追い出すべきだ、という趣旨。

NWT「それなのにあなた方は思い上がっているのですか」。皮肉の意味が伝わり難い。

 

5:3 実際私はといえば

「実際」はパウロの口癖garを訳したもの。「つまり」「何故なら」「すなわち」では意味が通じない。この文にはmen「といえば」という接続小辞があるのであるから、文法的にはgarは必要ない。

もっともパウロとしては、「あなた方はこの人に対して本当はやるべきであったことをやらなかった。本当にやるべきこととは、すなわち(gar)私ならば、……」と言いたいのだろう。

NWT「私としては」。

 

5:3 しでかした katergazomai

原義は「働いて作り出す」という趣旨。

NWT「このようなことをした」。

 

5:4 裁いてしまった  (kekrika<krino(_))

原文は現在完了。すぐ前の4:5では、終末が来るまではあわてて人を裁いてはならない、と説教しているが、ここでは、自らが他人を「裁いた」と誇らしげに宣言する。パウロは、自分が批判された時は、裁くのはよくない、と説教しておきながら、自分が他人を教会から追い出そうとする時には、平気で人を「裁く」。どこかの組織の長老や統治体と同じ精神を示している。

NWT「きっぱりと裁きました」。KI=I-have-judgedであるが、英文は、have certainly judgedと余計な副詞certainlyを入れている。排斥の正当性を強調するための付加であろう。原文に相当する語はない。