第一テサロニケ書簡

現存のパウロ書簡では最も古いもの。第二回伝道旅行(48/4951/52年、使徒行伝15361822)の途中でパウロは、生れてはじめて、ヨーロッパ側に渡る。まずマケドニアのフィリポイを訪れ、次の伝道地としてテサロニケに行った。その地でユダヤ人による弾圧の故に、長くはとどまることができず、マケドニアを離れてギリシャ南部にむかい、アテーナイからコリントスに行った。(行伝16111817)この手紙は多分コリントスに着いてから、ないしその前にまだアテ―ナイにいた間に書いてテサロニケの信者たちに送ったもの。従って49年末~50年はじめ頃(もしかすると51年?)の執筆。我々が普通知っているパウロ思想は(いわゆる信仰義認)、第三回伝道旅行以後のものであるが、この書簡はそれ以前のパウロ思想の実体を知る上で、非常に興味深い。

 

第二テサロニケ書簡はパウロの真筆ではなく、パウロの名を借りて自分の主張をしたためた、疑似パウロ書簡である。

 

第二テサロニケ

こちらは大部分はパウロ自身の第一テサロニケの換骨奪胎。しかし著者の意図は非常にはっきりしている。パウロ教の信者たちが師の教えをそのまま信じ込んで、今すぐにでも終末が来ると、浮き足だった信仰にふりまわされているのに対し、そんな簡単に世界の終末が来るわけはないのだから、我々はもっと落ち着いて日常生活を過ごそう、と呼びかけている。日々真面目に自分の力で労働し、自分で稼いだパンを食べて生きていくのがいい、と。「働かざる者は食うべからず」という有名なせりふは、その文脈の中に出て来る。(3:10)著者は不明。執筆年代も不明。1世紀末~2世紀前半。

 

 

WTの解説*** 洞‐2 テサロニケ人への手紙 ***

クリスチャン・ギリシャ語聖書中に収められている霊感による2通の手紙で,使徒パウロが書いた最初の手紙と思われるもの。パウロは自分がそれらの手紙を書いたことを明示しています。(テサ一 1:1; 2:18; テサ二 1:1; 3:17)これらの手紙が書かれた時,シルワノ(シラス)とテモテがパウロと共にいました。(テサ一 1:1; テサ二 1:1)このことから,この2通の手紙はコリントから書き送られたと考えられます。これら3人の男子がパウロの第2回宣教旅行の際コリントに滞在した後,再び一緒に働いたという記録はないからです。(使徒 18:5)コリントにおける同使徒の18か月にわたる活動は西暦50年の秋に始まったと考えられるので,テサロニケ人にあてた第一の手紙が書かれたのは,ほぼその時期であったと言えるでしょう。(使徒 18:11。「年代計算,年代学,年代記述」[その後の使徒時代]を参照。)第二の手紙はその後ほどなくして,恐らくは西暦51年ごろに書かれたに違いありません。

西暦2,3,4世紀のどんな顕著な目録においても,これら2通の手紙が正典として挙げられています。それらの手紙は,どんなときでも立派な行状を保つよう神の僕たちに訓戒を与える面で,聖書の他の部分と十分に調和しています。これらの手紙の中では祈りに強調が置かれている点も注目に値します。パウロは仲間の働き人と共に,常に祈りの中でテサロニケの人々を思い出しました。(テサ一 1:2; 2:13; テサ二 1:3,11; 2:13)また同使徒は,「絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい」(テサ一 5:17,18),「兄弟たち,わたしたちのために引き続き祈ってください」と彼らを励ましました。―テサ一 5:25; テサ二 3:1。

テサロニケ第一の手紙の背景  テサロニケ第一の手紙のあて先となった会衆は,事実上その当初から迫害を経験しました。パウロはテサロニケに着いた後,三つの安息日にわたってその地の会堂で宣べ伝えました。かなりの数の人々が信者になり,会衆が設立されました。ところが,狂信的なユダヤ人が暴動を引き起こします。ヤソンの家にパウロとシラスがいなかったので,暴徒はヤソンと他の幾人かの兄弟たちを市の支配者たちの前に引きずり出し,彼らを扇動のかどで告発します。ヤソンと他の人々は「十分の保証」を与えてやっと釈放されます。このことがあって兄弟たちは夜にパウロとシラスをベレアに送り出します。それは恐らく会衆のためであり,これら二人の男子の安全のためでもあったようです。―使徒 17:1‐10。

その後も会衆は,途切れることのない迫害に加えて(テサ一 2:14),会衆の成員(たち)と死別するという深い悲しみを経験したようです。(4:13)この新しい会衆に加えられていた圧力について知り,その圧力の影響を深く懸念したパウロは,テサロニケの人々を慰めて強めるためにテモテを派遣します。使徒パウロはそれよりも前に彼らに対する訪問を二度試みましたが,『サタンが彼の進路をさえぎりました』。―2:17–3:3。

パウロは,テサロニケの人々の忠実さと愛に関する励みとなる報告をテモテから受け取って歓びます。(テサ一 3:6‐10)しかし彼らは,肉の弱さに抵抗するためのさらに多くの励ましと訓戒を必要としていました。そのような理由で,パウロはテサロニケ人の忠実な忍耐をほめ(1:2‐10; 2:14; 3:6‐10),復活の希望で彼らを慰める(4:13‐18)ことに加え,神に是認される道に従い続け,しかも一層十分にそうすることを彼らに説き勧めました。(4:1,2)同使徒はとりわけ,淫行を避け(4:3‐8),より十分に愛し合い,手ずから働き(4:9‐12),霊的に目ざめ続け(5:6‐10),彼らの間で骨折って働く人たちに対する敬意を持ち,「無秩序な者を訓戒し,憂いに沈んだ魂に慰めのことばをかけ,弱い者を支え,すべての人に対して辛抱強くあり」,「あらゆる形の悪を避け(る)」(5:11‐22)ように諭しました。

テサロニケ第二の手紙の背景  テサロニケのクリスチャンの信仰は大いに成長し,互いに対する彼らの愛は増し加わり,彼らは引き続き迫害と患難を忠実に耐えていました。ですから使徒パウロは,第一の手紙の場合と同様に彼らをほめ,しっかりと立ち続けるよう彼らを励ましました。―テサ二 1:3‐12; 2:13‐17。

ところが会衆の中には,イエス・キリストの臨在が差し迫っているという誤った主張をする人たちがいました。パウロが書いたと誤解された手紙も,「エホバの日が来ている」ことを示唆していると解釈されたようです。(テサ二 2:1,2)使徒パウロが自分の書いた第二の手紙の真正性を主張し,「私パウロのあいさつを自分の手でここに記します。どの手紙でもこれがしるしです。これがわたしの書き方です」と述べた理由はそこにあったのかもしれません。(3:17)パウロは兄弟たちがたぶらかされて誤った教えを受け入れることを望まなかったので,エホバの日が来る前に生じるべき他の出来事について示しました。「まず背教が来て,不法の人つまり滅びの子が表わし示されてからでなければ,それは来ないからです」とパウロは書きました。―2:3。

会衆内に以前から存在していた問題に関しては,なおも注意を向ける必要がありました。パウロはテサロニケ人への第一の手紙の中で彼らにこう告げていました。「兄弟たち,あなた方に勧めます。……わたしたちが命じたとおり,静かに生活し,自分の務めに励み,手ずから働くことをあなた方の目標としなさい。それは,外部の人々との関係では適正に歩むため,またあなた方が何にも事欠くことのないためです」。(テサ一 4:10‐12)その会衆にはこの訓戒に心を留めていない人がいました。それでパウロはそのような人たちに対して,静かに生活し,自分で働いて得た食物を食べるよう命じてから,こう付け加えました。「しかし,この手紙によるわたしたちの言葉に従順でない人がいれば,その人に特に注意するようにし,交わるのをやめなさい。その人が恥じるようになるためです。それでも,その人を敵と考えてはならず,兄弟として訓戒し続けなさい」― テサ二 3:10‐15。

 

テサロニケ書簡は、第一も第二もパウロの真筆としている。第一書簡が送られてから、「その後ほどなくして」、パウロが生きているにもかかわらず、テサロニケ会衆では、パウロの使徒としての権威を無視して、「イエス・キリストの臨在が差し迫っている」という誤った主張をする会衆になっていた、としている。

しかしながら、「終末が今にも来て、その時のキリスト信者は死の眠りに着くのではなく、最後のラッパの間に一瞬で変えられ、朽ちないものによみがえらされる」と信じていたのは、ほかならずパウロ自身である。(第一コリントス155152