使徒行伝 (田川訳新約聖書の解説より)

ルカの福音書と同じ著者。同じ著作の下巻。前半はほとんどは最初期の十二使徒集団の歴史。かなり伝説的。しかし個々の事実については、十二使徒集団以外の信者に由来すると思われる点もあり、そういうものは史料として貴重。後半、13章以降はほとんどパウロ伝。しかしそのかなりの部分は著者自身が自分も現場に参加しているし、それ以外もパウロと同行した人物から聞いた話と考えられるので、歴的には第一級。

 

WTによる使徒たちの活動の解説 (洞察-1 「使徒たちの活動」の項より)

洞察-1 「使徒たちの活動」の項

これは聖書中の一つの書の名称です。西暦2世紀以来この書名が用いられてきました。この書の中では,使徒たち全員の活動全般というよりも,おもにペテロとパウロの活動が扱われています。クリスチャンの組織が目覚ましい活動を始め,当初はユダヤ人の間で,次いでサマリア人や異邦諸国民の間で急速に拡大したことについて,極めて信頼の置ける包括的な歴史を伝えています。

 

以下略

 

WTは「極めて信頼の置ける包括的な歴史」と呼んでいるが、ルカの描く図式と矛盾する点をいくつか紹介する。田川訳が「かなり伝説的」と批判する理由が理解できるだろう。

 

ルカは、キリスト教が、エルサレムにおいて、ペテロを中心とした十二使徒集団によって、ヘレニズム社会に活動が展開され、最初はユダヤ人に対し、次にサマリア人に、更に異邦人に拡張されていったという図式のもとに使徒行伝の前半を構築している。つまり、いわゆる「異邦人」に積極的に伝えるようになったのも、最初はペテロであり(10章のコルネリオ物語)、それを引き継いで発展させたのが使徒パウロである、という構図になっている。

 

実際にはすでにヘレニストたちがペテロ以前に、パウロと同等ないしそれ以上に活発に「異邦人」にキリスト教を伝えていたと思われる痕跡が使徒行伝そのものに残されている。

すでに使徒6:1で「ヘブライ語を話すユダヤ人」(キリスト教ユダヤ人=使徒集団派)と「ギリシャ語を話すユダヤ人」(ヘレニスト)との対立について述べられている。その後ステファノの殉教が起きるのであるが、ユダヤ教ユダヤ人の殺意を抱くような激しい迫害は、ヘレニストだけに対するものであり、使徒集団を中心とするキリスト教ユダヤ人に対しては行なわれていない。使徒5章にはペテロたちが神殿で大祭司たちから迫害を受けたことが記録されているが、その後も「神殿」で、キリスト・イエスについての良いたよりを宣明しつづけている。(5:42)

 

ヘレニストの良いたよりの内容が殺害されたステファノの証言から理解できる。「聖なる場所(神殿)と律法(旧約)に逆らう事柄を語り、イエスが神殿を破壊し、モーセの習慣を変える」と証言していた。(6:13-14)ユダヤ教崇拝の支柱である「神殿」と「律法」の崩壊を宣言していたからこそ、神殿に依存していた大祭司や神殿貴族らの逆鱗に触れ、殺害されたのである。

 

使徒たちと共に行動していたキリスト教ユダヤ人たちは、相変わらず「神殿」でキリスト・イエスについての良いたよりを宣明し続けていたのであるから、「神殿」の存在と「律法」の有効性は否定することなく、擁護していたのであろう。それゆえ、エルサレムから散らされることがなかったと思われる。

 

いずれにしても、ペテロたち使徒集団のキリスト教徒は、エルサレムにとどまっていたのであり、エルサレムを離れてキリスト教を拡大させた主役は、ギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)たちであったことが理解できる。

 

そのヘレニストの一人に、「アンティオキアの改宗者ニコラオ」(6:5)がいる。つまりニコラオは異邦人であるが、アンティオキアの町にいた時にユダヤ教に改宗したのだが、仕事か何かでエルサレムに来ていた時に、ユダヤ教からキリスト教に改宗したということである。彼がアンティオキアに戻り、ペテロたちの「良いたより」ではなく、ヘレニストの「良いたより」を伝えた可能性は十分にある。

パレスチナからフェニキアの諸都市、それにシリアのアンティオキアまであっという間にキリスト教を広めていったのはユダヤ教の伝統に鋭い批判を突き付けたヘレニストたちである。

 

パウロ以前にキリスト教が異邦人世界にも広く広まっていたことを示す証拠は、ほかならぬパウロの改宗時の状況からも明らかである。

 

パウロが、大祭司の許可を得て、ダマスカスに向かったのは、キリスト教徒を殺害しようとするためであった。その時に幻により復活したキリストから直接証言を受け、キリスト教に改宗したという。(9:1-9)

 

つまり、その時点ですでにダマスカスにはキリスト教徒が存在していた、ということになる。わざわざエルサレムから大祭司の命を受け弾圧しに行くのであるから、数人というのではなく、ユダヤ教を脅かすほどの規模でキリスト教徒が活動していたのであろう。パウロのキリスト教改宗以前のことである。ペテロたちはエルサレムの「神殿」や「家から家」で活動していただけである。エルサレムから外に出てキリスト級を仕えた形跡は全くない。エルサレムから始まったキリスト教をいったい誰が彼らに伝えたのだろうか。

 

ダマスカスはディアスポラの一つであり、このキリスト信者たちの中心はギリシャ語を第一言語とするユダヤ人たちであると考えられる。

 

異邦人伝道は、ペテロによって開拓されたものでも、パウロが新たに道を切り開き、進展させたのでもなく、ヘレニストたちによって、すでにエルサレムの使徒集団のキリスト教とは対立する仕方で、ヘレニズム社会に広く伝播していた構図が見えて来る。

 

ユダヤ地方内陸部においても、サマリアにキリスト教を伝えたのはペテロたち十二使徒集団ではなく、「ヘレニスト」の一人フィリポである。(8:5~)ペテロとヨハネはと言えば、フィリポの手柄を横取りするように、「聖霊を受けるように」と祈っているだけである。(8:14-17)

ペテロは、ルダ(9:32とヨッパ(9:36)にも出かけているが、その地で彼がキリスト教を開いたのではない。すでにかなりのキリスト信者が存在していた土地を訪問して、使徒の権威をふりまわしているだけである。

 

フェニキア地方の諸都市についても同じである。(11:19)ここもギリシャ語の都市であり、ヘブライ語を話すユダヤ人であるペテロたち十二使徒集団が宣教活動のために足を伸ばした可能性はまったくない。

 

アレクサンドリア出身のアポロがキリスト教宣教師として小アジアの港町エフェソスに宣教活動に訪れている。(18:24~)彼は、コリントス書簡でパウロから名指しされている人物であり(第一コリントス1,3章)、パウロと拮抗するほどの活動をしていた人物である。つまり、パウロが活動している時点で、アレクサンドリアには、他の町に宣教師を派遣するほどのキリスト教会が活動していたのである。アポロがエフェソスに来たのはパウロの第三回伝道旅行の最初のころである。それよりはるか以前にペテロやパウロとは無関係のキリスト教がアレクサンドリアには存在していたのである。

 

使徒行伝は、キリスト教の活動をペテロたち十二使徒集団を中心に興り、パウロを中心に異邦人世界へと広まったという構図に書き直しているが、その構図には当てはまらない事実が浮かび上がって来る。

 

WTが言うような「極めて信頼できる歴史」などではなく、特に前半は、単に「包括的」な歴史であり、使徒権威主義に構図化した物語を織り交ぜているようだ。