●「言葉のことで争わない」ことは、「是認された者」また「真理の言葉を正しく扱う」ことになるのですか。(テモテ第二21415より)part 2


 


原文の13節には、「覚えていよ」という動詞に続いて、「強く証言しなさい」という動詞が続いている。原文: tauta hypominneske diamartyromenos=these(things) be-you-reminding-under bearing-thorough-witness


繰り返しになるが、ここにも原文では「彼らに」という語は付いていない。


 


田川訳「強く証言する」、NWTが「言い渡す」と訳しているギリシャ語は、diamartyromaiという語。「証人」(martyros)を動詞化し(martyromai)、強意の意味で接頭語diaをつけたものである。


 


接頭語が付かないmartyromaiという動詞は「(裁判などで)証言する」という意味を持つが、接頭語が付くと「他人の証言に対して反対の証言をする」という意味で用いられる。


dia(字義的には「通して」)が付くのは、反対証言の場合にはより強く断言する必要があるからだろうが、そこから派生して、より広義に「反対する、反対意見を主張する」という意味になり、さらに「反対」の意味も消え、「荘重に、強調して、証言する、宣言する」の意味でも用いられるようになる。


新約のギリシャ語としては、最後の「証言する、宣言する」という意味で用いられており、裁判における判決などを「言い渡す」という意味ではない。


 


つまり、「これらのこと」すなわち「8‐13節のイエス・キリストについて覚えているべきこと」を、「彼らに」言い渡すのではなく、「あなた自身」が、「神の前で強く証言する」つまり「宣言しなさい」という意味に解する方が、文法的には素直である。


 


KIでもこの語に関して、字義的には、bearing-thorough-witness(徹底的な証言をする)と訳している。英訳が、charging them before God as witnessとし、「彼らに言い渡す」と、欽定訳と同じように解釈を加えた訳にしているのである。


 


ちなみに「強く証言する」(田川訳)「言い渡す」(NWT)の目的語は、14節の冒頭にある「これらのこと」(tauta=these)である。直後の「覚えていよ」(田川訳)「思い出させなさい」(NWT)という動詞の共通の目的語となっている。一つの目的語を二つの動詞で共有するのは、西洋語では極めて多く見られるごく普通のことである。


 


NWTだけでなく多くの訳はdiamartyromaiの目的語として、続く不定詞「言葉の争いなぞしない」(田川訳)「言葉のことで争わない」(NWT)だと解釈して訳しているが、文法的に無理である。独立不定詞構文と解するのが文法的には正しいようである。(詳しく知りたい方は訳と註を参照)


 


つまり、14‐15節は、パウロがテモテに対して、「教会の指導者たち」あるいは「一般の信者たち」に、キリスト信者としてのあるべき倫理感を「思い出させる」ために、あるいは「言い渡す」ために、書き送ったものなどではない。あなたが覚えているイエス・キリストについての信仰告白(8‐13節)を「神の前で」というのだから、実際には自分が「公衆の面前で」はっきり宣言しなさい、という意味に解するのが素直であろう。


 


牧会書簡の著者は、正統派パウロ教の信者に対して、「検証された者」として、「言葉の争いなぞしないで」、「真理の言葉を言い切る者」であるように勧めている。(田川訳)


NWTによれば、「是認された者」として、「言葉のことで争わないように」すべきであり、「真理言葉を正しく扱い」、「力を尽して励む」ように、指示している。


 


「言葉の争いをする」(logomacheo)という動詞は、「言葉」(logos)+「争い、闘い」(mache)をくっつけて動詞化した合成語である。


 


NWTが「是認された者」と訳している語は、パウロがお好みのdokimosという形容詞を名詞化して使っているのだが、「証拠によって検証に耐えうることを証明されている」という趣旨である。


 


「言い切る者」(田川訳)、「正しく扱う」(NWT)と訳している語は、orthotomeoという動詞の分詞形で、「(直線的に)まっ直ぐ」(orthos)+「切る」(temno)という動詞をくっつけた合成語である。


 


ちなみに、「まっ直ぐ」orthosは、後の時代に「考え」(doxa)とくっつけて、「正統主義」(orthodox)の語源となった語である。


 


古代でも現代でも、世界のどこでも、排他的正統主義を目指す者たちとは、語源的に、脇目もふらずに、ただ自分たちの「考え」だけを「まっ直ぐ」に切り裂いていけばよい、と主張するものであるらしい。


絶対に他人の言葉に耳を傾けることはしないし、批判的な議論に関しては、最初から排除しようとするのが、「是認された者」(NWT)が取るべき道だと主張なさる。


正統主義信奉者というものは、しっかりと意見を交わし、議論を重ね、正しい理解に到達するように証拠を提出しながら、真の意味で「検証された者」となることではないようである。


 


正統主義を標榜するこの著者は、キリスト教に関する別の考えがあったとしても、NWTによると「言葉のことで争わないように」。聴いてしまうなら、覆されるだけで、「何の役にも立たない」。むしろ、「是認された者」となるためには、一方的に「真理の言葉を言い切る」(田川訳)のが最善で、それこそが「真理の言葉を正しく扱う」ことだと仰っているのである。


そういう意味では、WTとJWはまさに「正統主義」の「正統主義者」であろう。


 


聖書のすべての言葉が神の霊感を受けていることを信じ、聖書霊感説を信奉し、自称「神の組織」の一員であることを誇りに思い、異なる意見を「言葉の争い」と切り捨てる「正統主義者」。他の考えを検証もせずに自組織の教理を一方的に主張するだけであるのに、神から「是認された者」であるとの誇りを持ち、自分たちだけが、「真理の言葉を正しく扱う、何ら恥ずべきところのない働き人」であると主張なさる。


 


NWTによると、「神の堅固な土台は不動」であり、「エホバはご自分に属する者たちを知っておられる」のであり、「すべてエホバのみ名を唱える者は不義を捨てよ」という証印が付いていると言っている。(テモテ第二2:16)


 


数年で、場合によっては数カ月で、新しい光により教理が変更になるような解釈は、不動であるはずの「神の堅固な土台」の上に立っているものなのだろうか。


 


WTは、文脈をよく読み聖書を理解することを強く勧めているのであるから、本当に聖書を愛し、「神の堅固な土台」の上に組織が立っているのであれば、是非とも聖句に関する不動の解釈と不動の教理を光らせてほしいものです。数カ月や数年で、光が闇に変わるような解釈や教理は、本当の光のもとから発せられた光なのでしょうか。


 


また、本当に神を愛するのであれば、「不義を捨てよ」との言葉を短絡的に「組織の指示に従うこと」という意味には変換しないことでしょう。そのような短絡的な変換は、神を愛することではなく、組織を愛することであり、組織を偶像とする偶像崇拝の道を歩むことに他ならないように思う。


 


まあ、信じることも、信じないことも、どちらも信仰であり、信仰の自由であるが……。