●「言葉のことで争わない」ことは、「是認された者」また「真理の言葉を正しく扱う」ことになるのですか。(テモテ第二21415より)part 1

 

 

 

WTの指示によるとJWは、野外でも会衆内でも、直接聖書に反していなくても、一致を脅かす考えを持ち込むことは、「言葉のことで争いわないように」あるいは「むだ話からは遠ざかりなさい」という助言に反することであるから、議論をしないように、強く勧めている。

 

 

 

特に非聖書的な教えに直面したときには、出どころがどこであっても断固とした態度で退けるべきである、と指示されている。(WT14/7/15,p14:9-10参照)

 

 

 

非聖書的とは、WT見解だけが「聖書的」という前提での表現であるが、その「聖書的な教え」も、新しい光に基づく解釈変更が生じると、聖書的であるとされていたものでさえ、非聖書的となるだけの話である。

 

 

 

つまり、WTには絶対的な意味での「聖書的」解釈は存在しないのではあるから、具体的な教理や具体的な聖句解釈を無視して一般化できる「聖書的な教え」も「非聖書的な教え」も存在しえないはずである。

 

 

 

要するにWTにおける「聖書的」「非聖書的」という表現は、一種のムードだけの幻想であり、必ずしも実体が伴うものではない。聖書に関する正確な知識によるものでもない。

 

 

 

JWの個々人によって、「聖書的」「非聖書的」の内容が異なることも多いものであるから、そもそも一致するはずがない。それにもかかわらず、「一致を脅かす」ことになることを、「議論をしない」ことの論拠の柱に据えるのは本末転倒である。

 

 

 

また、長老たちには「言葉のことで争わないよう」、会衆の成員を訓練する責任が与えられている、と訓戒している。(WT03/1/1,p28参照)

 

 

 

実際、野外奉仕で、「家の人と議論することを避けるのは、間違った考えすべてを論破するのではなく、神の王国の良いたよりを宣ベ伝えること」であるからと教えられている。(KM06/11他)

 

 

 

WT教理に同意しない人間を一方的に「背教者」と認定し、「間違った考え」を持っているという前提に論議を進めているだけに過ぎないが、聖書で読んだ事柄の文脈を考慮することは「真理の言葉を正しく扱う」助けになる、としている。

 

 

 

果たしてテモテ書簡の著者は、会衆の長老たちに、あるいは一般の信者たちに、「言葉のことで争わないように」と言い渡すよう、とテモテを通して助言していたのだろうか。

 

 

 

どのような意味で、「言葉の争い」と表現したのだろうか。

 

 

 

果たして、「言葉の争い」を避けることが、自分自身を「是認された者」、また「真理の言葉を正しく扱うこと」になるのだろうか。

 

 

 

まず、当該の個所における田川訳とNWTを比較してみる。

 

 

 

テモテ第二2:14-15

 

14これらのことを覚えていて、神の前で強く証言しなさい言葉の争いなぞしないで。言葉の争いは何の役にも立たず、聞く者たちの破壊になりかねない。15自分自身を検証された者として、恥ずべきことのない働き人として、また真理の言葉を言い切る者として神に提示できるように努めなさい。(田川訳)

 

 

 

14これらのことをいつも彼らに思い出させなさい言葉のことで争わないようにと、証人である神のみ前で彼らに言い渡しなさい。それは聴いている者たちを覆すだけで、何の役にも立たないのです。15自分自身を、是認された者、また真理の言葉を正しく扱う、何ら恥ずべきところのない働き人として神に差し出すために、力を尽して励みなさい。(NWT)

 

 

 

「これらのこと」とは、前段の8‐13節の「イエス・キリストのこと」を指している。念のため、こちらも書き出しておく。

 

 

 

イエス・キリストのことを思い出せ。私の福音によれば、イエスは死人のうちより甦った方、ダヴィデの胤の出である。この福音の故に私は悪を忍び、悪を働く者であるかのように縄目を受けるにいたった。しかし神の言葉は繋がれてはいない。10この故に、私は選ばれた人たちのために一切を忍耐する。彼らもまたキリスト・イエスにおける救いを永遠の栄光とともに得るためである。11この言葉は信実である、「もしも我々が共に死んだのであれば、共に生きるであろう。12耐え忍ぶならば、共に王となるであろう。否定するならば、彼もまた我々のことを否定するだろう。13我々が不信実であるとしても、彼は信実でありつづける。彼がみずからを否定することはありえない」、という。(田川訳)

 

 

 

わたしが良いたよりとして宣ベ伝えたとおり、イエス・キリストが死人の中からよみがえらされたこと、またダビデの胤に属する方であることを覚えていなさいその[良いたより]のことで、わたしは悪行者として[獄に]つながれるまでの苦しみに遭っているのです。しかしそうではあっても、の言葉がつながれているわけではありません。10そのゆえにわたしは、選ばれた者たちのためにすべての事を忍耐してゆきます。彼らもまた、キリスト・イエスと結びついた救いを、永遠の栄光と共に得るためです。11次のことばは信ずべきものです。「共に死んだのであれば、わたしたちはまた共に生きるのである。12忍耐してゆくなら、わたしたちはまた共に王として支配するようになる。もし否むなら、彼もまたわたしたちを否まれる。13たとえわたしたちが不忠実でも、彼は引き続き忠実であられる。彼は自分を否むことができないからである」。(NWT)

 

 

 

13節の「これらのこと」とは、8‐13節の内容を指しているが、田川訳では「これらのこと」を「自分が」「覚えていて」という趣旨になっているのに対し、NWTでは「彼らに」「思い出させなさい」という命令文になっている。

 

 

 

この「彼ら」を教会の指導者と解するなら、「長老たちに思い出させなさい」という意味になるし、一般のキリスト信者と解するなら、「すべてのクリスチャンは覚えているべき、あるいは思い出すべきだ」という趣旨になる。

 

 

 

しかし、原文には「彼らに」という語はない。

 

 

 

この「覚えている」「思い出させる」(hypomimnesko)という動詞は、人間を表わす語を目的語に置けば、「(その人に)思い出させる」という使役の意味を持つが、事柄を表わす目的語を置けば単に「(その事柄を)覚えている、あるいは思い出す」という意味の他動詞になる。

 

 

 

「○○に××を思い出させる」という意味になる場合には、必ず人間を表わす目的語を置くのがギリシャ語文法の基本である。実際この語を使った新約の個所でも必ず人間を表わす目的語が置かれている。(ヨハネ14:26、テトス3:1、第二ペテロ1:12、ユダ5参照)

 

 

 

繰り返すが、原文のこの個所には、人間を表わす目的語は付いていない。「これらのこと」の内容を示す直前の8‐13節の中には、「教会の指導者」に関する記載は何もない。著者が宛先としているテモテ、あるいは、公開書簡とみなせば、すべてのキリスト信者が持つべきイエス・キリストに関する精神態度に関する記述だけである。

 

 

 

つまり、文脈からすれば、13節の文を「教会の指導者」に対する指示と解釈して、「彼ら」を補うべき文法的な理由はどこにも存在しない。

 

 

 

この原文にない「彼ら」を「教会の指導者」と解するためには、2節の「信実な人々」(田川訳)「忠実な人々」(NWT)まで遡らなければならず、ますます文法的には無理がある。

 

 

 

要するにNWTが堂々と「彼らに」と本文であるかのように訳している語は、WTの「聖書的」解釈に基づき意味上補った語である。それにもかかわらず[ ]も付けずに、原文にある語であるかのように装っていることは「非聖書的な考え」ではないだろうか。

 

 

 

しかしながら、原文にはない「彼ら」という目的語を補って訳すのはNWTだけではない。

 

口語訳「あなたは、これらのことを彼らに思い出させて」。

 

新共同訳「これらのことを人々に思い出させて」。

 

その他和訳では、岩波訳、新改訳、前田訳、塚本訳、文語訳も同様である。欽定訳の影響を受けたほとんどの英訳も同様であり、[them]を補っている。

 

RSV: Remind them of this

 

TNT・KJV・ASV: Of these things put [them] in remembarance

 

 

 

「強く証言する」(田川訳)、「言い渡す」(NWT)も同様である。多くの訳が、原文では、「覚えている」(田川訳)「思い出させる」(NWT)という動詞の次に出てくるこの動詞にも、「彼らに」という語を付加して訳している。

 

 

 

文法的には間違いであるにもかかわらず、何故「彼ら」(人々)という語を補って解釈されてきたのか。

 

 

 

ギリシャ語の「強く証言する」(diamartyromenos)を、ルターは、bezeugen(証言する)と訳しているし、ティンダルも、testify before the Lordと「彼らに命じる」という意味には訳していない。欽定訳が、charge themthemを入れて訳している。

 

 

 

欽定訳が themを入れた理由は不明だが、英語訳が欽定訳を踏襲した理由は、牧会書簡が聖パウロから直弟子のテモテを通じて教会の指導者たちに必要な教訓を与えるために書かれた書簡であるという護教主義の刷り込みを前提に読もうとするからであろう。

 

 

 

牧会書簡をパウロの真正書簡であるとしたい正統派護教主義者は、疑似パウロ書簡であることを認めたくないし、他人の名を語って書いた人物の偽書簡が正典となっていることを知られたくない。正典信仰、聖書霊感説の信憑性が崩れることになることを懸念している。

 

 

 

それゆえ、ここは、「あなた」(テモテ)が教会の指導者たちに次のように指示しなさい、という意味だと解するために書かれた文章を読もうとするのであろう。

 

 

 

つまり、書かれている文章をそのまま読もうとするではなく、自らが信じたい事柄を前提として、辻褄が合うように文章を改竄したのである。

 

 

 

果たして、この行為や考えは、「聖書的」なのであろうか、それとも「非聖書的」なのであろうか。「真理の言葉を正しく扱う、何ら恥ずべきところのない働き人」が「力を尽して励ん」だ結果なのであろうか。

 

 

 

8節では、はっきりと「あなた」に対して、「イエス・キリストのことを思い出せ」(動詞が二人称命令形)(田川訳)と宣言している。

 

 

 

NWTでは「イエス・キリストが……こと……ことを覚えていなさい」と間に動詞の目的語となると解釈している句を挟んで和訳しているから解り難いが、原文の8節の冒頭は、mnemoneue iesoun christen=Be-you-remembering Jesu Christとなっている。

 

 

 

KIでも確かめられるので、文脈から聖書を理解することが「真理の言葉を正しく扱う者」であると自負しておられるJWの皆さんには確認して欲しいものです。

 

 

 

8節の「思い出す」(mnemoneuo)と13節の「思い出す」(hypominesko)とは別の動詞である。しかし、「思い出す」という意味の動詞は接頭語のつかない形(mimnesko)()()だけでなく、ana-,hypo-という接頭語のついた形も存在するが、どちらも同義である。8節の「思い出す」も同義で使っているものと思われる。

 

 

 

そして、文脈からすると、思い出すべき内容、あるいは覚えている内容を8‐13節で述べている。

 

そしてこの個所で、もう一度「これらのことを覚えていよ」あるいは「思い出せ」というのだから、この「これらのことを覚えていよ」とは、8節の「イエス・キリストのことを覚えていなさい」ということを繰り返しているのだろう。

 



part 2に続く