●本当にやもめの世話をする気があったのだろうか。

第一テモテ書簡における矛盾。

 

WTは、「汚れのない崇拝の方式」の条件として、ヤコブ書を引き合いに出し、「孤児ややもめをその患難のときに世話すること」(1:27)を信者に要求していると教えている。

 

さらに「み言葉を聞いても行なわない人」は「虚偽の推論によって自分を欺く者」であるのだから(ヤコブ1234)、「自分では正しい崇拝の方式に従う崇拝者であると思っていても」、「その人の崇拝の方式は無益です」(1:26)と、言葉だけで綺麗事を言うのではなく、困難な状況にある人たちに、必要な助けを実際の行動によって示すことが大切である、というのである。

 

その通りであると思う。

 

NWTがヤコブ1:26で「正しい崇拝の方式に従う崇拝者」と訳しているギリシャ語は、threskosという一単語の名詞である。原文に「正しい」という語があるわけではない。KIはformal woeshiper(英訳:a formal worshiper)と訳したものを、和訳がformalを「正しい」と訳したものである。

 

このギリシャ語自体は、ほかに用例は見当たらず、新約でもこの個所だけである。しかし、同根の動詞(thre(_)ske(_)o)と抽象名詞(thre(_)skeia)はよく用いられ、宗教行為を指す表現である。神殿にお参りに行ったり、捧げ物をしたり、シナゴグや教会に熱心に通って礼拝に参加したりして、何らかの宗教行為に実際に携わることやその行為を指している。それをNWTは「正しい」と表現したのであるが、むしろ「熱心な」という感じである。「正しい」とすると、ほかの「崇拝の方式」は「間違っている」ことを意味することになるが、この語にそのような排除や偏狭な精神を限定する意味はない。

ヤコブ書のこの表現は、「自分では正しい崇拝の方式に従う崇拝者」であると主張するキリスト教の宗派が存在していたことを前提としている表現である。「清い」(katharos)、「汚れのない」(amiantos)という語を用いて批判していることからして、この自画自賛宗教行為に熱心な連中とはパウロ派キリスト教を指していることは明らかである。ヤコブの書の著者としては、彼らが、自分たちの宗教活動を「清い、汚されていない」行為だと自慢していたとしても、現に生活に困っている孤児ややもめをほっといておいて何が宗教行為だ、と言いたいのだろう。

 

そのパウロ派の文書の一つである第一テモテ書簡の中には、教会が援助すべき「やもめ」に関する具体的な指示が納められている。WTはパウロの著作としているが、著者が本当に「正しい崇拝の方式に従う崇拝」を実践したいと思っていたのかどうか検証してみたい。

 

第一テモテ5316である。

本当にやもめであるやもめを敬いなさい。しかし、やもめに子供や孫がいるなら、彼らにまず、自分の家族の中で敬虔な専心を実践すべきこと、そして親や祖父母に当然の報礼をしてゆくべきことを学ばせなさい。これは神のみ前で受け入れられることなのです。さて、本当にやもめで窮苦にある女は、神に希望を置いており、夜昼ひたすら祈願と祈りを続けます。しかし、肉感を満たすことにふける女は、生きていても死んでいるのです。それで、こうした命令を絶えず与えなさい。その人たちが、とがめられるところのない者となるためです。当然のことですが、自分に属する人々、ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら、その人は信仰を否認していることになり、信仰のない人より悪いのです。

六十歳以上のやもめを名簿に載せなさい。それは、一人の夫の妻で、10子どもを養育し、見知らぬ人をもてなし、聖なる者の足を洗い、患難にある人を助け、あらゆる良い業に勤勉に従ったなど、りっぱな業に対する証しを立てられている人です。

11それに対して若いやもめは断りなさい。その性的な衝動が自分とキリストの間を隔てると、彼女たちは結婚することを望むようになり、12自分の初めの信仰の表明を無視して裁きを受けるようになるからです。13同時に、彼女たちは何もしないでいることも覚え、家々をぶらつき回ります。14それでわたしは、若いやもめが結婚し、子供を産み、家庭をあずかり、反対する者に悪口の誘いを与えないようにすることを望みます。15事実、ある人たちはすでにそれて行ってサタンに従うようになりました。16もし信者である婦人のもとにやもめたちがいるなら、その人に彼女たちを助けさせ、会衆がその重荷を負わなくてもよいようにしなさい。そうすれば、会衆は本当にやもめである人たちを助けることができます」。(NWT)

 

この個所は、著者が積極的に「やもめ」を支援しようと呼びかけているように考えるJWがいると思うが、実はそうではない。むしろ、教会が支援する「やもめ」を出来る限り制限しようとする意図のもとに書かれたものである。

 

その理由を、説明する。あえてNWTの表現を中心に論議を進めていく。

 

まず、「本当にやもめであるやもめ」(5:3)という言い方である。この言い方は、「やもめとして敬う」、すなわち実際の生活支援を行なうという教会制度がすでに存在していたのであるが、その対象となるのは「本当にやもめであるやもめ」でなければならない、という趣旨である。「本当に」とある以上、著者が考える「本当にはやもめではないやもめ」の存在が前提となっている表現であるからである。

 

著者は「やもめに子供や孫がいるなら、まず彼らに」世話をさせなさい、という。つまり、子供や孫がいるやもめは「本当にやもめであるやもめ」の名簿から除外されることになる。

 

NWTによれば、「肉感を満たすことにふける女」(5:6)も除外されることになる。しかし、やもめである女性が「肉感を満たすことにふける」ことがあるのであれば、JW的には教会の援助の名簿に載せられるどころか、クリスチャンとしての資格問題となるのではなかろうか。わざわざ資格の条件としてあげるようなことではないように思う。

 

田川訳は「肉感を満たすことにふける」と訳しているギリシャ語(spatalao(_)という動詞の現在分詞)を「贅沢をしている」と訳している。伝統的に「みだらな生活をする」(口語訳)「放縦な生活をする」(新共同訳)という意味に解されてきたが、70人訳の用例からしても、何らかの意味で「贅沢をする」「飽食する」という意味であろうという。(詳細を知りたい方は田川訳の註を参照してください)

 

この個所はやもめの話であるから、贅沢な生活をしているやもめを教会が生活支援をする必要はない、という意味になるから、十分話が通じる。本当にやもめであるやもめ以外は、すべて「肉感を満たすことにふける女」であると決めつけるより、はるかに現実的でもある。

 

それ以外にも「本当のやもめ」とは、著者が考える条件をパスしたものでなければならないのであり、具体的な条件が5910に提示されている。

 

「本当のやもめ」とは、60歳以下という年齢制限だけでなく、「りっぱな業に対する証しを立てられている人」でなければならず、その中には、「子供を養育し」、「見知らぬ人をもてなし」、「聖なる者の足を洗い」、「患難にある人を助け」、「あらゆる良い業に勤勉に従う」(5:10)ことなどの条件を満たす必要があると指示している。

 

「若いやもめ」に関しては、名簿に載せて援助することを「断わり」(5:11)、「結婚し、子供を産み、家庭をあずかる」(5:14)ように勧めている。

 

ちょっと考えただけでも、ほとんどのやもめが援助の対象から除外されることが理解できるだろう。一体、教会の援助対象となる「本当にやもめであるやもめ」とは、どんな人なのであろうか。

 

「やもめ」に子供や孫がいるなら、対象にはならない(5:4)。しかし、名簿に載せるべきやもめとは、「子供を養育したやもめ」でなければならないという(5:10)。

「子どもを養育したやもめ」であるなら、当然子どもがいるはずであり、やもめが60歳以上であるなら、孫がいるかもしれない。著者は、それならやもめの面倒は、子どもや孫に世話をさせなさい。それが敬虔な専心を実践することだ、という。

 

「子どもを養育したやもめ」の中で60歳以下のやもめは名簿に載せるのではなく、結婚し、つまり子連れで再婚し、新しい家庭を持ち、子どもを産みなさい、と勧めている。

 

しかも、名簿に載せられて実際の援助を受けられるためには、「あらゆる良い業に勤勉に従った」というお墨付きをもらってなければならない、という。

 

ご主人を亡くし、生活手段が奪われ、やもめとなってしまったのである。生活が困窮であるから、自分に生活支援が必要なのに、どのようにして「見知らぬ人をもてなしたり」、「聖なる者の足を洗い」、「患難にある人を助ける」ことができるのだろうか。

 

「聖なる者の足を洗う」ことが、教会から援助を受けるための条件となっているが、イエスは、弟子たちに「聖なる者の足を洗え」と指示したのではなく、自らがユダを含め弟子たち全員の足を洗った(ヨハネ13章)と記録されている。

 

それにもかかわらず、この著者は、「本当のやもめ」として、教会から援助を受けたいのであれば、「聖なる者の足を洗え」と言っているのである。イエスご自身は、自らの手で「弟子たちの足を洗って」、謙遜さと愛の手本を残し、「あなた方の間に愛があれば、それによってすべての人は、あなた方がわたしの弟子であること知るのです」(ヨハネ1335)と言われたと記録されている。

 

それなのに、第一テモテ書簡の著者は、「聖なる者たちの足を洗った」のでなければ、教会が援助するやもめの名簿に載せてはならない、と言う。

 

しかも、「もし信者である婦人のもとにやもめたちがいるなら、その人に彼女たちを助けさせなさい」(516

 

どう考えても、第一テモテ書簡の著者は、初めから「やもめ」を援助するつもりなどないのであろう。516にその本音が出ており、「会衆がその重荷を負わなくてもよいようにしなさい」と述べている。「やもめ」を世話することは、著者にとっては「重荷」となる事柄だったのである。

 

その上で、「当然のことですが、自分に属する人々、ことに自分の家の者に必要な物を備えない人がいるなら、その人は信仰を否認していることになり、信仰のない人より悪いのです」(58)と教会に援助を求めようとする人を断罪しているのだ。教会からだまし取ろうというのではなく、困難な状況にある人が助けを求めているにもかかわらず、排除しようしているのである。

 

そのどこに、労苦し、荷を負っている人が、自分の魂にとってさわやかなものを見出す(マタイ11:28)ことができるのだろうか。イエスの精神とは似ても似つかないような精神が新約聖書と呼ばれている正典の中に納められているのである。

 

以上を考慮すると、ヤコブ書の著者が、パウロ派のキリスト教を念頭に、「わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難の時に世話すること、また自分を世から汚点にない状態に保つことです」と批判していることが理解できるのではなかろうか。

 

聖書は決して矛盾のない一貫した主題で貫かれている書物などではないようである。

 

 自分では正しい方式に従う崇拝者であると思っていても、自分のこころを欺いている人がいれば、その人の崇拝の方式は無益なのではないだろうか。

 

 

(それでも、聖書全巻は神の霊感によって書かれたものであることを信じ、聖書に書かれている助言はすべて愛に基づいていると信じるのも、自由でしょう。ただし異なる見解を否定し、ご自分の見解を主張なさるのであれば、反論を論証する必要があるのではないだろうか。

自分が信じるから真実なのだ、とあくまでも強弁することが正しいことであると言うのなら、それは明白な論証を伴う信仰ではないように思う。JWが盲信と揶揄する、信じたいことを信じるだけの世の人の信仰と何ら変わりはないのではなかろうか。)

*9/2の初稿では批判的すぎると思い、削除した部分を追記しておきます。9/5

 

それでも矛盾を矛盾とも感じない強い信仰をお持ちの方は、どうぞご自由に。ただし、自己責任で、ご自分の信仰を強めてゆかれますように。