●第二テサロニケ書簡は、誰が何のために書いたのか。

 

第二テサロニケ書簡は、第一書簡と共通の冒頭のあいさつや結びの表現があり、パウロによって書かれたものに間違いない。その目的は、「キリストの臨在が差し迫っている」という誤った情報を信じた人を正すためである。そのような偽情報は「パウロからの手紙」として「エホバの日」が近いと惑わすが、信じてはならず、静かに生活し、自分の務めに励み、手ずから働くことを目標とするように、促すためである、とWTは教えている。(洞‐2、P271、テサ②2:1,2、3:10‐12参照)

 

その見解に従えば、パウロが生きている時に、すでに疑似パウロ書簡が跋扈しており、偽情報に踊らされるキリスト信者が会衆内にも存在していたことになる。それでも、第二書簡の著者は、パウロからのものと信じられている偽の手紙を信じているキリスト信者に対して、特に注意し、交わるのをやめるが、敵とは考えず、兄弟と訓戒するように勧めている。(31415

 

第二書簡が書かれた時代に、「パウロからのもの」とされる一体「どんな偽情報」が信じられていたのだろうか。

 

第二テサロニケの著者が批判した終末思想は、どの書簡に見出せるのであろうか。終わりがすぐにでも来るかのように説教していたのは、ほかならぬパウロ自身である。

 

第一テサロニケ41318で、復活と主の来臨の時の出来事を語っているが、1517節から明らかなように、パウロ自身が、自分の生きている時代に主の来臨が来る、と信じていたことを示している。

 

15事実、我々があなた方にこのことを言うのは、の言葉においてである。すなわち主の来臨の時まで生きて残っている我々が、すでに眠った人たちよりも先になることはない。16すなわち、主御自身が大天使の声と神のラッパの合図と共に天から下って来る。そしてキリストにある死者たちがまず復活する。17それから我々生きて残っている者たちが彼らと共に雲の中へと連れ去られ、空中で主と出あうことになる。こうして我々は常に主とともにいることになるのである。18だからあなた方はこの言葉において互いに呼びかけあいなさい。」(田川訳)

 

15の臨在[の時]まで生き残るわたしたち生きている者[死んで]眠っている者たちに決して先んじないということ、これが、エホバ言葉によってわたしたちがあなた方に伝えるところなのです。16ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると、キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです。17その後、生き残っている私たち生きている者が、彼らと共に、雲のうちに取り去られて空中でに会い、こうしてわたしたちは、常にと共にいることになるのです。18それで、この言葉をもって互いに慰め合ってゆきなさい。」(NWT)

 

パウロが「福音」を伝えるようにと託されたと主張した「主」とは「イエス」のことである。パウロが直接神から「言葉」をもらった、託宣されたという聖書の記述はないが、NWTは「主」を「エホバ」と書き換えている。原文に「エホバ」とあるわけではない。ここの「主」を「神」と解し、固有名詞に書き換えたのである。

 

もっともこの「エホバの言葉」とは「聖書」の意味に読ませたいのであろうが、この時代にまだ新約聖書は存在していない。旧約も正典化されてはいない。パウロが旧約の預言者のように「神の言葉」を託されたのであるとすれば、イエスが最後の預言者であることを否定することになる。

 

いずれにしても、パウロは「主の再臨」が近い時代に自分が生きていると信じていたし、同じ信仰を持つようにキリスト信者に説いていたことは明らかである。

 

第一テサロニケ書簡は、パウロが最初に書いた手紙であるが、第二書簡はすぐ後に書かれているとWTは解く。その根拠の一つは、どちらの書簡にも、パウロとシラスとテモテの三人が一緒にいたことになっているからである。(テサ①1:1、テサ②1:1)

 

聖書中でこの三人が共いたのは、第二回宣教旅行において、パウロのいるコリントにシルワノスとテモテが下って来た時だけである。(使徒1815参照)

 

以上の背景を頭に入れて、第二書簡に話を戻すと、奇妙なことに気付く。

 

第二書簡の著者が批判しているのは、「主の日」がすでに来ているなどと信じ、動揺したり、興奮したりしているキリスト信者たちに対するものであった。

 

「兄弟たちよ、あなた方にお願いする。我らの主イエス・キリストの来臨と、我らがそのもとに結集することについてである。霊により、あるいは言葉により、あるいは我々よって(書かれた)という手紙によって、主の日がすでに来ているなどと、理性からはずれて慌てて動揺したり、狼狽したりしないように。いかなる仕方でも、人に騙されてはいけない。」(田川訳2:1‐3)とある。

 

NWTは原文の「主の日」をこちらも「エホバの日」としているが、1節から「主の日」とは「主の来臨の時」を指していることは明らかである。 

 

この「我々によって(書かれた)という手紙」(田川訳)、「わたしたちから出たかのような手紙」(NWT)の「手紙」は単数形である。複数の偽手紙を示唆しているのではなく、たったひとつの手紙を示唆している。

 

WTは当時の偽教師たちによる偽パウロ文書あるいは正典には入らなかった新約外典であるかのように解説しているが、文法的にはありえない。時代的にもパウロが生きていた時代に大量の新約文書が流通していたという記録はない。

 

文法的にも歴史的にも、現存する資料や理解からして、WT解釈が正しい可能性は極めて低いように思える。

 

第二書簡の著者は一つの手紙の内容を指して批判しているのであり、その手紙とは第一書簡を指していることになる。

  

WT解釈に従えば、第一書簡を書いたパウロは、自分が生きているうちに「主の来臨の時」が来て、自分は死なずに空中で天に迎え入れられる信じ、同じ信仰を持つように兄弟たちに説き勧めていたのに、第二書簡では、同じ「主の日」、「来臨の時」を信じていた兄弟たちを批判していることになる。

 

両方の書簡の冒頭に登場する三人(パウロ、シラス、テモテ)は、行動を共にしていた短期間に別のキリスト教に宗旨替えをしたのであろうか。一つのキリスト教しか存在していないはずなのに、解釈変更の指示はどこから来たのであろうか。

 

第一書簡と第二書簡が同一人物の手によるものであるなら、同じ人間が同じ宣教期間中に180度信仰を変えろと信者に宣教していたことになる。

 

現代のWTならともかく、聖霊が注がれたクリスチャンだけしか存在していないとするキリスト教会の中で、突然前言を翻し、信仰内容が、理由も指令もなく、真逆に変わることなどありえるのだろうか。現代のような通信手段もない時代に、だれがキリスト教の理論的支柱とみなされる人間であるパウロに、どんな根拠に基づき教理変更を短期間に通達し、納得させたのだろうか。

 

真実は明らかであろう。

 

第二書簡の著者は、パウロの手紙であると言いながら、パウロが書いた第一書簡を「わたしたちから出たかのような手紙」と言っていることになる。

 

しかも、第二書簡の著者は、自分の手紙は「パウロ」からのものであり、「本物のパウロからの手紙」であると言っているのであるから、偽物が本物を偽物だ、と批判している構図になる。

 

パウロの時代やそれ以前や以降にも、「主の日」を待望し、「すでに来ている」と信仰しているキリスト信者が存在していたことは確かである。その信者たちは、第一書簡の言葉をパウロと同じように信じていたパウロ信奉者が含まれていたことは想像に難くない。

 

しかし、パウロが生きていた時代に、第二書簡が書かれたとは考えにくい。自分と異なる信条が自分の名で語られていることが判明したなら、パウロが黙っているはずがないであろう。自分のキリスト教を「私の福音」と称し、自分を「キリストの代理」であり、「最後の使徒」との自負をもっていた人間である。

 

おそらく、第二書簡が書かれた時には、すでにパウロは死去しているが、第一テサロニケ書簡のパウロ信仰を引き継いで、「主の再臨の時」と待望していた信者がいたのであろう。パウロが処刑されたので、ますますパウロの「呼びかけあい」「慰め合い」に答え応じて、すでに終末が来ていると叫んでいたのであろうか。

 

「すでに来ている」という表現がそのことを示しているように思われる。

原文のギリシャ語は、「立つ」(histemi)という動詞に「そこに」(en)という接頭語を付け、完了分詞で用いている。現在完了であるから、「すでにそこにある」「現に存在している」という意味に解したくなるが、この動詞の完了分詞を新約では近未来の意味にも用いられる。どちらの意味にも用い得るようである。

 

つまり、すでに終末が来ていると叫ぶ人がいるとしても、現に此の世は続いているし、再臨のキリストが目の前にいるわけでも、死人が復活して出てきたわけでもない。最後の審判が始まったわけでもないのであり、それらのパウロ信奉者は、そういう終末の時が今まさに始まろうとしている、と喧伝していたのであろう。

 

当時の終末待望信仰信者の行動や精神状態については、31012から知ることができる。

10あなた方のところに居た時にまさに、我々はあなた方に、働こうとしない者は食うべからず、と指示しておいた。11ところがあなた方の中には無秩序に歩んで、何も働かずに、しかも余計な仕事をしている者たちがいる、と聞いている。12こういう者たちには、静かに働いて、自らのパンを食べるように、と我々は主イエス・キリストにおいて指示し、呼びかける。」(田川訳)

 

第二書簡の著者は、パウロの体裁でパウロ信者の中の終末待望信者を「無秩序な歩み方をし、少しも働かないで、自分に関係のないことに手出ししている」(NWT)と批判しているのである。キリスト信者であるなら、そのような生き方をするのではなく、「静かに働いて、自分の労によって得る食物を食べなさい」(NWT)と勧めている。

 

WTの統治体は、第二テサロニケ書簡を脆弱な根拠に基づいて、パウロの書簡であり、聖書全体と矛盾しない神の言葉であると説く。第二書簡にパウロが書いた第一書簡と共通の表現が見られるのは、パウロが書いた体裁で第一書簡を引用しているからである。内容からして、パウロが書いたものではあり得ない。

 

その証拠はほかにもある。

 

パウロは宣教者が仲間の信者から生活を支えてもらうことを当然の権利と考えている。第一テサロニケ書簡より後に書かれた第一コリントス9:18では、「私の報酬」、「福音のおける私の権利」(田川訳)と考えており、その代わりに「権利を利用しないように」「福音を無償で宣ベ伝える」(田川訳)と述べている。

 

しかし、第二書簡の著者は、「我々にその権利がない」ということではないが、信者の模範として「誰かに負担をかけないようにした」(3:9)と事実上、宣教奉仕を根拠に信者に生活を支えてもらう権利を放棄すべし、と述べている。

 

むしろ、終末信仰の宣教を「仕事」のように考えている信者は、「余計な仕事」(3:11)しているのであり、「何も働かず」(3:11)、信者に食わせてもらうのではなく、「静かに働いて」(3:12)、つまり、「主の日」はいずれ来るかもしれないが今の時代のことではないのであるから(1:10「かの日」という強調表現がそのことを示している)、「主の再臨」が近いなど現実離れした期待を抱かず、「理性からはずれて慌てて動揺したり」(2:2)せずに生活することを、「主イエス・キリストにおいて指示し、呼びかける」(3:12)と言っているのである。

 

終末信仰を互いに「呼びかけあうように」(第一4:18)と言っている第一書簡のパウロとは真逆の呼びかけである。

 

現在、「かの日」が到来したと信じ、終末待望信仰を表明し、「余計な仕事をしている者たち」とは一体誰のことだろうか。パウロが信じた「主の再臨」と「主の日がすでに来ている」と「何も働かず」「慌てて」いる人たちとは一体誰のことだろうか。

 

「聖書全体は神の霊感を受けたものである」と信じているキリスト信者であるなら、第二テサロニケの言葉も「神の霊感を受けた」真実の言葉であることを信じていることだろう。

 

第二書簡の著者は、パウロ信者の終末信仰を批判しつつも、「敵として扱うことなく、兄弟としてその考えを正してあげなさい」(3:15)、と勧めている。

 

「正すべき考え」とは、パウロ的終末待望信仰の方であり、「主の再臨」と「終末信仰」を抱くように正すことではない。

 

「働かざる者、食うべからず」の「働く」とは、終末信仰の宗教活動に忙しく携わることではない。むしろ、実際に働かないで、宗教活動に没頭している者を対象に、「食うべからず」と批判している言葉である。

 

JWは文脈を良く考え、聖書を理解すべきであると教えられている。第二テサロニケ書簡が神の言葉の一部であると信じるのであれば、WT解釈をうのみにするのではなく、聖書の著者が批判している考えにも真摯に向き合うべきであろう。

 

第二書簡の著者はパウロの権威に訴えて疑似書簡を書いたのであるから、終末待望信仰を別にしたパウロの信仰には敬意を払っていたのであろう。少なくてもパウロの権威と業績は認めていたものと思われる。

 

「兄弟たちよ、しっかりと立ち、我々の言葉や手紙を通してあなた方に教えられた伝承を守るがよい」(2:15)と勧めている。36では「無秩序に歩み、我々から受けた伝承に従って歩もうとしないすべての兄弟から離れていなさい」とも指示されている。

 

第二書簡の著者はパウロの言葉や手紙を通して教えられた訓戒を「伝承」(paradosis)と呼んでいる。(NWTは「伝統」と訳している)

 

パウロの場合の「伝承」(paradosis)とは、パウロ以前から伝えられている伝承を指している。

パウロが「伝承」について語っているのは、ガラティア1:14「先祖たちの伝承(paradosin)について極めて熱心な者であった」、第一コリントス11:2「私があなた方に伝承(paradosis)を伝えた通りにあなた方は保っている」、15:1「あなた方がすでに受け取った(parelabeta)福音」、15:3「私自身が受け取った(parelabon)ことをあなた方に伝えた(paredo(_)ka)のである」。キリスト教に関する伝承に関しては、自分が伝えた音信を含めて、「伝承」(paradosis))ではなく「福音」(euangelion)と呼んでいる。

 

第二書簡の著者がパウロからの音信を「伝承」と呼んでいることから、パウロの訓戒がすでに伝承化していたことを示している。パウロ後の世代に書かれた疑似書簡であることはこのことからも明らかであろう。

 

NWTは「伝承」を「伝統」と訳しているが、パウロのキリスト教がすでに伝統化していたことになる。WTは疑似書簡であることを否定しているのであるから、第一書簡と第二書簡が書かれた短い間に、パウロのキリスト教が統一された組織宗教として一本化され、伝統となっていたことになる。

 

しかしパウロから受けた伝統に従わない兄弟たちが存在しているし、彼らは聖霊を注がれた者でもあったたも関わらず、すべてのキリスト信者が統治体による統一された信条を奉じていたのではないことになる。すると統治体の宗教信条に従わない油注がれた者たちも聖霊に従っていたのであれば、聖霊は異なる信条で信者たちを導いていたことになる。WTが存在を強く主張する一世紀の統治体とは、どんな聖霊によって唯一の神に導かれていたのであろうか。

 

第二書簡2:3,8には、終わりの時に「表わし示されることになっている不法の者は、主イエスの臨在の顕現によって無に至らされる」(NWT)とある。かつて宗教改革時にルターは「不法の人」を「ローマ法王」と解し、カトリック教会を批判し、カトリック教会側は、「ルター自身」こそ「滅びの子」である応酬した。WTもキリスト教世界のみならず、他の宗教組織を対象に「不法の人」「大いなるバビロン」とレッテル貼りしている。

 

カトリックやプロテスタントと同じ構図をWTも取っている。彼らが「不法の人」「大いなるバビロン」また「反キリスト」であるなら、自らの教理により、WT自身も彼らと同じ立場にあることを聖書は示していることになるのではなかろうか。

 

 

結論

第二テサロニケ書簡は、第一書簡のパウロ的終末待望論を信じたキリスト信者たちの考えを正すために書かれた疑似パウロ書簡である。

 

著者が訴えたかったのは、信者の懐を当てにしながら、終末待望信仰の宗教活動に邁進するのではなく、自分の手で真面目に働き、良いことを行ないながら生活すること。

 

自分とは異なる信条を持つ人々を敵として扱うのではなく、兄弟としてその考えを正してあげることこそ、キリスト信者の道であろう、ということのように思える。