どのような意味でパウロは「最も小さな者よりさらに小さい者」なのだろうか。その2

 

その「異邦人」に関するイエス・キリストにあっての「福音」の具体的内容とは、6節で説明しているように、「共同相続人」「共同の身体」「約束の共同受領者」となることにあった、とエフェソス書の著者は説明している。原文では、それぞれ順に、synkleronomasynsomasynmetocha tes epaggelias、と表現されている。どの語にも、syn-という接頭語が付いていることが理解できると思う。田川訳はその接頭語をすべて「共同(の)――」と訳し、一語の語であることが分かるように訳している。

 

このsyn-は、「一緒、同じ、共に」という意味の接頭語であるが、「本来のもの」とは区別して、「別のもの」が「共に、一緒に」という意味であり、すべてのものが、同等の立場となって、という意味ではない。本来の「相続人」と本来の相続者ではない「共同相続人」とを明確に区別している表現である。

 

つまり、本来の「相続人」とは「わたしたち」ユダヤ人信者であり、「あなた方」異邦人信者たちは、「共同相続人」の立場に過ぎない、と著者は主張しているのである。

 

「身体」に関して、著者は1:23で「教会は彼の体」であり、そこに神が満ちる、としている。「身体」を「教会」のアレゴリーにしているのだから、本来の「身体」は、ユダヤ人信者であるが、異邦人キリスト信者は「本来のもの」ではないという意味で「共に」という接頭語を加えた存在であるという趣旨に使っているのであろう。

 

また、1:19で異邦人信者に関して「あなた方は聖者たちと共同の市民であり、神の家の者である」と言っている。これは、本来の「市民」であり「神の家の者」とは、ユダヤ人信者だけで構成されるべきものであるが、異邦人信者は「イスラエルの市民権からは疎外されており、よそ者」(1:12)に過ぎなかった。

 

しかし、彼らは「キリストにあって」(1:21原文はen to(_)「彼にあって」)、「共同の」の存在として、「市民」の一員に加わることが許されたに過ぎない。「神が満ちる者」となるためには、「教会」に付属していなければならない。彼らは、「教会なる身体に後から加えてもらった者たちに過ぎない」という趣旨で、侮蔑的に使っている著者の造語であろう。

 

「約束の共同受領者」に関しても、同様である。「約束」とは、ユダヤ人に対する救いの約束を念頭に置いているのだろうが、異邦人信者は、その約束の本来の受領者ではないが、付加的な受領者として、共に救われる者となる、という趣旨であろう。決して同等の立場であるとは考えていない。

 

NWTは、「共同の相続人」「同じ身体の成員」「わたしたちと共に約束にあずかる者」と訳している。原文に「成員」とは書かれていない。「わたしたちと」という代名詞もない。

 

後で詳しく考察するが、異邦人信者に対する希望に関する「約束の共同受領者」という表現を、「わたしたちと共に約束にあずかる者」と訳したのは非常に問題である。

 

第一に、「わたしたちと」という語は原文にはない。接頭語の(syn-)に「わたしたちと」という意味があるのでもない。それを堂々と[ ]も入れず、解釈を補った言葉であることも明示せず、原文に書かれてあるかのように「訳」すのは、どう考えても、字義訳ではない。すぐに「原文に忠実な字義訳」との看板を下ろすべきであろう。

 

第二に原文には「キリスト・イエスにあって」(en christo iesou)とあるだけの前置詞句を、「キリスト・イエスと結ばれて」と訳すことにより、この「わたしたち」とは「キリスト・イエスと結ばれて」いる特別な立場のキリスト信者であるかのように読むことになる。

 

しかし、前にも説明したように「キリストにあって」という表現は、当時すべてのキリスト信者たちを指す表現である。「聖なる者」という表現も同じように、まだ現代で言う「クリスチャン」という表現が一般的ではなかったので、キリスト信者たちが自分たちをそう呼んだだけの表現である。

 

第三に、三つ同じように並べられた異邦人信者に関する表現の三番目だけに「わたしたちと」という言葉を入れることにより、「共に約束あずかる者」だけ、「わたしたち」が持つ「約束」とは、別の種類の「約束」が存在するかのように読めることになる。しかし、その別の種類の「約束にあずかる」ためには、「わたしたちと共に」いなければならない。「わたしたち」を離れては、良いたよりの「約束」にはあずかれない、という意味を読む込むことになる。

 

原文では、「約束」に関して区別をしてはおらず、「福音の故」の同じ「約束」に関して、わたしたちは「神の恵み」の本来の受領者であるが、あなた方「異邦人」は、「わたしたち」ユダヤ人に付随する「共同」の受領者である、と言っているだけである。

 

原文では、異邦人に関して、「共同相続人」「共同の身体」「共同受領者」と三つ並べて同格で表現されている。三番目の「共に約束にあずかる者」だけが、「わたしたち」キリストと結ばれた者たちと異邦人とが区別されているわけではない。「わたしたち」が「共同の相続人」であるであれば、異邦人も「共同の相続人」という立場であり、異邦人も「同じ身体の成員」であると言っているのであるから、「共に約束にあずかる者」たちも、「共同の相続人」であり、「同じ身体の成員」でなければならないはずである。

 

少なくても、原文ではこの三つの表現が区別されている立場の者とはなっていない。「共同の相続人」や「同じ身体の成員」が天的な希望を持つのであれば、「わたしたちと共に約束にあずかる者」も天的な希望を持つ者であることになる。

 

原文の表現から、「わたしたちと共に約束にあずかる者」とは、「地的な希望を持つ者」を指すと解釈することは不可能であろう。もし、そう読ませるのであれば、一世紀のクリスチャンの中にも「地的な希望を持つ者」たちがいたことになる。

 

しかし、それでは、天的クラスを集めることが終わりに近づいたので、地的なクラスを集め始めたとするWT教理と矛盾する。当然、天的クラスの減少が終わりの近いことの証拠ともならなくなる。もっとも最近は、天的希望を表明する人数が増加しているという統計があるので、ほころびが生じている。

 

また三つの表現が同じ種類の信者に対する者であるのであれば、記念式が天的クラスのためのものであるというWT解釈も意味を持たないものとなってしまう。

 

閑話休題

 

エフェソス書の著者は、パウロの体で「わたしたち」ユダヤ人信者は、本来的な「相続者」、キリストの「身体」、「約束の受領者」であるが、「あなた方」異邦信者たちは、本来的な存在ではなく、「神の恵み」により、後から付け加えられた付属的な意味で「共同の」「相続者」「身体」「約束の受領者」に過ぎないと述べている。

 

そして、エフェソス書の著者は、パウロに関して、7節で、神の恵みの賜物に応じて、「その福音の仕え手」つまり、異邦人伝道の宣教者となった、と言っている。「神の恵みの賜物に応じて」の「応じて」のギリシャ語はkata=accoding-toである。「神の力の働きに応じて」の「応じて」も同じkataである。

 

NWTは「無償の賜物である神の過分のご親切にしたがい」と「したがい」としているが、神から与えられた職務に「従順に従い」、あるいは「聖霊に従い」という趣旨ではない。

つまり、パウロに神の意志が働き、異邦人伝道に任命し、神の過分のご親切に関する良いたよりを宣教させようとしたのであるが、その神のご意思に従順に従い、という意味ではない。

神の意志が関与しているとはどこにも書かれていない。パウロが異邦人伝道を神の恵みだと判断して、という趣旨である。

 

「神の力の働きに応じて」の方のkataは「応じて」としているのだから、原文の意味を忠実に伝えたいのであれば、こちらも、神の過分のご親切に「応じて」とすべきであろう。わざわざ「したがい」と表現したのは、神の意志に「従い」と読ま込みたかったからであろう。

 

いずれにしても、エフェソス書は、パウロが、神の恵みによって、異邦人伝道の宣教に着手した、と言っているのであるが、そのパウロを「聖者たちの中で極小の者である」と8節で評価している。

 

エフェソス書がパウロの著作であるなら、パウロが自分を「聖者たち」つまりすべてのクリスチャンの中で、最も小さい者である、と非常に謙遜に自分の異邦人伝道に対する奉仕を恵みとして評価していることになる。パウロはクリスチャンが手本とすべき非常に素晴らしい特質の持ち主ということになる。

 

しかし、エフェソス書がパウロの著作ではなく、パウロの体で書いた疑似書簡であるとすれば、8節の意味は大きく異なることになる。

 

似たような表現は、パウロの著作である第一コリントス15:9で「私は使徒たちの中で最も小さい者」と出て来る。「すべての聖者たちの中で」ではなく、「使徒たちの中で」である。コリント書簡でパウロが問題にしているのは、「使徒たち」の権威であり、「聖者たち」であるかどうかの論議ではない。

 

パウロは、コリントスの信者たちに「私は使徒ではないのか」、「もしもほかの人たちに対して私が使徒ではないとしても、あなた方に対しては使徒なのだ」(①コリ9:1,2)、と主張している。

つまり、パウロ自身は、「使徒」という自分の立場と権威に対しては、並々ならぬ拘りと誇りを持ち続けており、自分は「使徒」と呼ばれる人たちの中では、最後に選ばれたのであるから「最も小さい者」であるかもしれないが、と言っているだけである。

 

ところが、エフェソスでは、「使徒たちの中で」ではなく、「すべての聖者たちの中で」とある。「聖者たち」という表現は、パウロ自身の表現では、限定句がない限り、一般のキリスト信者を指す。パウロの文であるなら、我々ユダヤ人信者とあなた方異邦人信者を含めた、すべてのキリスト信者の中で、最も小さい者である、と言っていることになる。

 

しかし、パウロ自身は、コリントス書からも明らかなように、「使徒」と「一般信者」とを明確に区別しており、同等の立場として扱うことはない。自分がすべてのキリスト信者の中で、最も小さい者である、という認識は持っていない。むしろ、自分の福音を聞いて受け入れた者に関しては、「私があなた方を生んだ」「父親」(①コリ4:18)と言っている。福音を伝える宣教師であるパウロの立場と福音を受け入れた信者との立場を明確に区別している。(ほかにも①コリ1512ほか参照)

 

「小さい者」という表現もエフェソス書とコリントス書簡では異なっている。第一コリントスでは「最も小さい者」という表現は、「小さい」(mikros)という形容詞の最上級(elachistos)を使っているが、エフェソスでは、その最上級の形にさらに比較級語尾を付けて、elachistoterosと表現している。

最上級に比較級語尾を加えてさらに強調する表現方法は、著者の独創ではないが、滅多にない用例であるそうだ。意識的に必要以上に強調している感じになる。

つまり、エフェソス書の著者がパウロのものであるのなら、必要以上に自分を謙遜な者と見せかけている感じになるが、パウロの著作ではないのであるのだから、パウロに対する皮肉が込められていることになる。

 

結局、エフェソス書の著者はパウロの思想とは異なるし、パウロではあり得ない。

 

エフェソス書の著者は、2:19で「あなた方はもはやよそ者、寄留者ではない。聖者たちと共同の市民であり、神の家の者なのである」と述べている。そこでは「あなた方」と対比させる形で「聖者たち」と言っているのであるから、ユダヤ人出身で異邦人以前にキリスト信者となっていた者たちを指して、「聖者」と言っていることになる。(ほかにも1:15,3:18参照)ここでもその意味の可能性の方がはるかに高い。

 

つまり、エフェソス書の著者は、パウロは異邦人への宣教師として、「あなた方」異邦人信者の間では尊敬されているが、「我々」ユダヤ人信者の間では、「すべての聖者たちの中で最も小さい者のさらに小さい者」に過ぎない存在である、と言っていることになる。

 

決して、パウロをすべてのクリスチャンの中で最も謙遜な人物という意味で述べているのではない。エフェソス書の著者が、我々「ユダヤ人」信者の中では、パウロなんぞ、我々「聖者たち」の中で「最も小さい」ユダヤ人信者に過ぎない。

異邦人信者の「あなた方」の間では評判は高いかもしれないが、異邦人伝道なぞは、本来のユダヤ人に対する福音の恵みとして付け加えられたものに過ぎない。

結局、異邦人信者なんぞ、本来のものではなく、「共同相続人」「共同の身体」「約束の共同受領者」に過ぎない、我々にとっては「すべての聖者」以下の存在に過ぎない、という気持ちを込めて、表現したものであろう。

 

WTは、「地的な希望を持つ者たち」を「わたしたちと共に約束にあずかる者」と呼んでいるが、原文にはない「わたしたちと」という言葉を入れているが、文脈からすれば、この「わたしたち」とはエフェソス書の著者の側に属する人々ということになる。

 

WTはエフェソス書の著者をパウロとしているから、「パウロたち」すなわち油注がれたクリスチャンたちを意味していると解することになる。「諸国民の人々」が「わたしたちと共に約束あずかる者となる」のであるから、「諸国民の人々」も「わたしたち」天的クラスの人々と「同じ約束にあずかる者となる」というのでなければならない。

 

3:3ではこのユダヤ人のもとに諸国民を集めることを「秘義」「神聖な奥義」としている。この「神聖な奥義」を一世紀以降、天的な希望を持つ人たちの間で実現されてきたが、終わりの日に入り、天的な希望を持つ残りの者のグループと地的な希望を持つグループが集められているとされている。

 

 

この天的なグループと地的なグループとを集めることは、終わりの日における「聖なる者たち」に啓示された「神聖な奥義」である、との解釈は、エフェソス書の「聖なる者たち」を「わたしたち」と「あなた方」とに分離させ、予型と対型に適用しようと発想したもののように思われる。今では廃版となっているが、聖書を予型と対型理論によって解釈しようとしていた頃の出版物には、「ユダヤ人」=「天的グループ」、「諸国民」=「地的グループ」と解釈し、聖書を予言的に解釈する記事がたくさん存在していた。

 

しかし今でも、統治体や記念式、新しい契約などの天的なクラスと地的クラスを分離して論じる記事では同様の予型対型的解釈が敷衍されている。

 

統治体信仰を支えるWT教理の要の一つである、聖書は「聖なる者」である油注がれた者たちに宛てて書かれたものであり、約束の成就は本質的には彼らのものである。「ほかの羊たち」は彼らを支えることにより、その恩恵にあずかることができ、彼らは天で、ほかの羊たちは地上の楽園で、永遠に生きることができる、という教理はエフェソス書の著者の思想をすり替えたもののように思える。

 

「わたしたち」ユダヤ人キリスト信者を油注がれた者と読み、「あなたがた」異邦人キリスト信者をほかの羊と読み、解釈させようとしたものであろうか。

 

解釈から教理が生まれセクト化するのであるが、決してエフェソス書や聖書の他の個所に「天的なクラスの人々に書かれた手紙である」と書かれているのではない。聖書の解釈から生まれた教理である。あくまでも解釈の一つに過ぎない。

 

エフェソス書が疑似パウロ書簡であるというのも、一つの解釈であるから、信じるかどうかはどうぞご自由に。

 

しかし、異議を唱えるのであれば、エフェソス書がパウロの著作ではないとする根拠を、ただそう信じるからというのではなく、すべてエビデンスをもって否定しなければならなくなるであろう。

 

 ただ信じたいことを信じることは、「盲信」である、とかつて大見栄を切って宣言していたことをWTやJWは忘れたのであろうか。それとも、新しい光が煌めいたのであろうか。

 

 いずれにしても、エフェソス書が疑似パウロ書簡であることをWTは認めないように思う。サタンに支配されている背教者の戯言として一蹴するのであろう。

 

 その他の言語に関する詳しい注解を知りたい方は、田川建三著「新約聖書 訳と註」を参照してください。