神は本当に聖なる者たちをキリストとの結びつきにおいて選び出されたのか?(エフェソス1:3~)

 

 JWは、聖書が「油注がれた者たち」に宛てて書かれたもので、彼らを通して「真理」が世界中に知らされる、と信じている。神は「世の基が置かれる前」に「胤」に属するグループを定め、イエスの贖いにより「定められた時」が到来した以降は、「天にあるものと地にあるものとを、キリストにおいて再び集めること」に関する「管理」を彼らに委ねた、と信じている。(エフェ1:4,10参照)

 

 「世の基」とは、受け戻すべき人類の最初の人間であるアベルを指し、「置かれる前」とは、アダムとエバが神の主権に反逆した後、子供を産む(胤を下に投げる)前のことを指すと理解している。(WT09/10/15,p28、「論」p86ほか参照)

 

 神の目的は、「定められた時の満了した時における管理」を遂行することであり、「天にあるもの」とは、約束の「胤」の副次的部分をなす人たちであり、新しい契約において神と「結ばれて」、天の王国でキリストとともに「地」を支配する人たちという認識である。

 

 一方、「地にあるものたち」とは、地上の楽園で永遠に生きる希望を持つ人たちを指し、天の王国の支配下にあり、「天にあるものたち」を支持し、協力を惜しまない人だけが得られる、と信じている。

 

 その教理の正しさを裏付けるものとして、エフェソス人への手紙がよく取り上げられる。エフェソス書の著者は、本当にそのようなことを意図して書いていたのであろうか。

 

 エフェソス書の冒頭にある「神のご意思によってキリスト・イエスの使徒となったパウロから、エフェソスにいる聖なる者たち、およびキリスト・イエスと結ばれた忠実な者たちへ」という宛書は、パウロの手による書簡ではないことの根拠の一部を前の記事で示した。

 

 パウロの名を語るキリスト信者の誰かによって、特別な「聖なる者たち」や「キリスト・イエスと結ばれた忠実な者たち」に宛てられたのではなかった。「聖なる」あるいは「キリストにあって聖なるもの」とは、キリスト信者の中の特別な立場の信者を指すのではなく、当時のキリスト信者を指す言葉として一般的な表現であったことを指摘した。

 

 またNWTは「キリストと結ばれている」と訳しているが、「キリストにあって」という表現の前置詞enには、「結ばれている」という意味はないし、原文に「結ぶ」という語があるわけではない。決して「新しい契約」を意識したものではなく、単に「キリスト教を信じている」という意味と同義であることを指摘した。

 

 エフェソス書では、「わたしたち」と「あなた方」とは対立関係にある立場として描かれているが、キリストの血によって、隔てていた壁は取り壊わされ、二者を一つにし、平和がもたらされるようになったのだ、と書かれている。(エフェ2:14ほか参照)

 

 最近のWTでは、「わたしたち」をパウロと同じ民族、すなわち文字通りの「ユダヤ人」と解し、「あなた方」を文字通りのユダヤ人以外の民族、すなわち「異邦人」を指す、と解している。(WT08/7/1,p21ほか)「わたしたち」をJW、「あなた方」=「異邦人」を非JW(世の人、あるいは世の人であった時のJW)と比定したいのだろうか。

 

 しかし、WTでは、1:1の「聖なる者たち」=「油注がれた者たち」と解しているのであるから、この「わたしたち」及び「あなた方」も、「油注がれた者たち」を指すのでなければならないはずである。

 

 そうであるとすれば。「わたしたち」と「あなた方」との間には「障壁」があったのであるから、「油注がれた者たち」の間には「敵意」や「律法」が存在していたことになる。実際、その「壁」(エフェ2:14)について、「異邦人の中庭」と「神殿の中庭」を隔てていたソーレグと呼ばれた「石の壁」ことを念頭に置いていた、と解説している。(WT08/7/1,p21ほか)

 

 しかし、その解釈は、1世紀のキリスト信者たちはすべて「油注がれた者たち」であり、「ユダヤ人のクリスチャン」であっても、「異邦人のクリスチャン」であっても、「霊的イスラエル」として一致していたとするWTドグマと矛盾する。

 

 それで両者を霊的イスラエルのユダヤ人と異邦人と解するのではなく、「わたしたち」を「ユダヤ人と改宗者」すなわち「神殿の中庭にいる者」、「あなた方」=「異邦人」を、誰でも自由にはいることができた「異邦人の中庭にいる者」、すなわち「世の人」と読ませたいのであろうか。

 

 面白いことに、WT88/5/15,p13:16では、「わたしたち」とは「ユダヤ人の弟子たち」であり「あなた方」とは「異邦人の追随者たち」であると註解されている。

 

 問題は、この個所の「わたしたち」をユダヤ人、「あなた方」を異邦人と解することではなく、1:1の「聖なる者たち」を「霊的イスラエル」と解することにある。つまり、聖書は「霊的イスラエル」に宛てて書かれた特別な神からのたよりであると解することにあるように思う。

 

 WT88年や洞察、霊感の時点では、エフェソス書は「異邦人のクリスチャン」に宛てて書かれたと註解しているが、WT08年の時点では、「我々」と「あなた方」とは、「肉」における区分であることになっている。新約の実体を「予型と対型」論に基づき解釈するのをWTは2013年に捨てたのであるから、「ユダヤ人」を「霊的イスラエル」、「異邦人」を「ほかの羊の大群衆」と解することを放棄したことになる。

 

 そうなると1:10で「天と地にあるものを再び集めること」が「霊的イスラエル」に与えられた使命であり、他の羊たちもその業に協力しなければ、神の是認を受けられないという根拠も失うことになる。

 

 しかし、WT08では、「わたしたち」=「ユダヤ人+改宗者」であり、「あなた方」=「異邦人」=「世の人」であることが示唆されている。この調整は、あくまでも1:10「天と地にあるものを再び集めること」が「霊的イスラエル」に与えられた使命であるというWTドグマを守るためのものであろう。そのために矛盾に矛盾を重ねる解釈を展開する結果となっている。

 

 現在のJWは、パウロの名を語る偽者の使徒による手紙に書かれている言葉を曲解しながら、それを根拠に「わたしたち」霊的イスラエルに、神は天と地における「管理」を委ねていると、統治体のみならず一般のJWも信じていることになるのではなかろうか。

 

 ちなみに、エフェソス書は、すべてのキリスト信者に宛てて書かれているのであるから、2:11‐15の「わたしたち」に限らず、エフェソス書におけるほとんどの「わたしたち」とは、「ユダヤ人出身のキリスト信者」を指しており、「あなた方」とは「異邦人出身のキリスト信者」を指している。

 

 このことを意識して、エフェソス書を読むと、全く異なった風景が見えて来る。エフェソス書の著者が「わたしたち」と言っているのであるから、彼は「ユダヤ人キリスト信者」である。「あなた方」とは「異邦人キリスト信者」のことであり、コロサイ書を引用しながら、自分の主張に合うように書き換えているのであるから、「あなた方」とは「異邦人キリスト信者であるコロサイ書の著者」及び「彼に同調するキリスト信者たち」を意識しているのだろう。

 

 エフェソス1:3‐14を比較してみるが、文法的には、3‐14までで一文である。恐ろしく長い悪文である。

 

 聖書が解り難いのは神のご意思がパズルのように散りばめられているからではなく、原文が悪文の故であることと、ドグマを前提に聖書の文言をあてはめようとするからであると思われる。聖書が神の言葉であり、矛盾のない解釈が可能であることを前提に読むと、矛盾に遭遇した時、自分の理解を再確認するのではなく、信仰に対する挑戦と考え、無意識のうちに納得できる解釈を探そうとするからであるように思う。

 

 WT解釈のエフェソス書とは、全く異なる姿が田川訳からは見えて来ると思う。

「我々」を「ユダヤ人出身のクリスチャン」、「あなた方」を「異邦人出身のクリスチャン」と置き変えて、文法では一文の3‐14節の田川訳を読んでほしい。

 

1:3-14

我らの主イエス・キリストの父でもある神は祝福さるべきである。その神が我々をあらゆる霊的祝福をもって天上でキリストにおいて祝福し給うたのだ。すなわち神は、世界の初め以前すでに我々を彼において選び給うた。それは我々がその御前にあって、聖なる、咎められるところのない者となるためである。すなわち、神は愛をもって、イエス・キリストによって、我々が彼へとむかって神の養子になるようにと、御旨のよしとするところに従って、前もって定め給うたのである。それは、神がその愛する者(=キリスト)において我々を恵み給うた、その恵みの栄光を(我々が)誉めたたえるためである。そのキリストにおいて我々は、キリストの血による贖い、すなわち罪過の赦しを持っている。それは彼の恵みの豊かさのおかげである。その恵みを神は我々のためにいや増し、あらゆる知恵と洞察をもって我々にその御旨の秘義を知らしめて下さった。これは神が御自身のうちに前もって定めてよしとし給うたことであって、10時を満たすという摂理のためである。すなわち、天上にあるもの、地上にあるものの一切が、キリストを頭としてその下にまとめられることである。11そのキリストにあって我々は、万物をみずからの御旨の意図に応じて働かせ給う方(=神)の計画に応じて、あらかじめ定められて選び出されたのである。12それは我々が、前からすでにキリストにおいて希望をもった者として、彼の栄光の称賛となるためである。13そのキリストにあってあなた方もまた真理の言葉を、すなわちあなた方の救いの福音を聞き、彼にあってまた、あなた方は信じて、約束の霊によって証印を押されたのである。14聖霊は我々の相続の手付金である。つまりいずれ全体を贖うことを保証するものであり、彼の栄光の称賛へといたるものである。」(田川訳)

 

 3節冒頭の「我らの」とは、「わたしたちとあなた方の」という意味であると思われるが、それ以降の「我々」とは、「ユダヤ人キリスト信者」を意味している。「あなた方」とは「異邦人キリスト信者」のことである。

 

 「我々」が、「世界の初め以前すでに」、「前もって」「前からすでに」、神によって選ばれた者である。「我々」は、「キリストの贖いによって、罪過の許しをもっている」のだが、その「恵み」を神が増された結果(7‐8節)、「あなた方もまた、救いの福音を聞き」、「信じて、約束の霊によって証印を押された」(13節)=「信じて、キリスト信者となった」、と言っている。

 

 つまり、エフェソス書の著者は、「あなた方」に対する「我々」の優位性を一貫して主張しているのである。神は、ユダヤ人を選ぶ目的でキリストを遣わしたのだから、異邦人のキリスト信者が多くなったからといって、大きな顔をするのではない。「我々」が、最初なのであり、「あなた方」は、「我々」に対する神の恵みが広げられたからに過ぎないのだ。あくまでも「あなた方」異邦人はお情けの存在なのだ、というのがエフェソス書の著者がパウロの名を語って展開している主張である。

 

 またパウロは、キリスト信者に呼びかける時には「兄弟たちよ」という言葉を添えるが(ロマ12:1、①コリ1:10、ほか)、エフェソス書の著者は、「あなた方」=異邦人信者を「兄弟たち」とは一度も読んでいない。エフェソス書で「兄弟」と出てくるのは、コロサイ4:7‐8の結びの挨拶を真似した6:21,23だけである。

 

 エフェソス書の「我々」の「あなた方」に対する選民意識は、最後まで続いている。

 

 

 エフェソス書が、パウロの著作ではなく、ユダヤ人選民意識を露骨に展開させた書簡であるが、NWTはその差別感情と選民意識を極力廃そうとしているのが、理解できると思う。

 

わたしたちの主イエス・キリスト神また父がほめたたえられますように。[神]はわたしたちを、キリストとの結びつきのもとに、天の場所において、霊のあらゆる祝福をもって祝福して下さったからです。それは、世の基が置かれる前から[キリスト]との結びつきにおいてわたしたちを選び、わたしたちが愛のうちに、そのみ前にあって神聖できずのない者となるようにしてくださったとおりのことでした。[神]はそのご意思にかなうところにしたがい、わたしたちをイエス・キリストを通してご自身の養子とするようにあらかじめ定めてくださり、こうして、[ご自分の]愛する者によってわたしたちに親切に授けてくださった栄光ある過分のご親切に対する賛美となるようにされたのです。わたしたちはこの方により、その血を通してなされた贖いによる釈放、そうです、[わたしたちの]罪過の許しを、その過分のご親切の富によって得ているのです。

[神]はそれを、あらゆる知恵と分別とにおいてわたしたちに満ちあふれさせてくださいました。そのご意思の神聖な奥義をわたしたちに知らせてくださったことにおいてです。それは、10定められた時の満了した時における管理のためにご自身のうちに意図された意向によるものであり、すなわちそれは、すべてのもの、天にあるものと地にあるものを、キリストにおいて再び集めることです。[そうです、キリスト]において、11この方と結びつきにおいて、わたしたちはまた相続人として選定されたのです。ご意思の計るところに応じてすべてのものを作用させる方の目的のもとに、わたしたちあらかじめ定められていたからであり、12それは、キリストに望みを置く点で最初のものとなったわたしたちが、その栄光の讃美に仕えるためでした。13しかしあなた方も、真理の言葉、すなわちあなた方の救いについての良いたよりを聞いた後、この方に望みを置きました。そして信じた後、やはりこの方により、約束の聖霊をもって証印を押されたのです。14それはわたしたちの相続財産に関する事前の印であり、また、[神]ご自身の所有物を贖いによって釈放し、その栄光ある賛美とすることを目的としています。」(NWT)

 

 WT08年以降のエフェソス書の解釈が刷り込まれているJWにとっては、この中のいくつかの「わたしたち」とは「すべてのJW」の意味に読む人が多いのではなかろうか。WT 88年以前の理解を知っているJWであっても、すべての「わたしたち」を「油注がれた者」と読んだとしても、「あなた方」に関しては、「異邦人」=「世の人」と読むことはなく、「ほかの羊の大群衆」と読む人が多いのではないかと思われる。

 

 しかし、「大群衆」と読むと、13節の「聖霊をもって証印を押された」の解釈がWTドグマと矛盾する。「地にあるもの」にも「聖霊を注がれている」と解釈変更した方が、整合性が取れるように思うのだが、「天にあるもの」は「地にあるもの」に対する奴隷意識と自分たちの選民感情を捨てることはないであろうと思う。

 

 

 

 

田川訳の「訳と註」からのメモ

1:4「世界の初め」(田川訳)、「世の基」(NWT)に関して。

 「世界」の原文は、kosmos。「はじめ」は、katabole(_)。字義的には「投げ降ろす(そこに置く)」の動詞から派生した名詞。「設置すること」の意であるが、大抵はもっと軽く単に「はじめ」の意味。「世界のはじめ」(katabole(_)o kosmou)という言い方は、新約後期のキリスト教徒間では普及していた言い方。(マタイ13:35,25:34、ルカ11:50、ヨハネ17:24、ヘブライ4:3、9:26、①ペテ1:20、黙示録13:8,17:8にも登場する)しかし、パウロはこういう言い方はしていない。また70人訳にも出て来ない。

 

NWT「世の基」。

kataboleをNWTの脚注では、「[種]を下に投げる」という字義であると解説している。しかし、[種]を蒔く、という意味に限定されるわけではない。boleが「投げる」という意味の動詞に接頭語kata「下に」がくっついているだけである。わざわざ[種]と付記しているのは、この「世の基」をアベル=144,000人を指す、と解したいためである。アダムとエバの子供で最初の死を迎えたアベルは、WTにおいて復活の希望を持つ最初の人物とされている。つまり、アダムの[種]が「下に投げられた」ことにより、生れた子孫の中で最初に神の恵みを受け、復活を約束されているのが、冤罪により無実の死を経験したアベルである。そのアベルは、144,000人の天的クラスの予型であるとの解釈を織り込むために、「種」という語を付加しているのであろう。予型と対型に基づく解釈を捨てたのだから、無意味であるが……。

ヨハネ17:24は「世界=天地創造のはじめ」の意味で使っている。マタイ、ルカは「世の基」=アベル。

 

1:9「摂理」(田川訳)、「管理」(NWT)に関して

 「神が……よしとし給うた」のは、「時を満たすという摂理を実行するためであった」という趣旨。「時を満たす」ことが「摂理」の内容であり、「時が満ちた時に神が摂理を実行する」という意味ではない。

 「摂理」(oikonomia)の語源的な意味は、「家」(oikos)+「管理すること、秩序を与え保つこと」(nomosの抽象名詞)。つまり「経営」のことで、神の「オイコノミア」であるから、「家」とは、世界、宇宙全体を指す。

 「摂理」の具体的な内容は、続く「天上にあるもの、地上にあるものの一切が」キリストに服従する、ということを指すのであろう。

 

NWT「定められた時の満了したときにおける管理のために」。

 「定められた時」が満了するならば、イエスを頭とする管理が開始される、と解釈している。この「管理」は、「定められた時」の一つであるペンテコステの時に「天にあるもの」である油注がれた者たちの「管理」が始まったが、この「定められた時」とは1世紀のことではない。1914年の「定められた時」にイエスが王国の王として就任した時に「満了した定められた時」の管理が始まり、天にあるものの「残りの者」と地にあるものである「大群衆」を集める「管理」が始まった、と解釈している。

 

1:10「時を満たす」(tou ple(_)ro(_)matos to(_)n kairo(_)n=of-the filling of-the seasons )

 ガラティア4:4にも、似たような表現が登場するので、混同されがちであるが、「時」という語が異なっており、別の概念。ガラティア4:4では「時の満ちることが来た時に」にとなっており、此の世の時の全体を単数形でchronosと表現し、それが「満ちる」のであるから、「時」の終わりを意味している。つまり、ガラティアの「時」とは、完全なる「時の終わり」「宇宙の終わり」であり、「終末」を指している。

 こちらの「時」は、kairosの複数形で、「さまざまな時や時に属する出来事を全部満たしていく」という意味。内容的には、「キリストという頭のもとに万物を従える」ことを指すのであろうが、そのためにはまずキリスト教が世界を満たさなければならないので「満たす」と表現したのであろう。この著者としては、現実的には、キリスト教がユダヤ人だけでなく異邦人にも満たされていくことを「時を満たす摂理」と考えているのであろう。

 これをエフェソス書の著者が1:9で「御旨の秘義」としたのは、異邦人が救われるというのはユダヤ教の前提ではあり得ないことであり、キリスト教が広く異邦人のところにも伝えられることが、ユダヤ教における神の理解を越えたことではあるが、現実として生じているので、「秘義」と表現したのであろう。

 新共同訳「時の満ちるに及んで、救いの業が完成された」。NEB,TEVなどの改竄聖書の真似。

 

NWT「定められた時の満了したとき」。

 「時」という言葉を重ねて「とき」と繰り返すことにより、「定められた」時が満了するとは、「神が定められた時が到来したときに」という意味に解している。新共同訳と同じく、ドグマの読み込みをしている。原文の趣旨は「定められた時を満了すること」が「管理」の内容であり、定められた時が到来したときに「管理」が始まる、という意味ではない。

 

1:10 頭としてその下にまとめられる (anakephalaioomai)

 原文は、一単語の動詞。「頭」(kephale(_))を動詞化し、方向を表わす接頭語(ana)を付け、受身にした合成語。基本的にはana=upであるが、「頭」であるから、「上に」ではなく、「もとに」という趣旨で、「下に」としたのであろう。直訳は「(キリストにおいて)頭化される」。分かりやすく表現すると「キリストが万物の頂点となる」という趣旨で、キリストを頂点として万物が秩序づけられる、という意味。「キリストが万物の頭である」というコロサイ書の概念(コロ2:10,19)を念頭にエフェソス書の著者が使ったもの。エフェソス書でも同じ概念が繰り返されている。(1:22,4:15)

 口語訳「キリストにあって一つに帰せしめ」。新共同訳「頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」。原文の趣旨は、キリストが万物を統括する頭になる、という趣旨である。「統括される」からといって、「一つにまとまる」とは限らない。

 文末に「彼にあって」(en auto)と繰り返されているのは、「キリストにおいて頭化される」の「キリストにおいて」をもう一度繰り返しただけ。新共同訳は、強調して二度訳しているが、不注意の繰り返しであり、特に深い意味はないようである。田川訳は、敢えて訳出していない。

 

NWT「キリストにおいて再び集めることです。[そうです、キリスト]において」。

 「頭」はキリストであるかもしれないが、原文の接頭語anaを「再び」訳したもの。WT解釈の読み込み。