●エフェソス書は本当にエフェソス教会宛ての手紙ですか?
エフェソスがパウロの著作であることの根拠として、WTは洞察-1,p375で、コロサイ書との類似点をあげ、国際標準聖書百科事典におけるチャールズ・スミス・ルイスの研究に言及している。「エフェス人への手紙の155節中78節が、同一性の程度はいろいろ異なるものの、コロサイ人への手紙にも見出されます」という記述を、両者とも似た状況にあったので、パウロが同じような助言を与えた根拠としている。
しかし、エフェソス書とコロサイ書の類似点を研究した学者は、M.Goguel,Introduction au Nouveau Testament,TomeIV,Paris,Editions Leroux,1926をはじめ、すべて、エフェソス書がコロサイ書を利用したという結論を出している。
155節中78節ほどにコロサイ書との類似表現があると聖書学者たちが認めていることは事実であるが、パウロの著作の根拠としているわけではない。コロサイ書やエフェソス書がパウロの著作であることを否定しているのはもちろん、コロサイ書とエフェソス書の著者とは全く異なる背景を持った人物であるようだ。
どうして、そのような結論に至るのかを、エフェソス1章の記述をコロサイ書との比較を交えて確認してみたい。
また、エフェソスにある教会に宛てて書かれた書簡であるとされているが、実際には一般の信者の読者を想定し刊行された公開書簡だった可能性が高いようである。
WTは「エフェソス会衆」宛の書簡である根拠としてあげているのは、1:1「エフェソスにいる」という句が省かれている写本(P46、シナイ写本、バチカン写本1209)の存在を認めながらも、他の写本やラテン語諸訳には含まれていること。
ラオデキア書簡とみなした人の存在を認めながらも、初期教父がエフェソス人への手紙として受け入れていたこと、をあげている。(洞-1、p375)
WTのこの論理展開は矛盾している。原文に「エフェソスにいる」と書かれていたのであれば、何故、この書簡を「ラオデキア書簡」とみなした初期の信者たちがいたのであろうか。現存する最も古い大文字写本であるP46(200年ごろ)に加えて、シナイ写本とバチカン写本にも「エフェソスにいる」という句が省かれているのであれば、「エフェソスにいる」という句は、後代の写本家による付加であるとみなすのが妥当であろう。
「ラオデキア書簡」とみなしたのは、新約の正典運動の草分けであるマルキオン(140年ごろ)である。彼は熱心なパウロ信奉者であり、ルカ福音書と使徒行伝にパウロ書簡と思われる文書を集め、正典化しようとした。彼はこの書簡をコロサイ4:16で言及している「ラオデキア」宛の書簡だと勘違いして、パウロ文書の目録に加えてしまったのである。
現存する諸写本の後書には、すべて「エフェソス人へ」としているが、その事実は、この書簡がエフェソス教会宛てのものだとみなされた後になって付けられたものである証拠でしかない。
田川訳は、宛先の「エフェソスにおける」(en Epheso)をテキストには載せておらず、「聖なる、かつキリストイエスにあって信実である者たちに」(1:1)としている。
NWTは、「[エフェソスに]いる聖なる者たち、およびイエス・キリストと結ばれた忠実な者たちへ」と訳している。
この個所の原文のギリシャ語は、
tois hagios tois ousin [en Epheso] kai pistois en Christo Iesouという文である。
「エフェソスにおける」(en Epheso)という前置詞句がなければ、
tois hagios tois ousin kai pistois en Christo Iesouという文になる。
コロサイ1:2の宛先である「コロサイにおいでの、キリストにある聖なる信実な兄弟たちに」という文の原文は、
tois en Colossais hagiois kai pistois adelphois en Christoという文である。
NWTは「コロサイにいる、キリストと結ばれた聖なる者たち、また忠実な兄弟たちへ」と訳している。
エフェソスにある、tois ousinという句を無視して、「コロサイにいる」(en Colossais)という前置詞句を無視すると、この二つの文が非常に似ていることに気が付くことと思う。
エフェソスの著者は、コロサイの[en Clossais]を削り、tois ousinと定冠詞にbe動詞複数形の分詞を名詞的に用い、特定の教会宛てではなく、「キリスト信者として存在する人」すべてを対象にした文書としたのであろう。
[en Epheso]という句がないと、tois ousinはtois hagioisと同格であり、「聖なる者として存在する者たちへ」という意味になり、kai pistois…は、そして「その存在する聖なる者たち」は同時に「信実な者たち」でもある、という意味になる。この場合のkaiは、接続詞というより、副詞的な意味であり、alsoと同じ意味になる。
間に[en Epheso]が入ると、この句は前の「聖なる者たち」(tois hagios)にかかることになるので、「エフェソスに存在する聖なる者たちへ」、という趣旨になる。続くkai pitois…は、前の句の付加的説明となり、「そして、その聖なる者たちは,同時に「真実なる者」であるという意味になる。この場合のkaiは「そして」の意味の接続詞となる。
原文の表現は、「聖なる者たち」と「キリストにある真実な者たち」とを区別しているわけではない。どちらもキリスト信者を指す表現であり、別々の概念を併記しているわけではない。
この表現がコロサイ1:2を真似ていることは、原文を比較すれば明らかである。
エフェソス書で[en Epheso]と付加した写本は、特定の教会宛てとし、パウロ文書であることの信憑性を高めたかったのであろうか、あるいはそう信じたのか。
いずれにしても、エフェソス書はコロサイ書を参考に全キリスト信者に宛てて書かれた公開書簡との様相を呈していることは、tois oisinという表現から明らかである。
NWTの「[エフェソスに]いる聖なる者たち、およびキリスト・イエスと結ばれた忠実な者たちへ」。前置詞enを「結ばれた」と訳したものだが、en=inに「結ぶ」という概念はない。NWTで「結ばれた」と訳されている語は、ほとんどすべて、前置詞のenであり、「結ぶ」という動詞は使われていない。
この「結ぶ」という表現は、「聖なる者たち」は、「新しい契約」によって「神と結ばれている」特別な存在であるというWT教理を読み込ませたいための強調表現であろう。
もっとも、新共同訳でもenを「結ばれた」と訳しているが、キリスト信者はキリストと結ばれた存在であるという概念を読み込ませたいのであろうか。