●コロサイ書やエフェソス書は、本当にパウロが書いたの書いたのだろうか?(訂正追記あり)
一般にはコロサイ書やエフェソス書は、疑似パウロ書簡とされているが、JWに限らず、多くのキリスト信者は、パウロによる真筆であると信じている。
WTが真筆の根拠としてあげているのは、コロサイ書とエフェソス書が良く似ているので、エフェソス書がパウロの真筆であるなら、コロサイ書もパウロの手によるものであるという点。(洞1‐p965他参照)
コロサイ1:1,2の冒頭のあいさつと4:18の結びのあいさつで、パウロが筆者であると書いている点。
更に、西暦200年ごろの写本とされるテェスター・ビーティー・パピルス(P46)の最古に属する大文字写本の目録に、コロサイ書が含まれている点。それゆえ、初期キリスト教徒がパウロの書簡だと信じていた点をパウロ真筆の根拠として挙げている。
その他、フィレモンに関する言及がコロサイ書にある点などをパウロ真筆の根拠としている。
「霊感」や「洞察」等では、コロサイ書は、西暦60‐61年ごろ、ローマでの軟禁中にパウロによって、書き終えられたとされている。
コロサイ書とエフェソス書が良く似ていることは、この二つの書簡の著者が同一人物である可能性の証拠とはなるが、両書ともパウロの手によるものであることの証拠とはならない。
コロサイ書がパウロ以外の手によるものであるなら、エフェソス書もパウロの真筆ではないことになるだけである。
冒頭と結びにパウロが著者であると書いているから、パウロの手によるというのであれば、他にもパウロの書とされる外典は存在するのであるから、パウロ筆と書かれていることをもってして、真筆の証拠とすることはできない。
初期クリスチャンが信じていることが真筆の証拠となるのであれば、現代でもフェイク・ニュースなどは存在しないことになる。書いた者勝ちである。
フィレモンに関して言及していることに関しても、コロサイ書がフィレモン書より後の著作であることの根拠とはなるが、パウロの真筆であることの証拠とはならない。
一般に、コロサイ書がパウロより後代の偽作とされている根拠のされている点の一つは、キリスト教以外の資料の中に、コロサイの町に関する言及が存在しないことにある。
コロサイの町は、内陸フリュギア地方の三都市の一つである。リュコス川にそって、ラオディケイアとコロサイとヒエラポリスの三つ都市が隣接していたが、西暦60‐61年ごろこの地方は大地震に襲われ、三都市とも大きな被害を蒙った。
ラオディケイアとヒエラポリスは震災後復旧したことがキリスト教以外の資料に登場する。しかし、コロサイに関しては、キリスト教以外の資料では、まったく言及されなくなる。コロサイ書以外、コロサイの都市の存在を示すものは全く知られていないのである。
パウロが殉教した年は、残念ながら歴史的にははっきりしない。WTには限らないが一般的にも、西暦65年とされている。
ローマにおける軟禁が2年ほど続いたと使徒行伝の最後にあり、WTはその軟禁中にフィレモン書等だけでなく、コロサイ書等も書かれたとされている。
ネロの時代のローマの大火が64年7月であり、その濡れ衣でパウロが処刑されたのが65年であり、64年7月に軟禁状態から拘禁刑にされたとしても、パウロは地震で壊滅していたコロサイの都市にある会衆に宛てて、手紙を書いていたという残念な結果になる。
このように、コロサイ書がパウロの真筆ではないという外的根拠はいくつか存在するのであるが、完全に否定する証拠とまでは言えないようである。
しかし、コロサイ書がパウロの真筆ではないのであるなら、その書の内部から、パウロの真筆を否定する証拠が存在するように思われる。
専門家は、原文のギリシャ語の文体や構文から、いくらパウロが長文好きで、曖昧な属格表現を多用するといっても、コロサイ書の著者と真筆とされるパウロ書簡とでは、文書形態が著しく、長文であり、同一人物とは考えにくい、という。
確かに、文法的には、一章では、1:3‐8までが一文であり、9‐14節、15‐20節までの引用文を挟んで、21‐23節までが一文、24節から29節までが一文である。内容的にもパウロの真筆とされるフィリピ2:6‐11のキリスト讃歌とコロサイ1:15‐20のキリスト讃歌では、内容的にかなり異なっている。
例えば、フィリピでは、キリストが自らを低くして、僕の形を取り人間と同じ姿になった(2:7,8)としているが、コロサイでは、そのようなキリストの姿は見えない。
コロサイには、キリストがあらゆる万物より先にある(1:16,17)とされているが、フィリピにはそのようなキリストの姿はない。もっとも、フィリピのキリスト讃歌の箇所もパウロには見られない語が使われており、ローマでの軟禁中にローマ教会から知り得たキリスト論的ドグマ詩文を引用したものか、パウロが真似て作った可能性があるようだ。
実は、コロサイ書がパウロの真筆ではないとされる決定的と思える文がコロサイ書には存在する。NWTだけを読んでいては気が付かないが、田川訳と比較し、原文を確かめてみると、そのことがはっきりとわかる。
コロサイ1:24
「今私は、あなた方のための受難において喜んでいる。そして、キリストの患難の不足したところを、私の肉体において、キリストの身体つまり教会のために、補っている。」(田川訳)
「わたしは今、あなた方のための自分の苦しみを歓んでおり、また自分自身としても、キリストの患難のうちの欠けたところを、彼の体のために、自分の肉体において補い満たしているのです。その[体]とは会衆のことです。」(NWT)
分かりやすく表現すると、ここでコロサイ書の著者が述べていることは、パウロが「受難」に遭っているのは、キリストが肉体において受けた「患難」には不足しているところがあるので、パウロの肉体を通して、補うためのものである。その目的は、教会のためであり、信者のためになるのであるから、パウロは自分にとって「受難」となるとしても、喜んでいる、という趣旨である。
田川訳で「受難」と訳しているギリシャ語は、 pathemasinで、pathemaという語の与格中性複数形。前置詞enを伴っており「受難において」という意味。NWTは「苦しみを」としているが、「喜んでいる」という動詞の目的語となっているわけではない。
「受難において喜んでいる」といっても、原文の趣旨は、苦しみことそのものを喜びの対象とする、という意味ではなく、苦しむ状態になったとしても、それでも喜びは失わない、という意味である。
またこの「受難」(pathema)という抽象名詞のもととなっている動詞である「受難する」(pathos)という語は、キリストの「受難」、つまり「殉教の死」に関して使われているギリシャ語でもある。
この個所は、パウロの「贖い」思想と大きく異なっている。キリストの受難にはまだ欠けたところがあり、パウロが自分の受難で、イエスの受難の欠けたところを補う、という発想はパウロにはない。
おそらく、パウロの死を「殉教の贖い」と解釈したパウロ信奉者による発想であろう。
少なくても、この文はパウロのものではあり得ない。パウロは、イエスの贖いをapolytrosisと表現し、神はキリストの血という代価(つまり身代金)をはらって、買い取りしてくれた、と述べている。(①コリ1:30、ロマ3:24,8:23参照)
パウロは「贖い」自体に「救い」や「罪の許し」があるとは、述べていない。
ところがコロサイやエフェソスでは、「我々は御子においてアポリュトローシスを持っている」と述べられている。(コロ1:14)さらに、「贖い」とは、「罪の赦し」(コロ1:14、エフェ1:7)である、という注釈を付加している。
つまり、「贖い」が、キリスト信者が所有する「救済」の意味に独り歩きしており、原義の「身代金」という意味を失っているのである。JW用語で言うところの「神からの是認」とほとんど同義に使われるようになっている。
単に「贖い」という表現だけでは意味が通じにくいので、NWTでは、アポリュトローシスを「贖いの釈放」と訳して、原文にはない「釈放」という解釈を付加している。
また、コロサイやエフェソスでは「贖い」という語に続いて、「罪の赦し」「罪過の赦し」、つまり「救済」という意味の説明的な付加文が付いている。
つまり、それらの文書が書かれた時代に、すでに「贖い」という語が、原義の意味を失っていたことを示している。
パウロが書いた文書なら、自分が造語した宗教用語に、原義の意味を離れた説明句を付加するはずがない。原義に基づいた説明をするはずである。
結局、コロサイ書やエフェソス書は、パウロが書いた文書という体でパウロ信奉者により発行された偽パウロ文書でありながら、正典に組み込まれたキリスト教文書ということになる。
パウロ文書ではないが、ルカ21:28では「贖い」について、「あなた方のアポリュトローシスが近づいている」と述べている。ルカの21章は終末預言の章であるから、ルカはアポリュトローシスを未来の出来事としている。しかし、キリストの十字架での死が、その流された「血」が、我々の罪を贖う代価であったのであるから、「贖い」は未来の出来事ではなく、過去の事柄である。
それをキリスト信者に終末時に享受する「救済」と同じ意味でルカが用いているのであるから、ここでも「贖い」の原義である「身代金」の意味を失っていることになる。
ルカは、パウロと一緒に行動した人物であり、パウロの宣教内容を直接知っていた人物であるが、パウロの「贖い」思想を正確には理解していなかったようである。
パウロはルカがキリストの「贖い」を将来のもの、と考えていたと知っていたのであれば、共に行動していた時に、すでに過去に生じた出来事であるという理解を、ルカに与えていたことであろう。
ルカが福音書において、「贖い」を「罪の赦し」、「救済」の意味で用いているのであれば、ルカが福音書を書いた時代がパウロ文書より以前であるなら、「贖い」=「救済」という信仰的解釈は生じていないはずである。
マルコは、接頭語apoの付かない普通名詞のlytronを一度だけ用いている。(マルコ10:45、並行マタイ20:28)接頭語は、時代を経ると形骸化され、多用化される傾向にある。ルカには、接頭語の付かない「贖い」(lytron)という表現は出て来ない。接頭語付きのapolytrosisという語が使われている。(ルカ21:28)
パウロの死後、「贖い」(アポリュトローシス)という語が、パウロ信奉者たちによって「救済」と同義に使われるようになり、キリスト信者たちの間に普及していった時代の著作が、ルカ福音書である、ということは、ルカにおける「贖い」という語の使われ方からも明らかである。
パウロ文書より、ルカ福音書が先ということはありえない。
マルコよりルカが先に書かれたとするWT解釈も、言語学的には時代を逆行する奇妙な教えである。
いずれにしても、「贖い」(apolytrosis)というパウロ的キリスト教用語の内容を検討してみるといわゆる真正パウロ書簡とコロサイ書の用法は異なっている。
パウロとは異なる宗教信条の持主によって書かれた著作を、同じパウロの著作とすることはできない、と判断するのが理性的であろう。
コロサイ書とエフェソス書には、共通のキリスト教的概念が存在している(が、同一の筆者によって書かれたものである可能性は低い。しかし、WT理論からすれば、)コロサイ書がパウロの著作ではないのであれば、当然エフェソス書もパウロの著作ではない、と判断するのが、妥当であろう。(訂正追記)
NWTの聖書や出版物に書いてあるから、真実だと信じるのであれば、それも自由である。しかし、信じていることが事実に基づいていないとしたら、真実と信じることにどれほどの価値があるのだろうか。
「あなたのうちにある光が実際のところ闇であれば、その闇はどんなにかひどいことでしょう」(マタイ6:22)とイエスが語ったとされている。
WT解釈の「光」が実際のところ「闇」でないことを願っています。どうぞ、よこしまな目ではなく、純一な目で聖書とWT文書を調べてみることをお勧めします。
※ コロサイ書とエフェソス書には、共通のキリスト教概念が存在しているので、同一の著者である可能性が高い、と最初に書いてしまいましたが、間違いです。
「高いとしても、WTの論理からすれば」と書くつもりでしたが、文が長いので、「高い」で切ってしまいました。そのおかげで意味が逆になってしまったことに後で読み返しみて、気付きました。
エフェソス書の著者はコロサイ書の著者の文を引用しして批判しているので、同じ概念と思われる文言が共通に存在するだけだと思われます。お詫びして訂正いたします。申し訳ありませんでした。