●パウロが、オネシモを送り返した真の動機は?(フィレモンより)

 

フィレモンへの手紙がどのように理解されているかを整理しておく。

  1. 奴隷オネシモが主人フィレモンのところから逃亡した。

  2. ローマにいるパウロの証言を受け、キリスト信者となった。

  3. オネシモは悔い改めたことを示すために、帰るように説得された。

  4. パウロは、信者でもあるフィレモンに手紙を書き、オネシモに持たせ、奴隷から解放して自由人にするよう頼んだ。

  5. オネシモは逃亡する時、主人の金を盗み出したが、パウロはその弁償を請け負った。

  6. それゆえ、この手紙はパウロの仲間に対する深い愛情と自己犠牲、また惜しみなく仲間を赦す精神を示した模範である。

 

1.に関しては、前回に記事で少し触れたが、オネシモが「逃亡した」という根拠はない。16節の「もはや奴隷としてではなく」とは、彼がフィレモンの「奴隷」という身分である、ということの証明にはなるとしても、主人のところから逃亡してローマに来た、という証明にはならない。

むしろ、13節で「あなたに代わって」パウロに仕えてもらうため、というのであれば、フィレモンがオネシモにパウロに贈り物を届けるように、命じた可能性の方が高いと思われる。逃亡してローマに来たのではなく、主人の命令で奴隷の務めを果たすためにローマに来た可能性がある。

 

2.のオネシモはパウロからキリスト教に接し、信者となったというのは事実であろう。10節には、オネシモのことを「私が囚われの中で生んだ私の子」(田川訳)と紹介している。パウロが自分の手ほどきでキリスト信者となった者を「私の子」と呼んでいるのである。

JWでもよく司会者が自分の研究生を「霊的子ども」と表現して、文字通り自分の子供であるように接するのと同じである。

 

3.のオネシモに主人のもとに帰るように説得した、というのであれば、13節で「彼を手もとにとどめておきたかったのは私である」というパウロの言葉は、パウロの動機と矛盾する。

パウロは、明らかにオネシモを自分の手元に置いて、自分の奴隷として使っていたいと思っている。パウロはローマでオネシモをキリスト教の信者とした後も、自分の奴隷として使っていたのであり、彼が有用であるとわかったので、自分の手もとにとどめておきたかったのだ、と思われる。

 

他人の「奴隷」を「無益な者」「無用な者」と評価するパウロの姿勢はともかく、実際11節で、「今では」と但し書き付きで書いているが、オネシモがパウロにとってもフィレモンにとっても「有用な者」であることを認めている。

オネシモの帰りがあまりにも遅いから、早く帰るよう主人から手紙か使いが届いたのだろうか。その言い訳として、「彼を手もとにとどめておきたかったのは私である」とパウロは言ったのであろう。オネシモが原因で帰りが遅くなっているのではなく、私パウロが帰したくなかったのだ、と。それで仕方なくパウロは、オネシモにこの手紙を持たせて、返すこととしたのだろう。

「私である」とパウロが言っている以上、決して、オネシモに責任がないのは明らかである。

 

 4.の奴隷から解放して自由人にするよう頼んだ、と解する根拠も16節とされるが、を検証するために、少し長いが10‐20までを比較してみる。

 

10つまり私が囚われの中で生んだ私の子オネシモスのことについて呼びかけているのである。11彼はかつてあなたにとって無益な者であったが、今やあなたにとっても、また私にとっても有益な者となっている。12その彼をあなたのところに送り返した。すなわち、私の感情なのだ13彼を手もとにとどめておきたかったのは私である。あなたに代わって、福音の故に囚われている私に仕えてもらうためである。14しかし、あなたが認めるのでなければ、何もすまいと思った。あなたの善意が強いられたものではなく、自発的なものになるためである。15おそらくは、この故に彼は一時の間離れていた、ということだろう。あなたが彼を以後ずっと受領するために。16もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、愛すべき兄弟としてである。私にとっては特にそうであるが、ましてやあなたにとってそうである。そしてそれは肉においても、主においても、そうなのだ。17もしもあなたにとって私が仲間であるのなら、彼のことを私と同様に受け入れなさい18もしも彼が何かあなたに損害を与えたか、借りがあるのであれば、それは私につけておくように19私パウロが自分の手で、ほかならぬ私が弁償する、と書いているのだ。あなたはあなた自身を私に負っているのだ、ということは敢えて言わぬことにしようか20然り、兄弟よ。あなたのことは主にあって納得していたい。私の感情をキリストにあって安んじさせてほしい。(NWT)

 

10わたしは自分の子、わたしが[獄に]つながれている間にその父となったオネシモについて、あなたに説き勧めているのです。11彼は以前にはあなたにとって無用なものでしたが、今ではあなたにも私にも有用な者です。12この人を、わたしはあなたのもとに送り返します。そうです、わたしの優しい愛情たる人を。13わたしは彼を自分のためにとどめておき、わたしが良いたよりのためにこうして[獄に]つながれている間、あなたに代わってずっと仕えてほしいとも思います。14しかし、あなたの同意なしには、どんなことも行ないたくありません。それはあなたの良い行ないが、強いられたものではなく、あなた自身の自発的な意思によるものとなるためです。15実際には、あなたが彼をいつまでも[自分のものとして]受け戻すこと、このために彼は一時のあいだ離れたのかもしれません。16しかも、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上のもの、愛する兄弟としてです。特にわたしにとってそうですが、あなたにとっては、肉の関係においても主にあってもなおさらそうであるはずです。17それで、わたしを、共に分け合う者と考えてくれるのでしたら、わたしにするように、彼を親切に迎えてあげてください18また、もし彼があなたに何か悪いことをしたのでしたら、それをわたしの勘定としてください19わたしパウロが自分の手で書きますが、わたしがそれを返します―あなたもまた自分自身をさえわたしに負っていることを言うつもりなのではありません20そうです、兄弟よ、キリストとの関係でわたしがあなたから益を得られますように。キリストとの関係でわたしの優しい愛情を新たなものにしてください。(NWT)

 

大きな訳の違いを赤字で示したが、原語の意味を確かめてみる。

 

12節「私の感情なのだ」(田川訳)を「私の優しい愛情たる人」(NWT)と訳している。「感情」と訳されているギリシャ語は、splanchnaで通常複数形で用い、「内臓」の全体、特にその中心部(心臓、肺、等々)を指す。比喩的「感情」を意味する。しかし、この語に「心」という意味はない。

 

当時、内臓はあらゆる感情が宿る場所と考えられていたが、特定の感情、怒りとか喜びとかに限定されていたわけではない。古典ギリシャ語では「怒り」を意味する場合が多いが、それがどういう感情であるかは、前後関係から判断され、様々な感情について用いられた。同じ語をNWTは使徒1:18で「腸」と訳している。

 

この語を「心」の意味に訳したがるのは、ルターがこの個所を「私の心」(mein Herz)と訳した伝統に従ったもの。

 

また、ここが「彼、すなわち私の内臓=子」という意味であるとしても、決して聖パウロ様の慈悲深い愛情の表現というのではない。

この書簡の目的は、パウロにとってオネシーモスは便利な召使だから、とりあえずフィレモンさんの奴隷であるから返すけど、お墨付きを与えて、もう一度聖パウロ様のところに送り返してくれ、というおねだりの手紙である。

つまりそう解するとしても、オネシモスは「私の内臓」みたいな存在であるから、私から取り上げないでくれ、と言っていることになる。

続く文には、私の思いに反して彼を送り返すことにした、と言っているのだから、オネシモスを送り返すことは、本当は私パウロにとっては嬉しくない、ということを曖昧に「私の感情」と表現したのであろう。

事実、11,13節にあるように、パウロはオネシモスを自分の召使として使い続けたかった。しかし、主人のフィレモンが早く送り返してほしいと催促してきたので、仕方なく送り返すことにしたと思われる。

 

NWTの「私の優しい愛情たる人」という訳は、ルター以来の伝統の「心」と原義の「内臓」=「子」という説を合成したもの。つまり同じ語を二重に訳して、パウロの愛情深さを演出したもの。おまけに原文にはない「優しい」という修飾語までつけて過大に聖人化させている。

ちなみにKIは、ema splagchna=my bowels(内臓)としているが、英訳は、my own tender affectionsとしている。和訳は、KIもNWTも訳していない。英文に「人」に相当する語はない。

 

 

15節の「受領する」(田川訳)を「[自分のものとして]受け戻す」(NWT)と訳しているが、原語は、apechoである。

 

JW経験者の中には、「アペコー」という語を山上の垂訓の中に出て来るパリサイ人の偽善的な憐れみの施しに関する教訓で聞き覚えがあるかと思う。

マタイ6:2ではイエスの言葉として「自分の前でラッパを吹いてはなりません。あなた方に真実に言いますが、自分の報いを全部受けているのです」とある。この「全部受けている」に相当する語が「アペコー」である。

つまり「彼らは自分たちの報いの受領書に署名した」、「彼らの報いを受ける権利は、まさに彼らがその報いに関する受領書をすでに渡したかのように、現実のものとなっている」という意味である、という註解を覚えている人も多いことだろう。

 

では、この個所の「あなたが彼を以後ずっと受領する」「あなたが彼をいつまでも自分のものとして受け戻す」とはどういう意味か。

 

オネシモスがフィレモンのもとに帰ることを「受領書に著名した」「報いを全部受けている」と考えろ、と言っているのだから、単に「送り返された後、彼は、あなたのもとにずっといられるでしょう」という意味ではない。

 

奴隷の主人でもないパウロが、自分で勝手に奴隷としていたにもかかわらず、実の奴隷の主人に領収書を発行出来ますよ、というのは嫌味というか、立場を無視したひねくれた言い方に他ならない。オネーシモスを商品扱いにしているだけでなく、わざわざもったいぶって領収書の書式に合わせて、彼が帰って来たら、あなたは「受領書に著名できるよ」と言っているのである。

 

つまりパウロは、本当は便利だからオネシーモスを手もとに置いて召使として利用しつづけたかった。しかし主人のフィレモンから催促され、仕方なく送り返すことにした。うるさいなぁ、フィレモンさんよ。請求されたのなら仕方がないから送り返してやるよ、あんたのものだというのであれば、送り返してやるから、しっかり受領しな……、という感情が顕れているのである。

 

この言葉の真意が理解できるなら、14節の「あなたが認めるのでなければ、何もすまいと思った。あなたの善意が強いられたものではなく、自発的な者となるためである」というパウロの言葉も、おためごかしの表現であり、実際にはそう思っていないことが明らかである。

 

17節の「もしも私が仲間であるのなら、彼のことを私と同様に受け入れなさい」と言葉も、裏の意味がある嫌らしい表現であることが想像できる。「私パウロ様の要望を受け入れなさい」と圧力をかけているのである。

 

18節の「損害を与えたか、借りがあるのであれば、それは私につけておくように」というパウロの言葉も、オネシモが与えた損害を、実際に賠償をするつもりがあるのではない。

もし本当に損害賠償するつもりがあるのであれば、「もしも……であれば、……するように」と仮定法で言うことはない。実際には、オネシモがフィレモンに対して借りや損害を与えたわけではなく、パウロも損害賠償を支払うつもりはない。

二人称命令形で「つけておくように」つまり、実際に「支払う」と言っているのではなく、「帳簿上につけておくように」と言っているだけである。

 

19節で、「私パウロが……、ほかならぬ私が……」(田川訳)を「私パウロが……わたしが……」この二つの「私」は非常に強調されている。動詞の一人称単数形で言うだけでなく、わざわざ一人称単数の主格の代名詞(ego)をおいて、極めて強調した言い方をしている。田川訳の「ほかならぬ」は原文の強調表現を表わしたもの。

 

「弁償する」(apotino(_))はapotino(_)で、frompayI repay, pay what is due。「分離」の前置詞であるから、自分が代わって支払う、という意味。もちろん、パウロは本当に支払うつもりはない。それで、「弁償する」と口では言いながら、「あなたはあなた自身を私に負っているのだ」とは敢えて言わぬことにしようか、つけ加えている。

 

「敢えて言わぬことにしようか」の直訳は「……言わないためには」。つまり、わざわざ本音を言わなくても、わたしが弁償してやればいいのだろう、という言い方。これも一種の脅しである。お前さん、まさか、本気になって俺に賠償金を請求しようというのじゃないだろうな。本気なら、お前がクリスチャンになれたのは誰のおかげだ。こっちも本気になって、言わなきゃならなくなるぜ……。別に恩に着せたりはしないけどね、と言いながら、恩着せがましい言い方をして、脅しているのである。

 

「あなた自身を負っている」とは、「あなたがキリスト教信者となったのは私のおかげだろ」という意味。しかし、パウロはそれを、あなた自身の存在そのものが私のおかげなのだ、と「負っている」と大層に表現する。

 

キリスト信者になるということは永遠の生命を与えられる、ということであるから、パウロ教信者は、パウロ教に生命の存在を負っていることになるのだろう。だが、フィレモンがパウロから直接キリスト教の手ほどきを受けたとしても、それを「あなたの存在自体が俺のおかげなのだ」という司会者は傲慢なうぬぼれ屋であり、権力志向の権威主義者。本来存在のすべては、「人間」ではなく、すべて「神」にのみ負っているはずである。

 

まぁ、JWの司会者にも似たようなご立派な開拓者や特開者などは多くいるし、それを崇め奉る信者も多くいるが……。

 

NWTの「私パウロが自分の手で書きますが、わたしがそれを返します」。「書きますが」と譲歩の意味に解し、文を続けているので、パウロの傲慢さが消えている。

原文の動詞「書く」「返す」はどちらも定動詞。謙遜さや譲歩の意味はない。むしろ主語の「私」が強調されているので、「俺様が……」という感じである。

 

20節の「納得していたい」(田川訳)の字義的な意味は「利益を得る」という意味。ここは中動相で、「自分自身に利益を得させる」という意味。

実際にはもっと屈折していて、「いい感じになっている」「そうであれば私にとってはいいのだが」という気持ちを一語(oninemi)のこの語を中道相で表現したもの。あなたとは積極的な良い関係でいたい、という気持ちをそのアオリスト希求形の慣用句で表現したもの。

NWTは「益を得られますように」と訳している。

 

以上、原文から見ると、キリスト信者となった逃亡奴隷のオネシモを、パウロが優しい愛情をもって、彼の負債を肩代わりして、主人のフィレモンに許しと寛大な処置を懇願している文書であるとは言えないように思う。

 

聖なるパウロ様がそのような下世話なおねだりをするはずがない、と検証することなく、信じるのも自由である。しかし、そう信じるのは統治体が聖霊によって導かれているので、神やイエスと同じ動機で物事を扱っているはずであると信じるのに似ているように思う。