●オネシモスは本当に逃亡奴隷だったのか。(フィレモンへの手紙8,9より)
フィレモン書簡は、パウロがオネシモスという逃亡奴隷についての嘆願を奴隷の主人であるフィレモンに依願した手紙である、と信じられている。
WTも同様で、洞-2,p649では、「使徒パウロがこの手紙を書いた目的は、逃亡奴隷オネシモスを親切に再び迎えれるようフィレモンを励ますことにありました。パウロは使徒としての自分の権威でそうするようフィレモンに命令せず、むしろ愛と個人的な友情に基づいて訴えています。(フィレ8,9)」とある。
本当にその通りであるのか、8,9節を確かめてみる。
8さて、あなたがなすべきことを私はキリストにあって率直にはっきりとあなたに命じることができるのだが、9むしろ愛の故に呼びかける。パウロほどの者が。老齢であり、今やキリスト・イエスの囚われ人である私が。(田川訳)
8このゆえにこそ、わたしは、当然行なうべきことを、キリストとの関係で大いにはばかりのないことばで命じることができるとはいえ、9むしろ、愛に基づいてあなたに説き勧めているのです。わたしはこのとおりの者、年寄りパウロであり、しかも、今はキリスト・イエスのために囚人ともなっているからです。(NWT)
まず、8,9節からでは、オネシモスがフィレモンのところで何らかの悪事を働き、逃亡してきた奴隷であるというようなことは示唆されていない。
田川訳とNWTとでは、ずい分印象は異なるが、パウロがフィレモンに対してオネシモスに関する事柄でおねだりしようとしていることがわかる。
NWTでは、「当然行なうべきこと」を「命じることができる」のであるが、敢えてそうせずに、「愛に基づいて説き勧めている」という表現になっている。
一方、田川訳では、「むしろ愛の故に呼びかける」とは言っているものの、実際には、暗に「パウロほどの者が」、「キリスト・イエスの囚われ人である私が」「あなたに命じることができる」のに、あえてクリスチャンらしく「愛の故に」と譲歩してやっているのだ、と脅しているように読める。
原文ではどう読めるのだろうか。
「あなたに」(soi)という代名詞は、原文では「命じる」(epitasso)という動詞の直接目的語となっている。しかし「呼びかける」「説き勧めている」(parakaleo)という動詞には、「あなたに」という代名詞は付いていない。
「命じる」という動詞は、単に「指示する」というより、かなりきつい語で、接頭語(epi)を重視するなら「ちゃんとやれよ」というニュアンスになる。
「呼びかける」「説き勧めている」という動詞は、字義的には「そばで呼ぶ」(para+kaleo)で、状況により、「慰める」「励ます」など様々な意味に使われる。(②テサ3:4参照)パウロの場合は「命じる」よりきつくはないが、かなり権威に訴えた命令口調の言葉である。しばしば、「訓戒する」「勧告する」という趣旨で使われる。(①コリ4:16,14:31,16:15参照)
この個所では、「お願いする」「懇願する」というような低姿勢の物言いではなく、露骨に押し付けがましい言い方をしている。
つまりNWTは、「命じる」にかかるべき「あなたに」という代名詞を「説き勧めている」という動詞にかけて訳すことより、嘆願するパウロを演出しているのである。
また「パウロほどの者が」の直訳は、「パウロのような、それほどの者が」。「それほどである者」(toioutos on=such-one being)は主格であり、同じ主格の「パウロ」と同格に置かれている。
これを言っているのはほかならぬこのパウロ様である……、わかっているだろうな、という感じである。半ば権威を笠に架けた脅しである。
更に「老齢」(presbutes)も主格であり、「パウロのような」「それほどの者」とも同格で置かれている。冒頭で「囚われ人」と自分を紹介しているのに、もう一度丁寧に、「今やキリスト・イエスの囚われ人である」という修飾句までつけて、「呼びかけて」「説き勧めて」下さっているのです。
NWTは「老齢」を「年寄り」と訳しているが、通常は「年長者」と訳し、「長老」と同義に扱っている。
巡回監督と長老から「命じる」のではなく、「あなたに説き勧めているのです」、しかもお願いしているのは「キリストのために無実の罪を着せられているクリスチャンなのです」と言われて、申し出を断っても長老の自分に対する評価は全く変わらない、と考えるJWはどれほどいるのだろうか。
わざわざそのような言い方をする巡回監督や長老たちは本当に全く打算も計算もなく、純粋に「愛と個人的な友情に基づいて訴えて」「あなたに説き勧めて」来ることがあるだろうか。
私の経験上では、残念ながら、権威と見返りをちらつかせながら、ご親切な申し出をして下さるご立派な方々は多く存じ上げておりますが、純粋な関心を示して下さる方はそれほど多くなかったように思います。
巡回や長老たちは、聖霊によって任命されているのだから、すべて良い動機で、神と同じ基準で信者と接しているに違いない。ましてや統治体は隠れた動機や偽善的な愛を持って信者を利用することなど決してない、と信じるのも自由です。何を信じるのも自由ですが、自由には責任も伴います。信仰の結果も自己責任で。
オネシモスが逃亡奴隷であるとされている根拠は、16節の「もはや奴隷としてではなく」という句だけのようだ。しかし、この句でさえ、オネシモスがフィレモンの「奴隷」であることは事実であるとしても、「逃亡奴隷」であることの証拠とはならないようだ。
ではパウロはどのようないきさつで、フィレモンに手紙を書いたのだろうか。その点は次回。