●神が「石」からアブラハムに「子供たち」を起こすことができるとは?(マタイ3:9より)
パウロのご立派な人間性を示す箇所は、フィリピ書の中にもまだまだたくさんあるのだが、あまりの「霊的な人」ぶりに、食傷気味になってきたので、少し別の話題を一つ。
神の全能性を示す箇所の一つにマタイ3:9がある。NWTでは次のように訳されている。
「そして「わたしたちの父にアブラハムがいる」などと自分に言ってはなりません。あなた方に言っておきますが、神はこれらの石からアブラハムに子供たちを起こすことができるのです。」
この言葉は、バプテストのヨハネのもとにパリサイ人とサドカイ人がバプテスマを受けようとして来た時に、彼らの悪い動機を見抜き、神を侮ることのないように警告する言葉の一部とされている。
WTでは、この句を、アブラハムの子孫であることによる救いと、ユダヤ教の教義や律法に基づいて義を得ようとする行為の愚かさと動機の不純さを警告するためにバプテストのヨハネに神が語らせたものだ、と解説されることがある。
それで、血縁関係や霊的な立場につけこんで、物事を優位に運ぼうとしたり、神の是認を得ようとしてはならないことの警告とされる。
あるいは、如何なるものも神の目的を阻むことが出来ないことの引き合いとして、神は「石」から「アブラハムの子供たち」を起こすことが出来る。それゆえ、「アブラハムの胤」を生み出すと言う神の目的を阻み得るものは存在しない。神の目的は「アブラハムの胤」を擁するWT組織により、必ず実現することの教訓とされたりする。
しかし、本当にバプテストのヨハネはそのような意味で「石」から「子供たち」を起こせる、と言ったのだろうか。
なぜ「石」から「子供たち」なのだろうか。
日本語や英語から見てもピンとこない。しかし、この個所のギリシャ語をアラム語で読むと理解できるようだ。
アラム語で、「石」は単数形で「エベン」、複数形では「エバニーム」と言います。
アラム語で、「子供」あるいは「息子」を「ベン」と言い、複数形の「子供たち」は「バーニム」と言う。
バプテストのヨハネはアラム語を母語とするユダヤ人であったと思われます。当時の通俗ギリシャ語も話していたかもしれませんが、あくまでも第二外国語であったと思われます。
つまり、バプテストのヨハネは、「神はこれらの石からアブラハムに子供たちを起こすことができるのです」と言った時に、アラム語で「エバーニム」から「バーニム」を起こすことができるのです、と言ったのだ。
確かに「エバーニム」を「バーニム」にするためには、「エ」を取れば済むことになる。神が一度、口出した言葉は、必ず実現してから出なければ、神のもとには帰らない、(イザヤ55:10,11)という信仰がユダヤ人の間に存在したのであれば、ユダヤ人に対して説得力を持つ表現となったと思われる。
もし、マタイ福音書が最初ヘブライ語で書かれ、その後ギリシャ語に翻訳されたのであれば、ギリシャ語の文にヘブライ語の註解(訳せば○○である)が入っていたはずである。
しかし、この種のヘブライ語の註解が入っているギリシャ語写本が存在しないということは、バプテストのヨハネ集団にアラム語で伝わっていた伝承がギリシャ語に翻訳され、キリスト教に取り入れられたことを示すものであろう。
マタイが福音書を刊行する時には、すでにアラム語の語呂合わせのことは忘れられ、イエスの神の子信仰だけが独り歩きしていたことを示している。
このバプテストのヨハネの言葉がアラム語で語られたと考えられることは、決して、マタイ福音書がヘブライ語で発行されたことを示す証拠ではなく、むしろ最初からギリシャ語で書かれたことの傍証である。