●「良いたよりにふさわしく行動する」とは?(フィリ1:27‐30より)
JWにとって、「良いたよりにふさわしく行動する」とは、善良な市民として社会生活を送ることだけを意味しているわけではない。
それに加え、「野外宣教に参加すること」や「集会に定期的に出席すること」。更には、「寄付すること」や「人をもてなすこと」。JWクリスチャンとして求められるWT教理のあらゆる要求に対して及第点の評価を長老から得て、生活することを意味している。
家庭生活での夫や妻としての役割、親や子としての役割はもちろん、会衆での割り当てや奉仕、その他信仰生活のあらゆる分野で、「ふさわしい」か「ふさわしくない」かが、自己吟味させられる。
集会や出版物では、人間はみな不完全であり、「罪人」であることが意識させられる。自尊心が低下していると、不必要な「罪悪感」が芽生え、自罰感情から、償いのために「ふさわしい」ことを行なわなければならない、という強迫観念に動かされてしまう人も多いように思う。
「ふさわしい」「ふさわしくない」という行動の基準は、どこにあるのか。結局は、「組織」「会衆」「家庭」における権威者、あるいは有力者の判断でしかないことも多い。
「神」に関しても、「組織」や「会衆」に関しても、「家族」に関してさえ、「愛」を旗印として掲げていながら、JWの行動原理は、「権威主義」や「虚栄心」あるいは「劣等感」や「罪悪感」にあるように見える人も多い。
この「良いたよりにふさわしく行動する」ということは、本当は何を意図して書いたパウロの言葉なのだろうか。
田川訳とNWTとを比較してみる。
27ただ、キリストの福音にふさわしい生活をしなさい。私がそちらに行ってあなた方に会うにしても、離れているにしても、あなた方についてのことを、つまりあなた方が一つの霊において立ち、福音の信仰のために一つの精神でともに競争しているということを聞くことができるように。28またいかなることについても敵対者たちによって動揺させられずにいるということを。このことは彼らに対しては滅びの証、あなた方の救いの証である。そしてこれは神から生じることである。29というのは、キリストのためのことは、あなた方にとっては、恵みとして与えられたのである。単にキリストを信じるということだけでなく、キリストのために受難することも。30あなた方は、以前私について見ており、今私について聞いているのと同じ競争をなしているのである。(田川訳)
27ただ、キリストについての良いたよりにふさわしく行動しなさい。わたしが行ってあなた方に会うにしても、あるいは離れているにしても、あなた方について[このことを]聞けるようにするためです。すなわり、あなた方についての信仰のために相並んで奮闘し、28いかなる点でも、あなた方の敵対者たちのゆえに恐れ驚いたりはしていないということです。実にこのことは彼らにとっては滅びの証拠ですが、あなた方には救いの[証拠]です。そしてこうした[示し]は神からのものです。29あなた方には、キリストのために、彼に信仰を置く特権だけでなく、彼のために苦しむ[特権]も与えられたからです。30あなた方には、わたしの場合に見、また今私の場合について聞いているのと同じ苦闘があるのです。(NWT)
「キリストの福音」という田川訳に対して、NWTは「キリストについての良いたより」と訳している。原文は、tou euaggeliou tou christouで、定冠詞付き「福音」属格に定冠詞付き「キリスト」属格を重ねて表現したもの。直訳は「キリストの福音」であり、NWTは、属格「キリスト」を「キリストについての」と与格の意味を持たせて限定的に訳している。
「ふさわしい(く)」という訳のギリシャ語は、axiosという副詞で、「重きを置いて」「価値あるものとして」という趣旨。
つまり「キリストの福音にふさわしい」とは、「キリストの言葉を信仰して」という意味にも、「キリストの生き方に倣って」という意味にも、「キリストに対する信仰を大切にして」という意味にも取れる。
それをNWTは「キリストについて聖書が述べている良いたよりに従って」という意味で用いている。「良いたより」とは「WTが説く聖書理解、キリスト理解」という意味であるから、結局「WTの教えに従って」という意味と同義になる。
そして、ここで「行動しなさい」とNWTが訳している原文のギリシャ語は、politeuomaiという動詞で、「市民」(polites)という名詞を動詞化したもの。「日常生活を送る」という意味であり、「市民」ということに特別な意味を含んだ、ましてや佐竹訳「[教会]生活を送る」というような特殊な信仰生活を意味する言葉ではない。
田川訳が「ふさわしく」という副詞を「生活」にかかる形容詞「ふさわしい」と訳したのは、「市民」に由来する動詞を、「生活する」ではなく、「生活をする」と名詞+動詞表現にして、「市民」=「生活」という概念を生かしたかったからであろう。
しかしWTの説明によると、この語は、「フィリピ人は良いたよりの宣明に、「市民」として参加するようにと言われたのです。……パウロはここでクリスチャンが不活発で、単なる名目だけのクリスチャンになってはならないことを告げていたのです」(WT85/11/15P29)と註解している。ローマ「市民」という概念を特別な意味を持つものとして刷り込ませようとしている。
しかしながら、パウロは自分の「福音」以外を「福音」とは認めていない。エルサレム教会の「使徒」たちをも「優秀な使徒たち」(コリ②11:5)と皮肉を込めて呼び、彼らが「使徒」であるなら、自分も立派な「諸国民へと使徒」(ロマ11:13)であると豪語している。
おそらく、パウロの「福音」という語の使い方からすれば、「パウロの説くキリスト教を信仰して」という意味であろうと思われる。
パウロは、宣教者と一般の信者と同列に扱うことはしていない。(ロマ16:3,9他「同労者」という表現の使い方参照)パウロのキリスト教を受け入れたフィリピの信者たちに宣教をするように勧めている箇所もない。彼らが宣教していたということを明確に示す記述もない。
パウロは、自分が宣教するキリスト教を信じた信者を、en chritoと「キリストにある」と表現している。NWTはこの表現を「キリストと結ばれている」と訳し、神によりキリストと新しい契約下にある天的なクリスチャンを指す表現としているが、あくまでも今で言えば、キリストを信じている人間、クリスチャンという意味に過ぎない。まだパウロの時代には、「クリスチャン」という言葉が一般的ではなかったので、パウロはen christoと表現しただけである。
この「キリストの福音にふさわしい生活をしなさい」というパウロの言葉も、「キリストにあって生きる」という表現と同じ意味であり、「パウロの説くキリスト教を信じて生活する」という意味であろうと思われる。
「福音」とは「キリスト教」のことであり、「良いたよりを宣明すること」という意味ではない。そのことを理解して読むと、「ただ、キリストについての良いたよりにふさわしく行動しなさい」とは、WTが説くようにパウロは不活発なクリスチャンになることのないように告げているのではないことは明らかである。
第一「不活発なクリスチャン」とは、「6か月間連続で奉仕報告が0であるJW」を指すWT用語である。一世紀のパウロやすべてのクリスチャンが会衆やエルサレムの統治体に奉仕報告を提出していたかのような前提で聖書を解釈するのは本末転倒である。
フィリピ人の行動がふさわしいかどうかを現代のWT基準を前提に評価し、それゆえ一世紀のクリスチャンも同じ判断をしていたはずだ、と信じるのは盲信の部類であろう。
それでも、WTの統治体が承認する聖書理解は唯一無二の「真理」だと信じるのであれば、どうぞご自由に。
パウロが言う「福音」とは「パウロ的キリスト教」であることを理解して読むと、28節の意味も、変わって来る。
NWTは「いかなる点でも、あなた方の敵対者たちのゆえに恐れ驚いたりしてはいけない」と訳しており、実際にパウロやフィリピの信者たちに対する迫害が加えられていたかのように読める。
それに対し、田川訳では「いかなることについても敵対者たちによって動揺させられずにいる」となっており、実際の敵対者たちが存在していたのか、それとも単に敵対者を想定しているだけで、反対意見に自分の信仰を左右されてはならない、と言っているだけなのかはっきりしない。
原文の「いかなることについて」「いかなる点でも」と訳されている箇所は、en medeniという前置詞句。英語の字義訳ではin no-yet-oneでin anything KIでは、in nothingとしている。
ところがNWT英訳では、in no respecet (一切の敬意も持たずに)と訳?している。それを和訳が「いかなる点でも」と訳?したのである。
(追記:respectにpoint,detailという意味があるが、NWTがわざわざin no pointではなくin no respectとしたのは意図的だろう。in this respectならpointの意味で使っているとすぐ理解できるが、in no respectとするとwithout respectの意味にも読める。in anythingの方が誤解を生じさせない。)
英訳NWTは底本としているKIを忠実に字義訳しているわけではないし、日本語NWTは、英訳NWTを忠実に字義訳しているわけでもない。
「敵対者たちによって」「あなた方の敵対者によって」の原文は、hypo ton antikeimenonという前置詞句。字義訳すると、under the ones-opposing。「敵対者たち」と訳されているギリシャ語は、「反対する、反対である」という動詞の現在分詞に定冠詞を付け名詞化して、「敵対者」の意味に用いたもの。原文に「あなた方の」という代名詞は付いていない。
NWTは、単に「敵対者」という分詞が属格で表現されているので、その定冠詞も属格になっているだけであるのに、いかにも実際にフィリピ会衆には「敵対者」たちが存在しているかのように、ただの定冠詞を代名詞が付いているかのように「あなた方の」と訳したのである。
底本としているKIも、by the (ones)-lying-againstとしているだけで、yourとはしていない。英訳NWTが、by YOUR opponentsとしたのである。
日本語NWTは、その和訳。しかもbeing frightenedを「恐れ驚いたりはしていない」と動詞を重ねてオーバーに表現している。
実際に敵対者の脅迫行為に直面しているかのように想定しているのだろうが、当時のキリスト教は統治体により統合されている一つのキリスト教であったという教理を前提でなければ成立しない表現である。
しかも、当時の「敵対者」とは、パウロとは異なるキリスト教というのではなく、キリスト教に反対していた「ユダヤ教徒」ということになってしまう。
ここは単に、敵対者に影響を受けて動揺したりしてはいけない、というだけのことを、パウロらしく大袈裟に表現しているだけ。パウロが実際に「敵対者」という語を用いているのは、この個所とコリント第一16:9のみ個所のみ。コリントの信者たちは、パウロの説くキリスト論に懐疑的であったキリスト信者たちである。
つまり、ここでもパウロは、自分の説くキリスト教とは異なるキリスト教を敵対者として退けるように、フィリピの信者たちを脅しているだけである。動揺しパウロ教以外のキリスト教を受け入れようとする者は「滅びの証」であり、動揺させられない者は「救いの証拠」である。
パウロ教を受け入れる者にとっては「恵みとして与えられた」のであり」(echaristhe)、[示し]は、「神から生じる」「神からのものである」、とパウロの信念を一方的に宣言しているだけである。
NWTが[示し]を原文にはないが意味上補った語であるかのように、[]でくくっているのは非常に偽善的である。
原文には、はっきりと「恵み」charisという名詞から派生した動詞の受身アオリスト形の動詞(echaristhe)が定動詞で用いられており、原文にはっきりと書かれている表現である。通常NWTは、charisを「過分のご親切」と訳している。
つまり、NWTは、WT以外のキリスト教を「神からの示し」、「救いの証拠」と解釈できる余地を認めたくなかったので、[]でくくり、「過分のご親切」ではなく[示し]としたのであろうと思われる。
「過分のご親切」と表現すると、他のキリスト教、特にカトリックを「大いなるバビロン」の主要な部分との教理が存在する以上、聖書が他のキリスト教の教理や解釈の存在も、「神からの示し」「過分のご親切」の一部として認めなければならなくなる。それを避けるために、敢えて原文にある「過分のご親切」という表現を避け、しかも[]でくくり「示し」と表現し、まるで神からのものではないかのように表現したのであろう。
もし他のキリスト教にも「神の恵み」「過分のご親切が注がれていることを認めてしまうなら、自らも「大いなるバビロンの一部」であることを聖書が証明していることも認めざるを得なくなってしまうことになってしまう。それを避けたのであろう。
そして、パウロは、信者たちに、競技会で競争するかのようにして、「パウロ教」を受け入れるよう競争しなさい、と言っている。
このあたりのパウロの精神は、正にWTの統治体を彷彿とさせる。その意味では、まさしく統治体とは、パウロの模範になら倣っている、聖書的な人間なのであろう。
そのような聖書的な人間を尊敬して、自分の信仰の模範とするか、それともイエスのような生き方を目指すのか、それも個人の自由であろう。しかし、少なくてもパウロは、イエスと同じ「一つの霊」や「一つの精神」を持っていた人間ではなかったように思われる。
それを確かめずに信じるかどうかも信仰の自由であるから、どうぞご自由に。