● パウロは「巡回監督」の祖か?その3 おまけ

 

 先回の記事で、パウロ的キリスト教は、現代の新興宗教と同じように、「業」「しるし」「「奇跡の力」「神の霊の力」という奇跡的行為に、その特徴があったと考えられることを指摘した。

 

 この点に関して、面白い説があるのでついでにご紹介します。

 

キリストの名のもとに、奇跡をおこなったり、悪霊を追い出したりする新興宗教的なキリスト教に対して、マタイ7:21‐23には興味深い表現がある。JWの多くは、この聖句に出て来る「その日」とは「終わりの日」のことであり、終末預言に関係する言葉だと信じている。

「主よ、主よ、という者がみな天の王国に入るのではない。神のご意思を行なう者が入るのであり、預言したり、悪霊を追い出したり、強力な業を成し遂げたとしても、弟子である証拠とはならない。不法を働く者としてイエスからきっぱりと、離れ去れ、と宣言されるだろう」というものである。

 

このマタイの聖句が、実はパウロ主義者たちによるキリスト教を念頭に置いたものではないか、という説がある。パウロの「福音」が「業」「徴」「奇跡」「霊の力」などを特徴としていた事と共通するからである。

 

JW的には、マタイは西暦41年に書かれたということを薄弱な根拠で信じているので、ローマ書との関連で取り上げられることはないが、マタイ福音書が西暦70年以後に書かれているのは明らかである。(その根拠については以前の記事を参照)

 

「福音」という語のパウロの使い方。マルコが最初の「福音書」を書くにいたった動機。マタイが福音書を書いた時代のキリスト教の背景。等々。総合的に判断するなら、十分に考えられる説である。

 

 パウロ主義を前面に押し出しているWTの教理をうのみにしているJWの方は、マタイ7:21‐23で「主よ、主よ、と言いながら、神とキリストから退けられるキリスト信者」が、WTやJWであるはずはない、とお思いの事でしょう。

 

 しかし、それをお決めになるのは、組織ではなく、神とキリストである、というのですから、最終的にはその時になってみなければわからないのでしょう。

 

 「信じる者は救われる」のでしょうから、ご自由に信仰して頂ければ、と思います。

 

 ただし、「善」を「悪」、「悪」を「善」であると言っている者たち、「光」を「闇」、「闇」を「光」としている者たち、「苦い」を「甘い」、「甘い」を「苦い」としている者たちは災いだ!(イザヤ5:20)という言葉がWTやJWに成就しませんように!

 

 信仰は、自己責任である、と常々組織は強調します。

 

 ですから、組織に依存した信仰ではなく、疑問に思うことは、納得いくまで自分で調べ、自立した信仰を培っていかれるように願っています。