● パウロは「巡回監督」の祖か?その2(ローマ15:18-19)

 

もう一度、ローマ15:18‐19を比較しておく。

 

18すなわち私は、異邦人が聞き従うようになるためにキリストが私を通じて、言葉とでもって、19奇跡の力によって、神の霊の力によって、18働き給うた事柄以外については、敢えて何も語るつもりはない。19このようにして私はエルサレムから、ずっとめぐってイリュリコンにいたるまで、キリストの福音を満たしてきたのである。(田川訳)

 

18諸国民を従順にならせるためにキリストが私を通して、すなわち、[わたし]私の言葉と行ないにより、異兆との力、また聖霊の力をもって行なわれた事柄についてでなければ、わたしはあえて一言も語らないからです。19そのためわたしは、エルサレムから、そして巡回しながらイルリコに至るまで、キリストについての良いたよりを徹底的に宣ベ伝えました。(NWT

 

 

18節で、パウロは「キリストが私を通じて……働き給うた事柄以外については、敢えて何も語るつもりはない」と宣言している。

 

JWのWT信仰を前提にすれば、パウロは組織の指示に従順に従って、個人的な見解を会衆に押し付けるようなことはしなかった、と読めるかもしれない。すべての指示は、神がキリストを通じてパウロに与えたものであり、パウロが各会衆に伝える責務を担っていた、と信じているJWも多いことだろう。

 

しかし、原文には、「キリストを通じて私が」ではなく、「キリストが私を通じて」とある。パウロは、自分が語っているキリスト教は、すべてキリストが私を通じて語っているものだ、と宣言しているのである。

 

イエス・キリストの教えに基づくキリスト教がいくつも存在し、ローマにも実際に生前のイエスが語った教えを知っている者もいるかもしれない。しかし、パウロとしてはそのようなイエスの教えについてはどうでも良いのである。自分が幻想の中でであったと信じている「復活したキリスト」、自分に語りかけてくれた「キリスト」以外は、何も語るつもりはない、という宣言である。

 

パウロは、自分が語るキリスト教だけが「福音」であり、自分のキリスト教以外は「敢えて何も語るつもりはない」と居直っているのである。

 

しかし、パウロはローマにこれから訪問する予定なのであり、ローマの信者たちはパウロのキリスト教なるものを熟知していたのではない。それにもかかわらず、「敢えて」何も語るつもりはない、と宣言しているのである。

 

この「敢えて~する」という動詞は、否定語と一緒に用いられている。謙虚な意味で「根拠のない批判があるとしてもそれに甘んじて、あえて~しない」という意味ではなく、たとえ「非難や反対する正当な理由があるとしても、その危険を冒してでも、あえて~しない」という傲慢な意味である。

 

つまり、ローマの信者たちがイエス・キリストについてパウロとは異なるキリストを語ろうとも、自分としては、「キリストが私を通じて」示した事柄以外を語るつもりなど毛頭ないからな、という趣旨である。

NWTが説くように、信者のことを考慮して、「率直に書いて」助言を与える、という動機ではないと思われる。

 

パウロは、ローマの信者たちと同一のキリスト教を奉じていたのではないようである。どこかにある一つしかないキリスト教の中央組織から派遣されて、ローマに行こうとしているのでもないようである。どうやら、パウロは自分のキリスト教だけを「福音」と宣言し、宣教しようとしていたようである。

 

そのパウロ的キリスト教福音の特徴を、18-19節で、パウロ自身が誇っている。

 

パウロ福音の特徴は、「言葉と業とでもって、徴と奇跡の力によって、神の霊の力によって」、働らく事柄にあるという。

 

「言葉」による活動も特徴の一つとしているが、そのほかの「業」「徴」「奇跡」「神の霊の力」とは、すべて何らかの奇跡的行為を表現する言葉である。「奇跡の力」と「神の霊の力」は同義であるが、パウロの「キリスト」とは、「言葉」よりも、「業」と「徴」によって特徴づけられる存在のようである。

 

さて、問題としているNWTが「巡回しながら」と訳している語である。洞察でも触れているが、実際のところ、言語のギリシャ語は「巡回しながら」とは「断定できない」語である。もっとも洞察では「巡回」には触れず、イルリコまで宣教に行っただけなのか、イルリコで宣教奉仕したのかという問題にすり替えているが……。

 

このギリシャ語は「円」kyklos)という語の与格(kyklo(_))を副詞として用いたもの。KIはto-circuit、英訳は、in a circuitを当てている。

 

「丸く」「まわりに」「周辺に」という意味という意味だから、ふつうは迷うことはないが、ここではその前に「そして」(kai)が付いているので、わかり難い。

 

この個所と直訳すると、「エルサレムから。そして丸くイリュリコンまで」となる。「そして丸く」を「エルサレムから」に掛けて「エルサレムとその周辺から、イリュリコンまで」と解する意見がある。

 

一方「イリュリコン」に掛けて「エルサレムから直線的に行ったのではなく、丸く、つまりその中間をあちこち訪れて、イリュリコンまで行った」とする意見の方が文法的には分があるようである。

 

ではこの「そして丸く」とは、パウロがエルサレムから初めて、各地の諸会衆を「巡回訪問」してイリュリコン(バルカン半島)まで行った、という意味だろうか。

 

パウロが伝道活動を行ったのは、シリア、キリキア、小アジア、ギリシャであり確かに、エルサレムとイリュリコンの中間地域であると言える。しかし、パウロはイリュリコンには行っていない。

 

実際には、マケドニアとギリシャの4つか5つほどの大きな都市で伝道活動しただけである。それにもかかわらず、それだけでバルカン半島全体にキリスト教を広めたと言いたいのだろう。

 

その表現が「エルサレムから」すなわち「キリスト教発祥の地」から「イリュリコンまで」つまり「当時の地の果てと考えられていた土地」まで、「丸く」「満たしてきた」。つまり、すべての地を網羅して伝道した、と誇大主張しているのだろう。

 

「丸く」「福音を満たしてきた」とは、「良いたよりを徹底的に宣ベ伝えた」という意味ではない。

 

この文の原文に「宣ベ伝える」という語は使われていないし、「徹底的に」に相当する副詞もない。「満たす」(peple(_)ro(_)kenai)という動詞があるだけである。

 

KIでもto-have-fulfiledを当てている。しかし、英訳が、have thoroughly preached the good newsとしたのである。

 

この「満たす」という動詞をWTが「徹底的に宣ベ伝える」ことであると解釈して、訳に読み込んだのである。

 

決して、現代のJW流「巡回監督」のように、伝道活動していたわけではないようである。

 

NWTにWTの教理を読み込んでいるのは明白である。