●「良心の問題」に関するパウロの矛盾(ローマ14:20-23)

 

JWにはいわゆる「良心の問題」という個人的な嗜好に関する選択の自由を制限するかのような規律がある。ローカル・ルールがあり、ある会衆では「ふさわしい」とされている事柄であっても、別の会衆では「ふさわしくない」とされている事柄が存在する。

 

例えば、服装に関する好みであったり、化粧や娯楽、髪の毛の色やワイシャツやネクタイの柄に及ぶまで、会衆により、要するに時の会衆の権威者の好みにより、異なる基準が存在する。最近では、タイト・パンツの着用の是非に関しても、統治体の成員の好みが基準となっている。

 

その権力者とは、長老や長老夫人にとどまらず、古くから会衆の中心的な役割をしている姉妹であったり、巡回、地域監督(過去の肩書表現)など、ベテルや統治体にコネクションを持つ人間であることも多い。

 

彼らが、自分の好みや判断基準を、「霊的」あるいは「聖書的」と評して、他者にも自分の基準に従うように要求する聖書的根拠はどこにあるであろうか?

 

「良心の問題」で引用される聖句は、ローマ14章と第一コリントス8、10章の「肉を食べる」ことに関するパウロの論議である。その中で登場する「弱い人」と「強い人」との関係をパウロがどのように論理を展開しているか、ローマ14章を例に分析してみたい。

 

まず、14:1でNWTでは「信仰に弱いところのある人を迎え入れなさい」となっているが、パウロは「信仰に関して弱い者を受け入れよ」(田川訳)と勧めている。

 

「良心の問題」に関して、「統治体」や「長老」その他「権威ある人」たちの基準を成員は「受け入れよ」というのである。そうすると「統治体」や「長老」たちとは、「信仰に関して弱いところのある人」であり、彼らの基準を受け入れている会衆の成員は「信仰に関して強い人」でなければならない。

 

ところが、統治体や長老たちは、自分たちを「信仰に関して弱いところある人」と自認しているわけではない。「信仰に関して強い人」として自他共に認めている。その人たちが、自分の基準に「他の成員」は「弱い人」の良心を考慮して、従うべきだと要求する。

 

自分の基準に従わせようとする時だけ、「弱い人」に変節させているのである。内心では「強い者」であると自認しているにもかかわらずに、あるいは自分の基準に同意している成員を「弱い者」に仕立て上げて、彼らの良心を考慮しろ、と要求する。実際、ローマ15:1では、自分を含め「肉を食べない人」を「強い者」としている。 

 

この「弱い者」とは、「肉を食べる」ことは宗教的な「穢れ」に相当する行為である故、「野菜を食べる」ことを選択しなければ、神の是認を得ることは出来ない、と考えている人のことである。

 

この「肉を食べる」ことに関して、WT04/09/01:P8,5節では「豚肉」を食べることに関するユダヤ教律法の禁忌に拘泥している人であるとしている。しかし、78/03/01:P10,9節では、「市場で売られていた肉」、つまり「偶像の前に供えられた肉」(コリ①8:4‐7参照)を食べることを避ける人であるとしている。

 

律法に関係する問題であるならば、ユダヤ教であるなら「是非」に関わる重要な問題であるが、キリスト教はユダヤ教ではない。「律法」は「実体」ではなく「影」であるのだから(ヘブライ8:4)、廃されて、実質的な効力のないはずの律法に拘泥する必要はないはずである。

 

ローマ14章と第一コリントス8章の論議の進め方は同じであり、どちらも同じ問題を扱っていると考えるのが素直。

 

ローマ14章では、ユダヤ教律法に何しては何も言及されていない。「野菜しか食べない人」が「肉を食べる人」に対して、あなた方が「肉を食べる」と我々の信仰が脅かされることになる、という構図に対して、第一コリントス8章では「つまずかせる」と文句を言っている構図である。

 

ユダヤ人の目から見て「異邦人」の都市であれば、肉屋で売っている肉は神殿に犠牲として捧げられた肉が肉屋に卸されたものである可能性が高い。「野菜しか食べない」というのは、「偶像に捧げられた肉」を食べることが、ユダヤ教的「穢れ」となることを畏れるからであり、ユダヤ教信仰に関して強いこだわりを持っているからである。

 

本来なら「肉を食べない人」「野菜を食べる人」が信仰に関して「強い人」であり、禁欲主義を貫けない「肉を食べる人」が「弱い人」であるはずである。

 

ところが、パウロの論議は、逆である。「何でも食べても良い」として「肉を食べる人」が「強い人」であり、ユダヤ教的信念に基づいて「肉を食べない人」が「弱い人」である。

 

「肉を食べる人」が異邦人であり、「肉を食べない人」、「野菜を食べる人」=ユダヤ人という構図である。つまり、パウロとしては、異邦人はユダヤ人に黙って従え、ユダヤ人の良心を異邦人は慮るべきだ、と主張しているのである。

 

内心は自分が「強い者」であり、異邦人が「弱い者」であると思っているのだから、「弱い者」は「強い者」の奴隷となれ、と思っているのに、異邦人の皆さんは「強い者」なのですから、弱い者である「ユダヤ人」を慮らなければならない、ユダヤ人の「つまずき」となるようなことはしてはならない、と御宣託しておられるのである。

 

ローマ14章でも、第一コリントス8章でも、クリスチャンであれば何でも食べてもいいはずだ、と一応寛容な姿勢を見せる。しかし、結論を出す段階になると、やっぱり「肉を食べるな」と自分の本音をごり押しする。第一コリントス10:20では、「偶像に捧げられた肉」を食べる者は「悪霊と交わる者」となると断罪しているのである。

 

ローマ14章の中で、パウロにとって「肉」を食べるかどうかは、個人の選択に任される「良心の問題」などではなく、神の是認、信仰に関わる重要な問題であったのであろう。

 

パウロは、ユダヤ教を脱却したキリスト教を奉じながらも、ユダヤ教を脱却し切れてはいなかったのである。

 

そのことを示す箇所をローマ14:20‐23から。パウロのおためごかしの論理と自己矛盾を紹介する。

 

20食べ物の故に神の業をこわしてはいけない。一切は清い。だが(それに)障害をおぼえて食べる人にとっては、それは悪いものなのである。21肉を食べず酒を飲まないのは良いことである。また何か兄弟が障害をおぼえるようなものを食べないのも、良いことである。22あなたは、あなた自身によれば、信仰をお持ちである。ならば神の前でお持ちなさい。自分が自分で(それが正しいと)検証したことについて自分自身を裁くことのない者は幸いである。23食べる時に疑いを持つ者は、すでに断罪されている。信からではないからである。信からではないことは、すべて罪である。(田川訳)

 

20ただ食物のために神の御業を打ち壊してはなりません。確かに、すべての物は清いのですが、つまずきのきっかけになるのにそれを食べる人には害になります。21肉を食べること、ぶどう酒を飲むこと、また何にせよあなたの兄弟がつまずくようなことは行なわないのが良いのです。22あなたの抱く信仰は、神の御前で自分自身にしたがって抱きなさい。自ら良しとしている事柄について自分を裁かないで良い人は幸いです。23しかし、疑念を抱いている場合、それでもなお食べるなら、その人は罪に定められています。信仰によって[食べて]いるのではないからです。実際、信仰から出ていないことはみな罪です。(NWT)

 

 

「一切は清い」という宣言は、第一コリントス10:23「一切が許されている」に通じている。どちらも「肉を食べるかどうか」に関する論議の中での表現である。どちらも、宗教的な束縛から自由にされ、この食べ物は宗教的に穢れているなどと畏れる必要はない、という意識を標榜している。

 

ユダヤ教に限らず、古代の宗教には食物に関する禁忌が細かく規定されていた。もっともそのような宗教的禁忌は古代に限らない。現在でも、イスラム教の「ハラル」に代表されるように各民族に存在する。

 

初期キリスト教が地中海を中心に爆発的に拡大し、多くの民族に受け入れられたのは、その種の宗教的禁忌をきっぱりと拒絶したからであろう。神殿という場所に縛られて神を崇拝する必要はないし、食べ物に関する宗教的禁忌もない。自由に神を崇拝し、神からの災いを気にせずに、肉を食べることもできる。「一切は清い」のだから。

 

その出発点にはイエスの言葉があったことであろう。マルコ7:15「人間の外から人間の中に入ってきて、人間を穢すことのできるものなぞない。人間の中から出て来るものが人間を穢すものなのだ」。マルコ7:19「(イエスは)すべての食べ物を清いとしていたのである」。

 

それをユダヤ人出身のキリスト教徒が、キリスト教にユダヤ教的禁忌を持ち込んだのである。単に食べ物に関する問題ではなく、「異邦人」を「穢れた存在」とみなすことから生じるユダヤ人選民意識から生じたものである。異教の神殿に捧げられた可能性のある肉を食べることは「穢れ」となる。たから「清さ」を保つためには「肉を避ける」ことが必要である、と。

 

イエスは「一切を清い」としたにもかかわらず、パウロは、「一切は清い。しかし、肉を食べない方が良い」と条件を付けたのである。「一切」であるなら、「肉」を除外する必要はないはずである。除外項目を付帯したことにより、「一切」ではなくなり、付帯項目を「穢れ」とみなしていることになる。パウロは「酒」も付加しているが、ユダヤ教の宗教的禁忌とは無関係であり、全くのパウロの個人的嗜好である。

 

NWTはパウロの皮肉を消しているが、22節の「あなた自身によれば、信仰をお持ちである」(田川訳)とは、ご自分では、何でも食べても良い、との信仰をお持ちのようですが、それなら神の前でもそのような信仰を持っていると言えるんでしょうね、独りよがりの信仰でなければよろしいですね、という趣旨の嫌味である。暗に「肉を食べる」ことを批判しているのである。

 

イエスは文字通り「一切は清い」としたのに、幻によってイエスから直接使徒として任命されたと主張したパウロは、イエスの教えを否定して、付帯条件を付けたのである。本当にご立派にイエスの使徒であり、イエスの追随者であられる。

 

きっと、聖書的な根拠に乏しい、様々な規則を弱い人の「つまずき」とならないように定めてくださる統治体や長老などの権威者の方々も、パウロと同じく、立派にイエスの教えに忠実なのでしょう。

 

冗談はさておき、21節NWT「つまずきのきっかけとなるのにそれを食べる人」とは誰を指しているのか。「それを食べて」相手を「つまずかせてしまう人」を指しているのか。それとも、「それを食べることに」自分が「つまずき」を覚えているのに「自ら食べてしまう人」を指しているのか。

 

田川訳「障害をおぼえる」(proskoptei)は、能動の動詞であるが、原文のこの語に、使役の意味はない。原文は、本人が自分でそのことに障害をおぼえる(躓く)という意味である。本人が自分で行なうことによって、誰か他の人に障害をおぼえさせる(躓かせる)という意味ではない。

 

22節の「自ら良しとしている事柄について自分を裁かないで良い人」という言い方や、23節の「疑念を抱いている場合、それでもなお食べるなら、その日はすでに定められています」という表現からすると、「自ら疑念を抱きながら食べる人」を指すとするのが順当であろう。

 

つまり、「つまずきのきっかけになるのにそれを食べる人」とは、自分をつまずかせながら食べる人自身のことを指しているのであり、他の人につまずきのきっかけを与える人を指しているのではないと思われる。

 

またNWTでは、何にせよあなたの兄弟がつまずくようなことは行なわないの「が」良い、と「が」と限定している。

 

しかし、原文には、「食べないのも」と「も」(he=or)が入っている。この「も」は、並列であり、同義反復ではない。NWTは、原文を無視して、一切「つまずくようなことをしてはならない」とい趣旨に訳している。

 

イエスはもちろん、パウロもそこまでは制限していない。

 

「良心の問題」という偽善的な権威主義の犠牲となったJWが数多くいる事と思うが、パウロの論議そのものが偽善的なのである。聖書正典信仰の犠牲者と言えるかもしれない。

 

パウロは、他方を認めるようなことを言っておきながら、自分の主張を押し通すために長々と論点をずらしていくのである。相手より弱者の存在を「つまずいた者」として設定し、強者は弱者を思いやれと強要するのである。正邪とは無関係の感情論に論点をすり替えて、弱者救済を正義とするのである。

 

敢えて、つまずかせるような行動をすることが問題となるのは当然であるが、本人が「つまずく」のは、基本的な知識の不足であろう。

 

 「愛」をクリスチャンの基本的行動原理とするのであれば、まずなぜ相手がそのような行動をするのかを理解するように努めるのが原則であるように思う。自分の感情を絶対的な「善」にすり替えて、相手の行動を「悪」として批判するのは、「愛」とは呼べないであろう。「愛は傷つけられてもそれを根に持たない」ものであるはずだから。

 「自分の利を求める」ために、相手に「自分の利を求めない」愛を要求することも「愛」とは呼べないであろう。

 

JWの中には、無知最強伝説が存在するように思う。