●「エホバに奴隷として仕える」とは?(ローマ12:11より)
WTでは、ローマ12:11の聖句が良く取り上げられ、宣教や集会、個人研究などに適用され註解されている。
例えばWT13/10/15P12では、「使徒パウロは1世紀のクリスチャンに,「エホバに奴隷として仕え(る)」よう勧めました。その言葉は,神への愛に促された神聖な奉仕を行なうよう励ますものでした。(ロマ 12:11)」とある。
本当にパウロは、「エホバ」に「奴隷」として仕えるように、ということをローマ教会の人々に勧めていたのだろうか。
この言葉は、12:9‐21の段落の中の一文である。そのうちの9‐14節を田川訳とNWTを比較してみる。
9愛は偽善ではない。悪を憎み退け、善に親しみ結び、10兄弟愛をもって互いにいつくしみ、尊敬をもってお互いをたて、11熱心さについては臆することなく、霊については沸騰し、主人については従順に仕え、12希望については喜び、患難については忍耐し、祈りについてはしっかりと続け、13聖者の中の欠乏している者たちに交わりをなし、よそ者の世話を続け、14迫害する者を祝福せよ。祝福して、呪ってはならない。(田川訳)
9[あなた方の]愛を偽善のないものにしなさい。邪悪なことは憎悪し、善良なことにはしっかりと付きなさい。10」兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい。互いを敬う点で率先しなさい。11自分の務めを怠ってはなりません。霊に燃えなさい。エホバに奴隷として仕えなさい。12希望によって喜びなさい。患難のもとで耐え忍びなさい。たゆまず祈りなさい。13聖なる者たちと、その必要に応じて分け合いなさい。人をもてなすことに努めなさい。14迫害する人を祝福し続けなさい。祝福するのであって、のろってはなりません。(NWT)
田川訳では、「愛は偽善ではない」と平叙文になっているが、NWTでは「あなた方の愛を偽善のないものにしなさい」と命令文になっている。
原文を確認してみると、he agape anupokritosという三語で構成されている。heは定冠詞 主格、agapeも「愛」という名詞の主格。anupokritosは「偽善的」という形容詞に否定辞の接頭語を付けたもので、「非偽善的」という形容詞。
つまり、この文には、定動詞があるわけではなく、主語となる「愛は」という名詞と述語となる「非偽善的」という形容詞で構成されている文である。
NWTに限らずほとんどすべての翻訳が、動詞がないにもかかわらず、この個所を命令文にしているのは、接続法の動詞を補い、命令的な意味に解するからであるそうだ。(田川訳註参照)
実は、6節以下13節まで定動詞は一つもない。6‐8節までは、名詞の対格や名詞化された現在分詞の主格が列挙されているだけで、9節以降も13節まで現在分詞の複数形や形容詞の複数形が並んでいるだけである。二人称複数命令形の動詞は14節に「祝福せよ」とはじめて出て来る。
9節のこの個所だけが、「主格の名詞」+「形容詞」というほかとは異なる構成になっている。つまり、9節の「愛は非偽善的」という表現は、続く文に先行する表題的役割をしているのであり、続く「悪を憎み退け、……」という文は、「偽善的ではない愛」を具体的に表現したものであるとも考えられる。
そうであれば、11節のNWTが「エホバに奴隷として仕えなさい」と訳している表現も、「偽善的ではない愛」の一項目という位置付けになる。
田川訳「主人については従順に仕え」、NWT「エホバに奴隷として仕えなさい」と訳している箇所の原文は、to kurio douleuontesである。toは与格の定冠詞でkurioは「主人」を意味する名詞の与格。douleuontesは「奴隷」(doulos)から派生した動詞(douleuo)の分詞形。
NWTが「エホバ」としたのは、原文に「エホバ」という語があるわけではない。「kurio」が「主人」あるいは「主」という場合にも同じ語が使われることを利用し、「主」=「エホバ」と解釈したからである。通常キリスト教用語としては「主」と訳されるだけであり、「主」=「キリスト」である。
パウロは、ローマ10:10‐13で旧約のイザヤとヨエルを組み合わせて引用した際に、旧約では「神」を指している「主」という語を「イエス」に適用している。WTはそれを逆手にとり、この個所の「主」を旧約の「主」=「エホバ」を指していると解釈したのであろう。
いずれにしても、パウロは「kurio」とは書いているが、「エホバ」とは書いていない。
この「主人」を神あるいはキリストの意味に取れば「主」ということになる。しかし、パウロはここで「主」に仕えるということを意識して、信者の倫理的行動を列挙しているのではない。
パウロにとっても当時のキリスト信者にとっても、キリストあるいは神に仕えるということは、生活に関する具体的な行動規範や倫理行動全体の根底にある心情であり、行動の基本原理をなすものである。具体的な行動の項目に取り上げるようなものではない。
それに対してこの個所は、9節の「愛は偽善ではない」といういわば見出しの元に列挙されている具体的な行動の一項目として「kurios」に従え、と言っている。つまり、この「kurios」とは、神やキリストを指すのではなく、「奴隷」対する「主人」の意味での「kurios」であろう。
パウロは第一コリントス7:21~でも「奴隷」と「主人」の身分関係を崩してはいない。身分的上下関係に関してパウロはローマ13:1~でも権威に対して絶対服従を唱えている。ここでもパウロは、「奴隷はおとなしく主人に仕えていろ」、と言いたくなったのであろう。
興味深いのはティンダルの註解書にも取り上げられていたが、西方系写本(DFG)が「主人」(kurios)を「時」(kairos)と書き換えていること。
この読みは西方系に限られるので、もちろん原文であるとは思われない。おそらく、両者の綴りが似ていることから生じた異読であろう。
「時」の読みをとるなら、続く「希望」の反対語となる。この場合の「希望」とは終末時の「希望」を指すので、この「時」は、この世の「時」という意味になる。現在の世が続くか限りは、「従順に仕え」となる。つまり、時が続く限りは、その流れにおとなしく順応しろ、という意味。「奴隷」は「奴隷のままに仕えろ」、「主人」は「主人のまま支配しろ」という意味なり、結果として趣旨に大差はない。
しかし、この書き換えは、この個所の「主人」を「主」=「キリスト」あるいは「神」として読むことに関してすでに初期クリスチャンの間でも違和感を覚えていたことを示す証拠でもある。
NWT「エホバに奴隷として仕えなさい」は、原文の「主」を「神」と解し、「エホバ」と固有名詞を当てたのであろうが、人間の「主人」を意味すると思われる個所まで「エホバ」とするのはどうなのだろうか。
KIは原文のto kurio douleuontes=to-the Lord slaving。与格の定冠詞付き「主人」+「仕える」という動詞の分詞形であることを示しているが、英訳は、Slave for Jwhovah。(エホバにとって奴隷であれ)。
「奴隷として仕える」(douleuo)という語は、「奴隷」(doulos)という名詞から派生した動詞であるが、この語に「奴隷」(doulos)という表現を入れて訳すのであれば、対応するkuriosという語には、「主人」という語を入れて表現するのが順当であろう。
それを旧約からの引用でもない箇所にまで、 「主」でもなく、[ ]も入れずに「エホバ」とするのは、明らかに自説の教理を読み込んだ改竄であろう。
いずれにしても、原文では、「主に仕えよ」と書かれていると読むとしても、「神に仕えよ」あるいは「エホバに仕えよ」とは書かれていない。
「統治体」を自分の「主人」として「奴隷として仕える」ことが、「エホバに奴隷として仕える」ことである、と信じるのも自由である。しかし、聖書もパウロも「エホバに奴隷として仕えなさい」とは勧めていない。
「熱心さ」とは、信仰における「熱心さ」を指している表現である。それを「自分の務め」と原文に「務め」という語はないにもかかわらず、「奉仕の務め」=「宣教奉仕」を連想させる表現に訳すのも自説教理の読み込みであろう。
また「霊に燃える」ためには、集会に出席することが欠かせないと説く。その理由は、集会は聖霊が注がれる場所であり、霊を燃やすための燃料補給のために必要と説く。
「エホバに奴隷として仕える」という自説の読み込みをした聖書を根拠に、神に仕えるためには「宣教奉仕」と「集会」は不可欠、と適用することにローマ12:11は聖書的な根拠を与えてはいない。まして、人間の「主人」と「奴隷」との関係に言及した倫理規定の話であれば、なおさらである。