●「アバ、父よ!」と叫ばせるものは聖霊ですか?
「神の子」である人は、神の霊に導かれ、養子縁組の霊を受けている特別な存在である、とWTでは教えている。その証拠として、その人たちはその霊によって、「アバ、父よ!」と叫ぶのである、という。
本当に聖霊は、特別な人たちにだけ、「アバ、父よ」と叫ばせるのであろうか。
該当箇所であるローマ8:14-17を田川訳を通して、NWTと比較してみる。
「14何故なら、神の霊によって導かれる者は、神の子なのである。15すなわち、あなた方は再び恐れへと向う隷従の霊を受けたのではなく、(神の)養子たる霊を受けたのである。その霊において我々は「アッバー、父よ」と呼ぶことができる。16まさにその霊が我々の霊に、我々が神の子であるということを証言してくれている。17子であるのであれば、また相続人でもある。すなわち神の相続人、キリストとともに相続する相続人である。もしも、我々が(キリストと)ともに栄光を受けるためにともに苦難を受けている、ということであるのであれば」。(田川訳)
「14神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。15あなた方は、再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく、養子縁組の霊を受けたのであり、わたしたちはその霊によって、「アバ、父よ!」と叫ぶのです。16霊そのものが、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子どもであることを証ししています。17さて、子供であるならば、相続人でもあります。実に、神の相続人であり、キリストと共同の相続人なのです。ただし、共に栄光を受けるため、共に苦しむならばです」。NWT
主な違いを赤字で示したが、全体的な印象として、田川訳は「霊」と「我々の霊」との関係を客観的な視点から記述しているが、NWTは非常に主観的である印象を受ける。その理由は、14節の田川訳「神の子なのである」に対してNWT「神の子であるからです」。
15節の「「アッバー、父よ」と呼ぶことができる」に対して「アバ、父よ!」と叫ぶのです。
16節の「まさにその霊が……証言してくれている」に対して「霊そのものが、……共に……証ししています」。等々
NWTが非常に断定的に訳していることにある。
14節「神の子なのである」の原文は、houtoi eisin huioi theou=these are sons of-Godであるが、NWTは、eisinとhuioi theouの語順が逆になっているKIを底本としているが、意味は変わらない。英訳は、these are God’s sonsである。
代名詞のhoutoiは前文の「神の霊によって導かれる者」と同格でつながっている。それで田川訳は「なのである」と「である」をやや強意に訳したが、NWTは、それを「みな……であるからです」とした。ここに「から」という理由を意味する接続語を入れると「神の子」である、ということが既成の事実化してしまう。
原文ではパウロは単に自分の宗教観を語っているに過ぎないのであるが、NWTになると、既成事実化されているキリスト教信仰をパウロが伝えている、という趣旨に誤読する可能性がある。
15節「再び恐れへと向う隷従の霊」の原文は、pneuma douleias palin eis phobon=spirit of-slavery again into fearである。「へと向う」はeisであり、到着点を示す前置詞である。それをNWTは「再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊」と訳している。
KIでは、eis=intoと訳しているが、英訳では、a spirit of slavery causing fearと原文にはないcausingという語を付加している。これでは、霊が原因で恐れを生じさせていると読むことになる。
しかし、ここでパウロが言っているのは、「霊」が人間を奴隷にしたり、「神の子」にならせたりするというのではなく、 あなた方は「神の子」になる「資質」、あるいはeisという到着点であるから「予定」を神によって与えられたのであるから、もはや主人に対する奴隷のようにびくびくする必要はない、ということである。
霊が人間を恐れさせるのではなく、「奴隷のような資質」を持っている人間なら、びくびくすることになる、恐れに至る、と言っている。同じように、信者の持つ「神の子」に至る資質を「神の子たる霊」と言っているのである。
16節「その霊が我々の霊に……証言してくれている」の「証言する」、NWTが「共に……証ししている」という動詞はsymmartyreo。synは「共に、一緒に」という意味の接頭語で、martyreoはmartys「証人」を他動詞化したもの。synという接頭語が付いているから「共に」と訳している方が正確であるように思うかもしれない。
しかし、この接頭語を単なる強意の意味と取るのは、ヴルガータ以来の伝統だそうで、ルターやティンダルも「我々の霊に対して証言する」という意味に解しているそうだ。(詳しくは註を参照)接頭語のsynを単なる強調ではなく、「共に」と訳すのは、スイスの宗教改革者たちからの伝統であるようである。英語のジュネーブ訳、ドイツ語チューリッヒ聖書が採用している。欽定訳が「共に」の訳を採用したので、現代の英語訳にも継承される。
パウロは同じ動詞をローマ書であと二回用いている。(2:15,9:1)どちらも「私だけが一人で言っているのではなく、ほかの者が私の証言を支持してくれている、という意味で使っている。
この語の接頭語を「共に」とみなすと、「ほかの人たち一緒に」の意味を含んでいることになる。しかし、パウロのローマ書における他の箇所の使い方。またパウロの他のsynという接頭語の用い方からして、ここも、単なる強調と解するのが妥当と思われる。(フィリポイ3:17「真似る者」(symminetes)、コリ①9:23、10:18、コリ②1:7、ロマ11:17「共同者」(synkoinonos)ほか参照)
意味的には、両者大差ないが、この動詞の意味は、私だけが言っているのではなく、ほかの者が私の証言を支持してくれている、という意味。この場合は、「我々が神の子である」ということは「我々自身」=我々の霊が勝手に思い込んでいるのではなく、神の霊もそれが事実であると証言してくれている、という意味。主体的なのは「わたしたちの霊」であり、「神の霊」は付随的な存在。「霊」は「わたしたちの霊」を支持している存在である。
パウロ自身がそう思い込んでいたのであろうが、接頭語のsynを単なる強調ではなく、「ほかの者も共に」という意味に解すると、神が「神の子である」ということを「霊」によって証言している、という意味になる。
NWT「霊そのものが、私たちの霊と共に、……証ししています」。「わたしたちの霊」が主体ではなく、「霊そのもの」が主体的にわたしたちの霊に働きかけている、という趣旨になっている。接頭語synの意味がさらに強調されている。
NWTは「霊」に導かれている者はみな「神の子」である、というのは、神によって定められていた既成事実であるかのように書いているが、原文のパウロの文を見ると、パウロがそう信じていただけの話のようである。
「その霊」とは将来「神の子」つまり「養子」へといたることができるような資質あるいは予定を持っているので、「その霊において」(前置詞はen=in)「アバ、父よ」と「呼ぶことができる」、という意味である。決して、WTが解説するように、聖霊が注がれているので、その霊が「叫ばせる」のではないようである。
とすれば、現在自分は聖霊によって油注がれていると主張している人たちは、自分がそう思いたいだけであるのに霊も共に証しに加わっている、と自己主張しているだけのように思える。自己陶酔、自己暗示の極致なのであろうか。そういえば、本人と神との関係であるから他人には分からない、とも教えられていた。
また、「キリストとともに、栄光を受けるために、共に苦しむ」というのは、神の相続人となるための条件ではないようである。「共に栄光を受ける」とは「キリストとともに生きる」の言い換えであり、「共に苦しむ」というのは、「キリストとともに死ぬ」の言い換えであると思われる。(ロマ6:8、詳しくは註参照)
つまり「共に苦しむ」とは、「キリストとともに死んで、その結果として必然的にキリストと共に生きる」という意味で「栄光を受ける」のであり、天での「栄光を受ける」ための条件や目的としているものではない。ましてや聖霊を受けていることの証拠でもない。
おまけで「アバ」とはアラム語で「父」という意味であるが、なぜパウロはここでわざわざ、アラム語をギリシャ語で翻字したのであろう。ギリシャ語の教会でも、祈りなどの文言ではアラム語で「アバ」と「父なる神」に呼びかけていたとする定説がある。しかし、その定説が確かなら、翻字する必要がないと思われる。事実、パウロは「アーメン」や「マラタナ」(コリ①16:22)のアラム語に関しては、ギリシャ語で翻字していない。
もっとも、WTでは、神とのより親しい関係にあるので、彼らは「アバ、父よ」と叫ぶことができると解説しているが……。
定説が確かなのか、WTの解説が真実なのかは分からないが、聖霊が注がれていると主張している人々は、自分は最も神に近い、場合によっては、地上に関する権限は神を無視してもかまわないと確信しているほど親しい存在のようである。
彼らが、神によって霊を注がれて、地上に関する支配権を天にある神の王国の王から委ねられている、と信じるのも信仰の自由であろう。
イエスの地上での宣教期間は三年半で、神のご意思を成し遂げた、としている。より強大な権力と霊者となって、天の王国の王に就任されてから、100年以上が経過したという。1000年王国の10分の1の時間が経過したのに、まだまだ征服が完了するまでは時間がかかりそうである。
実際の千年王国が始まるのは、ハルマゲドン後であるとされているが、「短い時」が千年王国の統治期間より長くならないことを願うばかりである。
最後は、グチとなってしまいました。(w)