●神の奴隷になる人に永遠の命を保証したのは誰か。(ローマ6:17-23)
人間はすべて不完全であり、罪を受け継いでいる。「肉」なる人が、永遠の命の賜物に預かるためには、「罪」の影響から解かれていなければならない。「死」は「罪の代価」であり、「罪の奴隷」であるなら「永遠の命」へといたることはない。
しかし、聖霊を注がれている人間は、義を信用貸しされており、神のよって義と宣せられている状態にある。それゆえ、彼らは不完全な人間であるものの、すでに神によって、聖なる者とみなされているのであり、すでに神の賜物である贖いの適用を受けている状態にある。ほかの羊たちに対する贖いの適用は、ハルマゲドン後に天的クラスが集められた後に地上で適用される。ローマ書などがそれを裏付けている、と説く。(WT85/12/1参照)
問題にしたい点は二つ。
一つは、神は本当に「罪から自由になる教えの様式」をパウロやローマの信者たちに対して与えられたのかどうか。
もう一つは、人間が生きているうちに聖化される、つまり「義と宣せられ」「神聖にされた者」とみなされることがあるかどうか。
まず、ローマ6:17-18を比較してみる。
「17神に感謝すべきことに、あなた方はかつては罪の奴隷であったが、あなた方がそこへと引き渡された教えの型に心から聞き従って、18罪から自由にされ、義に仕える奴隷となったのだ」。(田川訳)
「17しかし、神に感謝すべきことに、あなた方は罪の奴隷であったのに、その導き渡された教えの様式に心から従順になりました。18そうです、あなた方は罪から自由にされ、その故に義に対する奴隷となったのです」。(NWT)
田川訳17節の「そこへと」とは、16節の「義へと」ということである。
NWTは、「その導き渡された」としており、「教えの様式」が神によって導かれ、パウロに、あるいはローマの信者たちに引き渡されている、という趣旨に読める。
この個所の原文は、eis hon paredothete tupon didaches。
KIは、into which you-were-given-beside type of-teachiungとしている。
それを英訳は、to that form of teaching to which YOU were handed overとしている。「教えの様式」が複数形の「あなた方に」つまり、統治体に神によって手渡されたものであるかのように訳している。
しかし原文のparadidomiは、二人称複数受身であり、主語は「あなた方」にしかならない。つまり、「あなた方が」引き渡された」のであり、「あなた方に」引き渡されたのではない。
「教えの型」とは「キリスト教の基本のドグマ」とする説。キリスト教の教えにもいろいろあるが、「パウロ的な教えの型」とする説。またこの「教えの」という属格は、「部分の属格」ではなく「同格的属格」であり、「教えという型」という意味であるから、「教えそのもの」とする説などもある。「教えの型」(typos)という表現は、宗教や倫理、哲学などに関しても、当時よく使われていたようである。
おそらく、パウロの頭の中には、キリスト教以外のさまざまな型が念頭にあり、それに対するキリストの「福音」という趣旨で「教えの型」と表現したのであろう。
パウロはここで何を言いたかったのか。
キリストの「教えの型」が、あなた方を義へと導くためにあなた方のところに届いたのであり、その「教えの型」に聞き従ったので、「義へと」導かれることができるようになったのだ、ということだろう。
決して、パウロあるいはローマの信者たちにも委ねられた福音に従順に心から聞き従ったので、「罪の奴隷」から解放されて、「罪から自由」にされ、「聖化された」という意味ではないようである。
第一に、パウロは、ローマの信者たちには自分のキリスト教をまだ伝えてはいない。ローマ書簡が、ローマの信者が接する初対面のパウロである。パウロがあなた方はキリスト信者であるのだから、「罪から自由」にされ、「義に仕える奴隷」となった、と言っているだけである。
また、「罪から自由」とは前節の「罪の奴隷」との対比であり、文字通り「罪人という状態から解放にされ」「罪がなくなった状態とみなされる」という意味ではない。「義に仕えることができるようになった」と言っているだけである。
そのことは、続く19節で「自分たちの肢体を聖化へといたる義に仕えるものとして捧げなさい」と言っていることからも明らかである。
「聖化へといたる」のであるから、その時点ではまだ「聖化されて」いるわけではないことになる。
生きている人間が、神に奴隷として仕えたとしても、生きながらにして「聖なる者」、つまり「罪のない状態の人間」とみなされることはない、ということは続く6:22-23からも明らかである。
「22だが今やあなた方は罪から自由にされて神の奴隷となり、聖化へといたるあなた方の実を、すなわち究極的には永遠の命へといたる実を、持っている。23罪の代価は死である。神の賜物は、我らの主キリスト・イエスにおける永遠の命である」。(田川訳)
「22しかし、今あなた方は罪から自由にされて神に対する奴隷となったので、神聖さの面で自分の実を得ており、その終わりは永遠の命です。23罪の報いは死ですが、神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスによる永遠の命だからです」。(NWT)
田川訳では「あなた方の実」とは、「聖化へといたる実」であり、「究極的には永遠の命へといたる実」のことである。すでにその「実」を持っているのではない。
すでに「聖化されている」のではなく、「聖化へといたる」のであるから、「聖化される」のは未来の出来事である。
しかし、NWTでは、「神に対する奴隷となったので、神聖さの面で自分の実を得ており」となっている。すでにキリスト信者となり、神の奴隷となったのであるから、神聖さに関する自分の実をその時点で得ており、最終的には永遠の命が保証されている、とも読めるものとなっている。
原文の「聖化へといたる」を「実」ではなく「持っている」にかけて、「あなた方の実を持って聖化へといたる」とすることもできる。しかし意味に大差ない。
いずれにせよ、「実を持っている」のは現在のことであるが、「聖化」は現在のことではなく、未来の最終的な救済を指す。ここでは「聖化」と「永遠の生命」は同義語として使っている。従って「究極」(telos)とは、「あなた方が現在持っている実」が究極に至ったところ、という意味である。
原文の「神聖さの面で自分の実を得ており」は、echete ton karpon humon eis hagiasmon 。
KI=you-are-having the fruit of-you into holinessと訳している。
英訳=YOU are having YOUR fruit in the way of holinessとした。eisをinと訳しているだけでなく、原文のtyposをwayという語にして、現在でも「聖なる道(様式)」を歩んでいることになっている。
eisは出発点ではなく、到着点を示す前置詞。最終的に「聖」に至るのであって、現在「聖なる状態にある」と言っているわけではない。統治体としては、自分たちは「神聖さの面で自分の実を得ている」つまり、「義と宣せられた」「聖霊を注がれている」状態にあると思っているのだろうが、原文では生きているうちに「聖化」されている人間が存在しているとは考えていない。
原文から読み解くと、どうやら神は、「聖書」の聖化や「聖人」の聖化にも全く関与していないようである。「正典」による「聖化」や特定の人物を「聖化」することは、「聖化」されたい人たちによる「肉の業」であり、神とは無関係の「業」のようだ。
それでも、聖霊によって油注がれた者たちである(聖化されている)と自己申告する人たちに従いたいなら、どうぞご自由に。
それも自分で選んだ自己責任による信仰なのでしょう。