●信者はいつ救われるのか?(ローマ5:10より)
JWは「霊的な救い」と文字通りの「救い」を分けて考えている。聖書中に「霊的な救い」という表現が出て来るわけではないが、文字通りの苦難や苦境からの救助や救出以外を「霊的な救い」と呼んでいる。それには、罪の支配や偽りの宗教の束縛からの解放、人への恐れや死への恐れからの解放、永遠の命の希望を得ることなどが含まれる。
「霊的な救い」は、キリストの贖いを基盤としており、神からの賜物であるが、自動的に与えられるものではない。贖いを受け入れて、イエスの足跡に従うことが必要であり、信者となった以降も神との和解状態を保つためには。信仰による厳しい戦いに勝利する必要があると説く。
その是非はともかく、その神学的根拠となっているパウロは、「救い」と「神との和解」との関係をどのように見ていたのであろうか。NWTは正確に聖書の意味を伝えているのだろうか。
ローマ5:8‐11を比較して、パウロの真意を探ってみたい。
「8だが神は我々に対する御自身の愛を確定して下さった。我々がまだ罪人であった時に、キリストが我々のために死んでくださったのである。9ならばますます、我々は今や彼の血において義とされたのだから、彼によって怒りから救われることになろう。10つまり、もしも我々がまだ(神の)敵であった時に神の子の死によって神と和解させていただいたのであれば、ならばますます、和解された我々は彼の生命において救われることになるのである。11それだけでなく、我々は、我らの主イエス・キリストによって、神を誇っている。キリストによって今やすでに和解を受けたのであるから」。(田川訳)
「8ところが神は、わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて、ご自身の愛を私たちに示しておられるのです9それゆえ、私たちは[キリスト]の血によって今や義と宣せられたのですから、ましてこの方を通して憤りから救われるはずです。10わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解したのであれば、まして和解した今、[み子]の命によって救われるはずだからです。11それだけではありません。わたしたちはさらに、わたしたちの主イエス・キリストを通し、神にあって歓喜しています。この[キリスト]を通して、わたしたちは今や和解を授かったのです」。(NWT)
主な違いを赤字で示したが、問題としたいのは5:10の「和解された我々は……救われることになるのである」という箇所。
NWTは、「まして和解した今……救われるはずだからです」と訳している。
「まして和解した今」と訳されている句の原文は、polly mallon katallagentesという句。原文に「今」という語はない。
polly mallonは、「多い」という意味の副詞の対格に「むしろ」という副詞が付けたもの。田川訳は「ならばますます」と訳している。10節のpolly mallonという句は、9節に出て来た、polly mallonという表現をもう一度繰り返したものであり、9節と同じく、「救われることになろう」という未来形の動詞を修飾している。
「救われる」のは、終末論的未来であるのに、「今」と入れることにより、「今、すでに救われている状態にある」かのように読めることになる。
パウロの救済論は、イエスの十字架と復活にある。それによって「義とされた」「神と和解することができた」のであるから、すでに成立した過去の出来事である。そしてその「義とされたこと」「和解」は、終末時に「救われる」ことの確かな保証である、というのがパウロの救済論である。
パウロにとって「救われる」というのは、この世の死すべき肉体の運命から解放されて、永遠の生命を生きることであるから、「今」すでに救われている、とすることは出来ない。パウロは繰り返し、我々は将来救われることになる確証を得ているのだから、安心しなさい、と説教しているのである。
神の敵であった我々が神の子の死によって神と「和解」させてもらう、という過分のご親切が起こったのであれば、ならばますます、終末時には、その我々が「救われる」のは確かなことだ、と言っているのであり、現在救われているのだから、将来は更にますます救われることになるであろう、という意味ではない。
更に原文では受身である「和解された」(katallagentes)をNWTは能動で「和解した」と訳している。
KIは、polly mallon katallagentes=to-much rather having-been‐reconciledと受身の完了分詞であることを示している。英訳はnow that we have become reconciledと受身の意味を残しながら、完了の自動詞的な意味に訳している。しかし、和訳では完全に受身の意味を消して「和解した」としている。能動で解すると、人間の方が主導権を握って「神と和解した」という趣旨になる。
「ましてや和解した今、……救われるはずだからです」となると、罪人である人間が、神に対して信者となって「和解してやった」のであるから、「救われる」ことにならなかったらただでは済まないよ、と脅しているようにも取れる。
「統治体」は、イエスに対する贖いの信仰により、神と和解し、聖霊を注がれているのかもしれないが、罪人である人間が「義と宣せられた」からといって、神に対して主導権を握ることがあるのであろうか。そうであるのならば、一体どちらが神なのだろうか。
NWTによれば、「わたしたち」に属する人たちは、パウロよりも贖いを備えられた神よりも偉い存在になることができるらしい。「神との和解」とは、神がわたしたちに与えてくださったのでわたしたちが「受ける」ことができるようにしてくださったものではなく、み子の死を通して神と和解した人たちによって、神の方が譲歩したので、「わたしたち」が「授かった」ものであるらしい。
これでは、キリストが人間と神との仲介者なのか、和解を授かった「わたしたち」が仲介者なのかはっきりしない。キリストがただ一人の仲介者であることを否定していることになるのではないだろうか。
5:9「義とされた」を「義と宣せられた」としている点と5:11「誇っている」を「歓喜している」としている点に関しては、以下。
「義とされた」 (dikaiothentes)
「義とする、義と認める」という他動詞(dikaioo)の受身形。「宣言する」という意味はない。NWTが単に「義とされた」とするのではなく、「宣する」という語を入れたのは、自分たちは神から「義」と宣言されている存在であるのだから、異議を唱えることは神に異議を唱えることに等しい、という刷り込みを与えたいからだろうか。
KIは、having-been-justifiedとしており、「宣する」とはしていない。英訳が、we have declared righteous とし、「宣言された」ことにしている。
「誇っている」 (kauchaomai)
「誇る」という動詞に前置詞en(中に)が付いている。「誇る」対象をenを付けて表現するのがパウロの語法。新約ではパウロ以外はヤコブ書に二回だけ。新約以外のギリシャ語では、「誇る」の対象には前置詞を付けずに対格の目的語を付けるのが普通。
実際のところ、神を目的語と解して、「神を誇る」という意味か、前置詞の意味を考慮して、「神において誇る」という意味か、はっきりしない。しかし、「誇る+en」はパウロでは14回出て来る。そのいずれも「……を誇る」の意味に解するのが素直である。新約以前では七十人訳にいくつか見られる。(詩篇149:5、サムエル2:10ほか。)ヘブライ語原文とは異なるから、パウロはギリシャ語ユダヤ人の言い方に倣ったのだろうか。
NWT「神にあって歓喜しています」。原義は、「頭を上にあげて生きる」。kauxáomai – properly, living with "head up high," i.e. boasting from a particular vantage point by having the right base of operation to deal successfully with a matter (see WP at 2 Cor 5:12).
KI=(ones)boasting としている。コリ②5:12では同じ語を「誇る」と訳している。「誇る」と訳すとパウロの傲慢さが露呈すると考えたのだろうか。パウロに対する聖者信仰が「神を誇る」ではなく「神にあって歓喜する」と表現を変えさせたのであろう。
原意は、「歓喜する」ではなく「誇る」であるし、パウロの言葉遣いを無視して、「en+神」を動詞の目的語ではなく、副詞句と解している。
どうやら、NWTだけを正確な字義訳と信じて読むと、実際に聖書に書かれていることとは、別の意図を読み取ってしまうことになるらしい。神やイエスに対する認識や感謝を深めることよりも、統治体崇拝を強化することになるようである。「救い」と「神との和解」に関係しているのは、「キリスト信者」となり、「購いの信仰」を受け入れキリストを仲介者とするよりも、「わたしたち」を自認する「統治体」の信者となり、彼らを仲介者として「義と宣する」ことの方が重要となるようである。
そのように信じたい人はどうぞご自由に。