●パウロが「敬虔なしっと」を抱いたのはなぜですか?(第二コリントス11:2より)
使徒パウロは、仲間の信者たちに対し、深い愛情を抱いており、会衆の清さを保つことについても深い関心を抱いていた人物とされている。その愛情と信者たちに対する気遣いを表現した言葉の一つが、第二コリントス11:2であると説明される。
*** 洞‐1 1188ページ 処女,童貞の人 ***
使徒パウロがコリント会衆の浄さに深い関心を抱き,その会衆を「貞潔な処女としてキリストに」差し出すことを願ったのはそのためです。(コリ二 11:2‐6)キリストの花嫁は霊によって油そそがれた14万4,000人から成っており,彼らは各自,世から離れていることにより,また道徳的にも教理的にも自分を浄く保つことにより自分の『童貞性』を保ちます。
統治体も同様に、世界中の会衆の「浄さ」に深い関心を抱き、成員が世から離れている事や道徳的、教理的「浄さ」を維持するよう願っているのだろう。
しかし、犯罪者であるペドフィリアを隠匿するよう会衆に指示し、功利主義者を長老や巡回に任命し、冤罪排斥を生み出し、都合の悪なった教理を新しい光と称して変更することが「浄さ」を保つことに関心を抱き、願っている証拠なのだろうか。
「世から離れている」のではなく、単に「世間の常識から、外れて」いるだけであるように思う。教理を変更した時点で、「浄い」はずの以前の教理は、「浄く」なくなったのであり、「教理的」に「浄さ」を保つことに失敗した事を示しているだけであろう。
統治体は、会衆を「貞潔な処女として」差し出すことも、自分の「童貞性」を保つことに失敗したことになるのでないだろうか。
WTやJWはともかく、パウロはどのような意味で、「敬虔なしっとをもってあなた方をしっとしているのです」と述べたのだろうか。その動機は、成員に対する愛情と会衆の清さを心配していたからなのだろうか。
第二コリントス11:2
「私は神の嫉妬をもって、あなた方を嫉妬しているのだ。何故なら私はあなた方を一人の男性に婚約させた。純潔な乙女としてキリストに提供したのだ」。(田川訳)
「わたしは敬虔なしっとをもってあなた方をしっとしているのです。あなた方を貞潔な処女としてキリストに差し出すため、私自身があなた方をただ一人の夫に婚約させたからです」。(NWT)
NWTは「神の嫉妬」(田川訳)を「敬虔なしっと」としている。原文を見ると「神の」はtheouであり、属格の「神」である。
この「神の嫉妬」とは、イスラエルの神は「嫉妬の神」である、という十戒の一つ(出エジプト記20:5)である概念を念頭に置いている。イスラエルの民が異教の神々を崇拝したなら、ヤハウェは「妬む神」でもあり、保護されず、罰が下るということをパウロはコリントスの信者たちに思い起こさせている。
このパウロの警告は、コリントスの信者たちに対する純粋な愛情からであったのだろうか。
パウロはその理由を「あなた方を一人の男性に婚約させた」(田川訳)からである、としている。
この「婚約させる」と訳された語の原文は、中動相で用いられている。「婚約させる」という他動詞の意味の時には、普通は能動相でいう。中動相なら自分自身が関係しているから、「自分が婚約する」という意味になる。
つまりパウロには、「婚約させる」ことに関して、「自分自身」が関係しているという意識があったので、能動相ではなく、中動相にしたのであろう。パウロの頭の中には、私がコリントスの信者たちを婚約の相手として選んだのだという意識があったのである。それでは言い過ぎであると思ったのだろか、後で「純潔な乙女としてキリストに提供した」と付け加えている。
NWTは、主文と従文が逆になっており、パウロには、「わたし自身が……」という句が、後になっている。それゆえ、パウロにははじめから「貞潔な処女としてキリストに差し出す」という純粋な意図しかなかったような印象を受ける。しかし、原文の順番は、逆である。
純粋な信者たちに関する愛情と会衆の清さが動機であるのなら、なぜ原文の「神の嫉妬」を「敬虔なしっと」と原文に「神」という語があるにもかかわらず、「神」という表現を避けたのだろうか。KIでは、theou=of-Godとちゃんと属格であり、大文字のGodであることを認めている。しかし、英文では、a godly jealousyとし、属格の「神」を、性質を示す形容詞としている。原文に忠実であるのなら、せめてGod'sと所有格で表わす方がふさわしいように思う。和訳では、完全に「神」の文字も意味も消している。
パウロは「神の嫉妬をもって、あなた方を嫉妬しているのだ」と履行を怠ると罰を受けることを前提にして、コリントスの信者たちに言っているのだから、純粋な心配というより、むしろ脅しているのである。純粋な愛情をもっている人が脅しをもって説得しようとするだろうか。
結婚とは、処女の乙女を男に提供することであるのだから、人間と神との関係も同様であるべきだ、とパウロの主張している。つまり、コリントスの信者たちはパウロのキリスト教に触れて信者となったのだから、パウロ以外のキリスト教に聞き従うのはほかの神々を崇拝することと同じである、と言って、脅しているのである。パウロは「神と同じ嫉妬をもって、あなた方を嫉妬している」のだから、自分を神と同一視しているのである。
NWTが「神の嫉妬」ではなく「敬虔なしっと」とし、「神」の字を避けたのは、そのようなパウロに対する否定的なイメージを抱かせないためであろう。いかにも純粋な愛情や関心を成員に示している人物であるかのように思わせたいからであろう。
しかし、心の中では、自分は神の代弁者であり、同等であると思っているのに、自分を仲間と同等とみなしたり、見せかけではない謙遜さや愛情を示す事があるのだろうか。
パウロは、「神の嫉妬を持って、あなた方を嫉妬している」と言っているが、嫉妬しているのは「神」ではない。パウロ自身が自分以外のキリスト教の宣教者に嫉妬しているのである。心配していたのは、会衆の清さではなく、自分のキリスト教が否定されることであり、コリントスの信者たちが、ほかのキリスト教に耳を傾けることである。
統治体やその追随者たちも同様であろう。 また自分を神の代弁者であるかのように語ったり、確証されていなことまでも真理として絶対化する人たちも同様であるように思う。