●「神の恵み」や「聖者たちに対する恵み」とは何ですか?(第二コリントス8:1-4)

 

「恵み」(karis)という語のギリシャ語の抽象名詞は、「神が与える恵みの全体」を意味し、「カリスマ」(karisma)と同じ語源である。

「カリスマ」は「カリス」から派生した中性名詞で、字義的には「恵み的なもの」という意味。神によって、個々の人に与えられた恩恵としての能力という趣旨で用いられる。日本語でも「カリスマのある人」という言い方があるが、人を惹き付ける特別な能力や資質が備わっている人というイメージになる。

 

「恵み」(karis)という語を、NWTは「過分ご親切」と訳している。JW的には、自分にとって都合の良いことが起きた時の「神からの祝福」という意味で、「エホバだわぁ」と言う時の出来事や経験や教訓などをさまざまな形で神が与える恵みの全体を意味している。霊的な事柄に関して用いるわけではなく、物質的に必要な物が備えられた時にも「神の恵み」という意味で、「エホバよねぇ」という方々が大勢いる。

 

パウロはコリントスの信者たちとマケドニアの信者たちを対比させ、「神の恵み」について述べている。この「神の恵み」、「神の過分のご親切」とは、何を指しているのだろうか。信者に与えられた「霊的な賜物」つまり「神から与えられた特質や資質」という趣旨に取ると何を言っているのか良く判らなくなる。

 

 

兄弟たちよ、マケドニアの諸教会で与えられた神の恵みのことを、あなた方に知らしめる。すなわち、患難という大いなる検証の中で彼らの満ちあふれる喜びと、彼らの深刻な貧困とが、満ちあふれて彼らの豊かな純真へといたったのである。力に応じて、いや私は証言するが、力以上に、みずから進んでのことであった。彼らは何度も(我らに)声をかけ、聖者たちに対する恵みと奉仕の交わりを申し出た」。(田川訳)

 

さて、兄弟たち、マケドニアの諸会衆に与えられた神の過分のご親切についてあなた方に知らせます。つまり、苦悩のもとで大いに試されつつも、彼らの満ちあふれる喜びと非常な貧しさが、彼らの寛大さの富を満ちあふれさせたことです。これは彼らの実際の能力に応じて、いや実際の能力以上のものであった、とわたしは証言します。それでも彼らはみずから進んで、親切に与える特権と、聖なる者たちへの奉仕にあずかることとをわたしたちに請い求め、しきりに懇願したのです」。(NWT

 

NWTが「恵み」(karis)という語を、1節では「過分のご親切」と訳し、4節では「親切に与える特権」と訳している。この「神の恵み」を2節にある「寛大さ」というような、何らかのふさわしい特質、いわゆる「霊の実」の一つであるかのように、解釈すると、「非常な貧しさが、寛大さの富を満ちあふれさせた」ことになる。非常に貧しい人が、「寛大さ」を豊かに示し、他の人に何かの施しをすることなど無理である。

 

WTは時折、この記事を寄付に関して、適用している。たとえ貧しくても、出来る範囲で親切に、寛大に与える特権をみずから進んで、請い求め、懇願した、マケドニアの会衆に見倣いましょうというのだ。(WT13/12/17p15ほか参照)

 

しかし、この「神の過分のご親切」とは、実際には「エルサレム会衆への献金」を指して、パウロが用いているということは、教えていない。「聖なる者たち」というパウロの表現は「エルサレム教会のキリスト信者たち」を指している。

 

原文の4節では、何度も「声をかけ」(parakaleo)、とあるだけなのに、しきりに「懇願した」と訳している。「申し出た」のは「奉仕の交わり」であるのに、「親切に与える特権」をも含めている。「聖なる者たちへの」という句は「親切に与える特権」に掛かるのではなく、「奉仕」にかかる句としている。「親切に与える特権」も原文は「恵み」(karis)という一語の名詞であり、「親切」とも「与える」とも「特権」とも書いていない。WT解釈を織り込んだも訳。

 

ここで「マケドニアの諸会衆で与えられた神の恵み」とは、具体的には、マケドニアの教会の信者たちがエルサレムに贈る献金を熱心に集めた、ということを指す。そのことを、あなた方コリント人の教会に「知らしめる」とパウロは言っているのである。

つまり、コリント人の会衆では、エルサレム教会への献金に対してマケドニアの諸教会のように熱心ではなかったのである。コリントの信者たちは、パウロの使徒職に対する権威やパウロのキリスト教に親和的ではなかったのであるから、当然と言えば当然である。

だから3節で、「力以上にみずから進んでのことであった」とマケドニアの信者たちを誉めているのである。

 

マケドニアの信者たちはパウロの言うことに従順に従って、パウロの教えを素直に受け入れただけでなく、パウロが主催するエルサレム教会のための献金集めにも積極的に参加してくれた。彼らはキリスト教徒に対する迫害に耐えることによって、自分たちの信仰が本物であることを明らかにしてくれた。その「患難」は、彼らを「検証」する大きな手掛かりとなった、と言っている。

 

パウロが「献金」のことを「恵み」と言ったのは、エルサレムの信者たちへの献金は、彼らに対する神の恵みに参加する行為である、意味を込めているからである。それで直接的に「募金」とか「献金」とは言わずに、両義的な意味で「恵み」としたのであろう。

 

「恵み」「過分のご親切」を「エルサレム教会への寄付」であることを理解して、NWT4節を読むと、「聖なる者たち」つまり「統治体」に寄付することは、「親切に与える特権」であり「聖なる者たちへの奉仕にあずかること」になるのだから、請い求め、しきりに懇願してまで、寄付すべきである、ということになる。

原文では「聖なる者たちへの」は「恵み」に掛かっているのだが、「奉仕」の方にかけて読ませたのは、寄付が直接的に「聖なる者たちへの」ものではなく、彼らの行なう「奉仕」のためであると信じ込ませたいためであろう。

 

9:5では、同じエルサレム教会への献金を、同じように婉曲的に「祝福」(eulogia)と呼んでいる。NWTは「惜しみない贈り物」としている。

 

「聖なる者」である統治体に寄付することが、「神の過分のご親切」を受けることができると本当に信じ、「親切に与える特権」であると思う人は、請い求めるなり、しきりに懇願するなり、ご自由に。

「非常な貧しさが、寛大さの富を満ちあふれさせる」、と信じる人もご自由にどうぞ。WTはマタイ6:33の言葉も、個人の信仰に対する神の保証の言葉ではない、としていることをお忘れなく。