●「共に死に、また共に生きる」誰とともにですか?
第二コリントス7:3の言葉です。パウロの、仲間のために献身的な愛を捧げて生きる決意を示しており、クリスチャンとしてのあるべき姿を描いている聖句の一つであると大切にしている人も多いと思う。
この聖句は、本当に、仲間に対するパウロの深い愛を示しているのだろうか。他の読み方などないようにも思える。
「3(あなた方を)断罪するためにこう言っているのではない。実際、前にも言ったが、あなた方は我々の心の中にいて、共に死に共に生きるのである」。(田川訳)
「3私はあなた方を罪に定めようとしてこう書くのではありません。前にも言ったように、あなた方はわたしたちと共に死に、また共に生きるためにわたしたちの心の中にいるからです」。(NWT)
一読するだけでは、どちらも同じことを言っているように思う。どちらもパウロの仲間に対する深い愛情があふれているように読める。
違いを確かめてみると、NWTは「わたしたちと共に」となっているが、田川訳には、「わたしたちと」という語はなく、単に「共に死に」となっている。
原文を確認してみると、eis to synapothaneinとなっており、直訳は「共に死ぬことにおいて」。原文に「わたしたちと」という語はない。「共に生きる」も一語の動詞の不定詞形。
NWTは「前にも言ったように」と「ように」を付けている。原文のhoti=thatを「ように」と訳したものだろうが、原文はgar hoti「……ということだからである」という文。
「ように」と訳すことにより、「前に言ったこと」とは続く「共に死に……」を指すとしていることになる。
「から」(gar)は、「ということ」(hoti)以下の文につながっており、「……ということだからです」となる文である。
「……」に入る節の主文は「共に死に共に生きる」であり、「わたしたちの心の中にいる」という句ではない。「前にも言った」ことを「共に死に共に生きる」を指すと解し、その意味を「キリスト信者たちはみな一心同体であり、生死を共にする存在である」と解釈したもの。
また田川訳は、「あなた方は我々の心の中にいて」という句が「共に死に共に生きる」にかかる副詞句となっている。
それに対し、NWTは「あなた方はわたしたちと共に死に」で一旦文を切り、「共に生きるためにわたしたちの心の中にいる」を並列につないでいる。「共に生きる」という句は理由や結果を導く「ために」という接続詞とつながれ、「わたしたちの心の中にいる」に掛かる文となっている。
「あなた方はわたしたちと共に死に」で切って「共に生きる」とは繋げていないので、穿った読み方をすれば、「わたしたちの心の中にいるため」(パウロ級つまり統治体の心に適うため)には、あなた方(統治体以外のクリスチャン、あるいは他の羊)は、まず統治体と運命を共にして死ぬことも辞してはならない。そうしなければ、わたしたちの心の中には存在せず、生(永遠の生命)を共にすることは出来ない。神にもイエスにも是認されることはない、とも読める。
もちろん原文は、「わたしたちの心の中にいる」は「共に死に共に生きる」に掛かる修飾句である。
多くの聖書は、この句を口語訳・新共同訳のように「あなたがたは……わたしたちと生死を共にしている」という趣旨に訳している。(ちなみに文語訳も同じ)
諸訳のように「生死を共にする」という意味であるなら、日本語でも「死生」ではなく、「生死」と「生」が先に来るのが普通である。「死」が先に来ると「生」は死んだ後の「生」に言及していることになる。ギリシャ語でも同じである。「生死を共にする」という趣旨の場合には、「生きるも死ぬも」というように「生きる」方を先に言うのが普通である。
ここでは、まず「死に」、それから「生きる」となっている。「死ぬ」を先に言うのは、クリスチャンは人間として「死すべき」存在であるけれども、キリストにおいては、永遠に「生きる」のである、という場合である。
この意味を解くカギは、ローマ6:8にある。
パウロが洗礼の解説をしている箇所である。洗礼において信者は「キリスト共に死に、キリストと共に生きる」と言われている。確かに、ローマ6:8には「死ぬ」「生きる」という順番に出て来るが、第二コリント7:3のこの個所では「キリスト共に」とは出て来ない。しかし、パウロは属格の用い方からも明らかなように、省略形が好きである。自分の中での言い方を相手も理解していることを前提で言葉を使う傾向がある。ここもキリスト信者にとってはあまりに常識的であるから「キリスト」を省略したのかもしれない。
パウロの頭の中には、キリストが常に自分と共にいるという意識がある。パウロとしては「我々の心の中では、つまり我々が信じるところでは、あなた方はちゃんとした信仰の持ち主であるのであって、だから(gar)、キリストと共に死に共に生きる、ということ(hoti=that)を共有しているのである」と言いたいのだろう。
果たして、キリストを愛し、神を愛する人は、誰とともに死に、誰とともに生きるのでしょうか。各人の自由である。
少なくても私は、WT教理に従い、統治体と生死を共にしたいとは思わない。パウロのような人と運命共同体となることもご遠慮申し上げたい。自分の生き方を自分で納得もせず、他の人に決めていただきたいとは決して思わない。