●「キリストの代理をする大使」とは?
このパウロの言葉は、第二コリントス5:20に出て来る。JWを始め、福音派の人々が好んで用いる聖句の一つである。「キリスト」の代理をする、あるいは「キリストの代わりの使者」(田川訳)であるためには、イエスの同じ考え方、同じ価値基準で物事を判断している必要があると考えるのはもっともなことであろう。
パウロはこの言葉を、どんな状況で何のために語ったのだろうか。
少し長いが、第二コリントス5:16-20を田川訳とNWTを挙げて、比較してみる。(赤字は筆者)
「16だから我々は、今から後は、だれをも肉によって知ることはしない。もしも(以前は)キリストを肉によって知ったとしても、今はもはやそのように知ることはしない。17だから、誰かがキリストにあるならば、そのものは新しい被造物である。古いものは過ぎ去った。見よ、新しいものが生じたのだ。18一切は、神から生じる。神はキリストによって我々を神御自身と和解せしめ、我々に和解の務めを与えた。19神はキリストにおいて世をみずからと和解せしめた、ということなのだ。彼らの過ちを数え上げることをせず、我々の中に和解の言葉を置き給うたのである。
20神が我々をとおして(人々に)呼びかけるがままに、我々はキリストの代わりの使者として働いている、だから我々はキリストに代わって願う、あなた方は神と和解しなさい。」(田川訳)
「16したがって、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはありません。たとえ、キリストを肉によって知ってきたとしても、今はもう決してそのような知り方はしません。17したがって、キリストと結ばれている人がいれば、その人は新しい創造物です。古い事物は過ぎ去りました。見よ、新しい事物が存在しているのです。18しかし、すべてのものは神から出ており、[神]はキリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解の奉仕の務めをわたしたちに与えて下さいました。19すなわち、神はキリストによって世をご自分と和解させて、その罪過を彼らに帰さず、わたしたちに和解の言葉をゆだねてくださったのです。
20それゆえ、わたしたちはキリストの代理をする大使であり、それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。「神と和解して下さい」。」(NWT)
まず、コリント書簡は、基本的にパウロがコリントスの信者たちの批判に対して、応えるために書いたものであるということを念頭に置く必要がある。聖書霊感説に基づき、神がパウロを通して人類に必要な福音を伝えさせたのだ、という前提で読むと、読み違える。それはキリスト教のドグマを前提に聖書を読むことであり、聖書からキリスト教を理解することではない。キリスト教のドグマを前提として聖書を読むのは本末転倒の読み方である。
赤字の個所を、順に説明する。
ご存知の方も多いと思うが、16節はパウロがかつて生きていたイエスを知ることを拒絶している、というので有名な箇所。
「肉によって知る」とは、「肉体を持つ人間として存在していたイエスを知る」という意味で、「肉的な方法で知る」という意味ではない。「肉によって」(kata sarka)という言い方をパウロは多用するが、「肉」という語を単に「人間」という意味に用いることが多い。しかし、「霊的」の反対語として「此の世的」の意味で「肉」と呼ぶことも多い。
ここは、コリントスの信者たちに対する弁明の場面である。コリントスの信者たちの中には、直接生きていた時のイエスを知っている人たちが多くいたのである。事実13:3ではキリストのあって語っているという証拠をパウロに求めている。その種の批判に対する弁明として、「肉によって知る」と言っているのだから、かつてイエスが現実に生きていた時のことを知る、ということ。
これを「福音」を前提に読むと、「肉的な方法で知る」とは、キリストに対する信仰のないこの世的な方法で知る、という趣旨になる。しかし、パウロが問われているのは、まさにパウロのキリスト信仰に対してである。パウロのキリスト信仰に疑問を抱いているコリントスの信者たちに、パウロのキリスト信仰が正しいことを前提にして、以前は「キリストを肉によって知った」というのであれば、弁明にはならない。
コリントスの信者たちは、パウロによって信者となった人たちである。以前に「肉的な方法でキリストを知った」のがパウロのキリスト教であるのに、それを否定することは、パウロ自身が自分のキリスト教を否定することになる。あるいはパウロ以外の宣教者たちによって伝えられて信者となったコリントスの信者たちは、間違った信仰により信者となった、ということになる。信仰は一つではなく、様々なキリスト教信仰がパウロの時代から存在していたことになる。そうすると、統治体が一つの信仰を宣教者を通して全地に広めたというドグマは成立しないことになる。結局「肉的な方法で知った」という意味に解することには無理がある。
つまり、パウロはここで、生きていた時のイエスのことを伝承を聞いたりして多少知ることはしたけれども、もはやそのようなイエスのことなど、どうでもいい。後で福音書に書かれることになるイエスの姿などどうでも良い。自分は自分に直接現れた、復活者キリストのことだけが重要なのだ、とここで宣言しているのである。
福音書筆者のマルコがパウロと喧嘩別れしたのも理解できるというもの。(使徒15:37-39)これを組織の一致を強調して、他の理由を考え出すのは、護教精神からキリスト教ドグマを前提に解釈するものであろう。
17-19節は、パウロが自分は直接復活したキリストと会って、キリストを通して、神から和解の務めを与えられたのだ、という主張である。
18節前半の「我々」とは、「世をみずから和解せしめ」と言い換えていることからも明らかなように、「世」つまり「この世の全体」を指している。しかし、後半の「我々に」の「我々」は「和解の務め」を持っている「キリスト教宣教師」のことを指している。しかし20節の「我々」は「パウロ個人」のこと。パウロは「我々」という語を、さまざまなものを指して用い、読者を混乱させながら、自分の使徒として権威と自分のキリスト教の権威付けをしようとしているのだろう。
20節であるが、NWTは冒頭に「それゆえ」(oun)という接続詞の訳を持って来ている。そうすると、前文を受けて「神が我々に和解の言葉をゆだねてくださった」、そのような理由のゆえに……と読むことになる。
そう読んでも間違いではないが、ounには明確な理由を述べる強い意味があるわけではなく、前述とのつながりや推論を示す接続詞である。普通英語では、therefore,then,and soと軽く訳される。KIの英訳でも、we are therefore……と文頭ではなく、文中に訳している。ギリシャ語の文は文の冒頭に何らかの接続詞を置くことが決まりであるから、田川訳は敢えて訳していない。「キリストの代わりの使者として働く」という句が続くから、訳す必要ないと判断したのだろう。
問題は2つ。一つはNWTが「それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです」と訳している点。「あたかも……のようです」と訳している語は、副詞のhos=asという語。「懇願する」parakaleoに掛かる。この語は字義的には「そばで呼びかける」。状況によって様々に訳される。
「懇願する」と訳したのは、WT解釈を入れた読み。神が人間の側に「懇願する」とすれば、人間と神の立場が逆転している。神は人間に何かのことで懇願する必要があるという信仰をパウロが持っていたはずがない。
原文では単に「呼びかけるように」という神からの一方的な伝達に過ぎない。それで「かのように」と、仮定法であるかのように、訳している。
もう一つは、NWTが「神と和解して下さい」と直接話法で、神が人間に懇願しているように訳していること。
「和解して下さい」の原文は「(誰それと)和解する」(katallasso)という動詞の命令形。形としては受動アオリスト命令であるが、このアオリスト受動形には使役の意味はない。「誰かによって和解させられる」という意味ではなく、中動的に「自らを誰それと和解する」あるいは、受動形を自動詞的な意味にとり「和解する」という意味。これを使役の受身の意味にとり、「和解してもらう」と取ることは文法的にありえない。独訳はルター以来ずっと現在まで、仏訳も、英訳もTEVを除き、「あなた方は神と和解しなさい」という訳である。
こう直訳すると神と人間がお互いに対して和解の行動を取る、という意味になり、神と人間が対等の関係になるから良くない、とするのは神学者による神学的配慮。(ブルトマン、スラルほか)WTでは、おそらく神の謙遜さと人間に対する愛情の深さを表現しようとしたのだろうが、神の方が人間の方にへりくだっている存在となっている。
18-19節では、神がキリストにおいて「我々」(コリントス信者たちを含めた我々)を神と和解せしめた、と言っている。神と人間との和解は、神の側からの一方的な働きかけであるとしているのだから、この節とも矛盾する。
では、なぜパウロは神学的配慮を欠き、前後関係とも矛盾するようなことを、ここでわざわざ「あなた方は神と和解しなさい」と言ったのだろうか。
おそらくパウロは言葉の上では神との和解を語りつつも、実際には自分との和解を考えているのだろう。あなた方は、私の使徒的権威を疑ったりしないで、権威を認めて私と和解しなさい!私はキリストに代わって神の和解の言葉を伝える使徒である。だから、私の使徒的権威を疑うことは、神との和解を拒絶することになる。だから、おとなしく私の権威を認め、私に対する批判なんぞしないで、私と和解しなさい。それが神と和解することになるのだから……。パウロはそう言いたいのだろう。
「ここまで自分を神と同一しているのだから、何と申しますか」と田川先生の感想。
WTの統治体やJWの福音宣明者たちの多く、ほかにも自分の福音がキリストの代弁であり、自分の教えを受け入れるように強要する人間たちは、パウロと同じく、神を同一視しているのであろうか。
自分とは意見の異なる人を「反キリスト」と認定する人は、その時点で自分を「キリスト」と同一視しているのだから、パウロと同じ精神の持ち主なのであろう。なんでも「エホバだわ」「サタンよね」という人たちも同様であろう。
生前のイエスの生き方など、どうでも良く、イエスがキリストであることが重要なのだ、と考えるなら、パウロと同じ考えになるのかもしれない。
イエスの生前の生き方など、どうでも良い、と考えている人が、キリストの代理をする大使となることなどあるのだろうか。ユダヤ教信仰の「神の国」に対して否定的であった人間が、その国の王となり、自分の生前の生き方を無視する人を大使に任命することがあるのだろうか。
いずれにしても、自分の生き方をどうでも良いと考えている人を大使としたり、使者として、重要な務めを与えるために遣わすとは考えにくいように、私は思う。
更に詳しく知りたい方は、田川訳の註を参照ください。