パウロが「土の器」に持っているとした「この宝」とは、何?(第二コリントス467より)

 

WTは、第二コリントス4:7の「土の器」とは「人間」のことであり、「この宝」とは、「知識」や「知恵」ではなく、「真理を明らかにする」という「この奉仕の務め」のことである、と説く。(WT12/12/01.p28、ほか多数)

 

パウロは、第二コリントス119-22で、宣教する側のパウロたちと宣教を受けた側のコリントス信者たちとを区別していた。どちらの側も「キリストにある」(en kriou=in christ)存在ではあるが、油注がれ、聖霊による証印を押されている存在は、パウロたちだけであると考えていた。

 

パウロは宣教を高く評価している。しかし、宣教する側と宣教される側を、「我々」と「あなた方」と区別しているから、「キリストに属する」(NWT)者が、すべてが伝道活動していたわけではないようである。少なくても、1世紀のクリスチャンはすべて伝道していた、とするWT教理は間違いのようである。

 

「この宝」を「土の器」に持っている、とはどういう意味なのだろうか。本当に、「宣教奉仕」という宝を、宣教する一人一人の「伝道者」が持っている、という意味なのだろうか。

 

何故なら「闇から光が照るように」と言い給うた神は、我々の心の中を照らして、イエス・キリストの顔において神の栄光の知識が輝くようにしてくださったのであるから。

我々は陶器の器にこの宝を持っている。力のあふれは神のものであって、我々から出て来ているわけではない(ということがわかる)ためである。」(田川訳)

 

神は、「光が闇の中から輝き出でよ」と言われた方であり、キリストの顔により、神の栄光ある知識をもって明るくするため、わたしたちの心を照らしてくださったのです。

しかしながら、わたしたちはこの宝を土の器に持っています。それは普通を超えたその力が神のものとなり、わたしたち自身から出たものとはならないためです。」(NWT)

 

6節で、田川訳は、「我々の心の中を照らして」その結果、「神の栄光の知識が輝くようにしてくださった」という趣旨。

NWTは逆に「神の栄光ある知識をもって明るくする」目的は、「わたしたちの心を照らす」ためであったという趣旨にしている。

 

原文は、「我々の心を照らす」の後に「知識の輝きへと」「神の栄光の」「イエス・キリストの顔における」という句が続く。直訳は「イエス・キリストの顔における神の栄光の知識の輝きへと」となる。「神の」「栄光の」「知識の」「輝きの」と属格の名詞が四つ繋がる文で、掛かり方と意味の取り難い文である。

 

問題は、7節の「この宝」が何を指すかである。

 

「この」(touto=this)という代名詞は、普通は前節を受けているが、後の文の内容を前もって指し示すこともある。しかし、後の文に続くのは「患難」や「迫害の経験」であり、「イエスのために死に直面する」経験を「宝」とみなしていたとは考えにくい。

 

通常の指示代名詞の使い方に従って、前の文の内容を指す、ということになる。

 

田川訳は、前の文を、神が私たちに対して、「神の栄光の知識が輝くようにしてくださった」ことに重きを置いて訳しているので、パウロが「宝」としているのは、「神の栄光の知識」であると読める。

 

他方、NWTは、神が「わたしたちの心を照らしてくださった」ことに重きを置いているので、パウロが「宝」としているのは、「人々の心を照らす行為」、つまり、「奉仕の務め」であるということになる。

 

しかし、この「わたしたち」とは、パウロとパウロから宣教を受けたコリントスの信者たちのことではなく、「著者の複数」であり、「パウロ個人」の経験を指している、とも考えられる。

 

コリントスの信者たちが、パウロの使徒としての権威やパウロが改宗に至ったキリストとの出会い(ガラ1:16、使徒91~参照)に関して、疑念を持っていた。パウロ自身も「我々」と言いながら実は「自分個人」のことを指す言い方をすることが多い。

 

4:6は、パウロ個人の経験を語っているとすると、納得がいく。ダマスコス途上で神はパウロに心の中に光輝くキリストの顔を示してくださった。そのキリストの顔においてパウロは「神の栄光の知識」を認識した。その「力のあふれ」=「宝」、つまり「神の栄光の知識」は、神から与えられたものであり、我々から出て来ているわけではない、ということがすべての人に分かるためである、という趣旨になる。

 

パウロが「あふれ」という語を使ったのは、人間を「器」に例えたためであろう。自分が宣教するキリストに付いての知識は、人間から出たものではなく、人間の知恵を超えた(あふれた)神から出ているものである。神がパウロに「神の栄光の知識」を与えたのは、パウロのキリスト教を神からのものと分からせるためである。パウロはコリントスの信者たちにそう弁明しているのであろう。

 

パウロに対して疑念を抱いたコリントス信者に対するパウロの弁明の文として読むと、4章から5章にかけての文は素直に理解できる。

 

「この宝」を「奉仕の務め」とすると、4:10-12をどう解釈するか、難しくなる。「奉仕の務め」という「宝」をもっているはずなのに、宣教する「わたしたち」のうちには「死が働き」、宣教を受けたコリントス信者たちには「命が働いている」ということになる。

 

「わたしたち」とは、パウロ級つまり「天的クラス」を表わし、「あなた方」とはコリントス信者級つまり「地的クラス」を表わしている、とすればこの問題は一見解決するように見える。しかし、予型対型で聖書を解釈することを排した以上、この論理は使えない。それに、1世紀のクリスチャンの中に地的希望を持つクリスチャンの存在を認めなければならず、1世紀のクリスチャンはすべて天的な希望を持っていたとするWTドグマと矛盾する。

 

もともと、6節は、原文が曖昧な文であることを盾に、文法を無視して、自分たちの教理に合わせて作文した訳である。前後関係を通して読むと解釈の無理が露呈する。

 

いずれにしても、パウロが「この宝」としたのは、神からのものであり、人間からのものではない。この文がパウロ個人のキリスト体験を念頭に置いているのであれば、「この宝」を持っている人は、「自分自身」だけであり、他の誰も「この宝」を持っているとは考えていないことになる。原文の「この宝」は単数形であるが、「土の器」は複数形である。パウロは、自分が伝えるキリスト教だけが神から受けたたった一つの「宝」であるという意味で単数形にし、自分を含め「土の器」を一般的な「人間」という意味で複数形にしたのであろう。

 

「奉仕の務め」が神からのものではなく、伝える「真理」が神からのものではないとすれば、その「宝」とは、いったいどんな価値を持つのであろうか。

 

パウロのキリスト教が、神からのものであることを、コリントス信者に証明することはできなかったようである。マケドニアの信者たちとは異なり、コリントスの信者たちの中には、パウロのキリスト教をパウロ個人のよるものとする人が少なからずいたようである。おそらく、イエスの言葉との矛盾を感じていたからであろう。パウロは生前のイエスの言葉をほとんど用いることはしていない。言葉を変え、繰り返し、自分のキリスト教は神からのものだ、繰り返し、説得しようとしている。

 

WTの「真理」も、神からのものであることを、ただ一方的に宣言するだけでなく、あらゆる人間の検証に耐えうる「力のあふれ」「普通を超えた力」が働いていることを示していただきたいものです。あらゆる点でイエスの言葉と精神に調和していることを証明して頂きたいものです。