●「転向」すれば、この世のベールは取り除かれるのか?(第二コリントス3:15‐16より)
JWが宣明する良いたよりを受け入れ、WTに「転向」するなら、ベールが外され、神の目的や性格が見えるようになる。そして神の栄光ある特質を反映できるようになる、と説く。そのことを支持する聖句の一つに第二コリントス3:15,16が適用される。(WT05/8/15.p24§17参照)
その効果は、聖霊の助けにより可能になるのだろうか。
そもそも、この聖句は、「転向」する信者について、語ったものだろうか。検証してみる。
「15だが今日に至るまで、モーセが読まれる時には、彼らの心に覆いがかぶされたままである。16しかしモーセが主の方に向く時には覆いは取り除かれる」(田川訳)
「15実際、今日に至るまで、モーセが読まれる時にはいつも、彼らの心の上にベールが掛けられています。16しかし、転じてエホバに向かうとき、ベールは取り除かれるのです」(NWT)
NWTを見ると、信者でない人が神に転向するなら、1世紀のイスラエル人がユダヤ教から、同じく神エホバを崇拝するキリスト教に転向する時、イスラエル人の心の上に掛けられていたベールが取り除かれる、と読める。
しかし、田川訳を見ると、転向を示唆するような「転じて」と言う語はない。神の方を向くのは、イスラエル人ではなく、モーセとなっている。
16節の「向く」と言う動詞の主語が、田川訳は「モーセ」であるが、NWTは明示していない。しかし、その前には「彼らの心の上にベールが掛けられている」とあるので、「取り除かれるベール」があるのは、「彼ら」である、と言っていると考える。
KIを見ると、「向く」(epistrepse)=it-should-turn-uponとなっている。英訳は16節を、But when there is a turning to Jehovah ,the veil is taken away.としている。
KIは、主語をitにしているが、英訳は、a turningを主語としている。直訳すると、「しかし、エホバに転向することがある時に、ベールは取り除かれる」となる。エホバに転向しなければ、ベールが取り除かれることはない、ということになる。
なぜ、田川訳は「モーセ」を主語にしたのだろうか。
原文の「向く」(epistrepse)は、原形epistrephoのアオリスト形三人称単数である。三人称複数の形の動詞ではない。つまり、「向く」の主語は、「彼ら」イスラエル人とはなり得ないのである。主語交代は示されていないので、「向く」の前にある三人称単数の語が主語であることになる。人を指す語は15節の「モーセが読まれる時には」の「モーセ」となる。つまり、「主の方に向く」は「モーセ」である、ということになる。
では、なぜKIは、主語をheではなくitで受けたのだろうか。NWTは、itをa turningと解したが、原文の「向く」は述語であり主語ではない。和訳は、英文のNWTも訳していない。明らかに字義訳ではなく、解釈を読み込んだ訳である。2013年版NWT英文は、But when one turns to Jehovah, the veil is taken way.と主語をoneつまり「人」に変えている。
「モーセ」以外に「人」に相当する語があるのは、「彼らの心」だけである。つまりKIは「彼ら」ではなく「心」を受けると解して、itを主語として受けたのであろう。しかし「彼らの」が複数であるから、実質的には複数である。
3:15には「モーセが読まれる時には」とある。これは、パウロが出エジプト記34:33に「彼らと話し終えると、モーセは自分の顔にベールをかけるのであった」(NWT)とあるのを念頭に「彼らの心の上に」と言い換えたものである。
続く、出エジプト記34:34には、「しかし、モーセは、エホバの前に入って話す時には、そこから出るまでベールを外しているのであった」(NWT)とある。
つまり、第二コリントス3:15,16は、クリスチャンの転向の話ではないのである。パウロが「主の方に向く時」と言っているのは、出エジプト記にあるモーセの話をしているのである。
ここの個所を根拠に、良いたよりを受け入れ、転向するなら、ベールが外され、神の目的や性格が見えるようになる。そして神の栄光ある特質を反映できるようになる、とすることはできないのである。
もし、この個所がクリスチャンへの「転向」の話であるのなら、この「主」は「イエス・キリスト」を指すのでなければならない。しかし、NWTは「エホバ」としている。参照聖句にも出エ34:34がある。
つまりこの話が、出エジプト記のモーセの話に対する言及であることをWTは知っているのである。それにもかかわらず、モーセを主語とはせずに、「転向」を主語としているのだから、改竄訳であろう。2013年版では、「転向」を主語にしていないのは良いと思うが、「彼ら」という意味を一般化して「人」としているのであるから、同様である。それとも、このoneとは、「モーセただ一人」、という意味だと釈明註解するのだろうか。
面白いことに、参照として挙げたWT05/8/15.p24:17節では、モーセがエホバの方を向く、という意味であることを示唆していながら、適用は「神のご意思を行なう」点でモーセやイエスと同じであるとし、転向の話であるようにすり替えている。
NWTを字義訳と謳うのとWTだけが聖書の正しい理解を持っているとするのは、やめていただきたいものです。
WTだけが持っているとは言っていないと主張する人もいるかもしれないが、WTの見解と異なる意見を、根拠もなしに受け入れないのであれば、実質的に自分たちだけが正しい理解を持っている、としているのと同じである。
それでも信じたい人は、どうぞご自由に。