●一世紀のクリスチャンは、すべて油注がれた者でしたか?(第二コリント1:19-22より)
WTの教理によると、洗礼者ヨハネ以降の忠実なクリスチャンは、すべて聖霊によって油注がれた者たちで構成されている、天的な希望を人たちでなる組織であったと説く。
JWにとっては基礎的な知識の一つである。聖書はこのWTドグマを実際に支持しているのだろうか。
その教理を支持しているとされる聖句の一つに、第二コリント1:21‐22がある。
「我々」が誰を指すかを明確にするために、19‐22節を書き出してみる。
「我々」とは、だれを指しているのか、まずそれだけに注目して確認して欲しい。
「19何故なら神の子イエス・キリスト、あなた方のところで我々によって宣ベ伝えられたイエス・キリスト、すなわち私とシルワノスとティモテオスが宣ベ伝えたのであるが、このイエス・キリストは「然りかつ否」だったのではないのだ。彼において「然り」が成立したのである。20その「然り」は、神の約束に関する限りすべて、キリストのうちにあって「然り」なのだ。この故にキリストによってまた、我々が神に対して栄光を帰するために唱えているアメーン(=然り)も成立しているのである。21我々をあなた方とともにキリストへと堅く立て、我々に油注ぎ給うた神は、22また、我々に証印を押し、我々の心に霊の手付金を与え給うた神なのである」(田川訳)
「19わたしたちによって、つまりわたしとシルワノとテモテによってあなた方の中で宣ベ伝えられた神のみ子キリスト・イエスは、はい、でありながら、なお、いいえ、となったのではありません。彼の場合、はい、は、はい、となりました。20神の約束がどんなに多くても、それは彼によって、はい、となったからです。それゆえにも、わたしたちによる栄光のため、彼を通して、神に「アーメン」が[唱えられる]のです。21しかし、あなた方とわたしたちがキリストに属することを保証して下さる方、そしてわたしたちに油を注いでくださった方は神です。22[神]はまたわたしたちにご自分の証印を押し、来たるべきものの印、つまり霊をわたしたちの心の中に与えてくださったのです」。(NWT)
21節だけを読むと、二番目の「我々」には、「パウロたちとあなた方」、つまり、コリントの信者たちも含んでいると考えるかもしれない。
しかし、19節では、「我々」と「あなた方」=コリントの信者たちとを明確に区別している。「神の子イエス・キリスト」を宣教した側が、「我々」であり、宣教された側を「あなた方」と呼んでいる。
21節も同様に、「キリストへと堅く立つ」ことに関しては、パウロは「我々」に「あなた方」を加えている。しかし、「油を注ぐ」「証印を押す」「心に霊の手付金を与える」ことに関しては、「あなた方」を含めてはいない。つまり、「我々」と「あなた方」を別々のカテゴリーに属すると考えている。パウロは、神から「油」「証印」「霊」を受け取るのは、「我々」だけであり、「あなた方」=コリントス信者たちは除外している。
19節では「我々」=「わたしとシルワノスとティモテオス」としているが、実質的にこの個所に出てくる一連の「我々」と言う表現は「著者の複数」であり、パウロ個人を指す。
個人が話す場合や話す相手が個人であっても、「わたし」や「あなた」ではなく「わたしたちは」「あなた方は」と複数形で表現し、個人に注意を向けない表現を選択する方が相手の心に訴える効果がある、という助言を神権宣教学校で聞いたことのある人も多いと思う。それと同じ複数形の表現である。
つまり、パウロは自分自身あるいは宣教者だけが、神によって「油注がれた」極め付きの特別な存在である、と語っているのである。
メシア=キリストとは「油注がれた者」であるから、新約では、ほかのいかなる個所でも、イエス・キリスト以外にこの語をあてはめることはしていない。
ところがパウロだけは、自分自身を「油注がれた者」つまり「キリスト」にしてしまっているのである。
NWTは「わたしたちに油を注いでくださった方は神です」としている。この「わたしたち」は144,000人の神によって聖霊により油注がれた者たち指していると解釈している。きっとパウロと同じ精神の持ち主だけに霊による証印が押されているのだろう。
しかし、1世紀のクリスチャンはすべて油注がれた者というWTドグマをこの聖句は裏付けてはいない。文脈からすれば、否定している聖句である。
パウロは「あなた方」は、「キリストに属している」ことは認めていても、油注がれていることは「わたしたち」だけであるとしている。聖書は、1世紀のすべてのクリスチャンが油注がれたもので構成されているという教理を支持してはいない。。
ほかにもこの部分でNWTの奇妙な箇所がある。
「キリストのうちにあって、「然り」なのだ」が、NWTでは「彼によって、はい、となった」としている。「うちにあって」(en=in)と言う前置詞を、「よって」と手段の意味に解している点。
「我々が神に対して栄光を帰するために唱えているアメーン(=然り)も成立している」が、NWTでは「わたしたちによる栄光のため、……神に「アーメン」が[唱えられる]」としている点も奇妙。
NWTによれは、神とはわたしたちによって栄光を付与されなければ、栄光ある方とはならない存在のようである。栄光ある神によって、人間に栄光を付与されるのであれば理解できるが、JWの神は人間と立場が逆転しているようである。
奇妙で異例な指示にも、従順に従うのが模範的JWの務めである。パウロのようなご立派な精神をお持ちの、霊によって油注がれ、証印を押されている方々を高く評されたい方は、どうぞご自由に。