●格闘技はダメですか?(第一コリント9:26-27より)
格闘技ネタを一つ。
実は、聖書はボクシングを禁じてはいません。むしろ、推奨しているとも受け取れる個所があります。
第一コリント9:26-27です。
「26だから私は曖昧ではない仕方で走る。空を打たないような拳闘をする。27自分の体に的確にパンチをくらわして、従わせる。他人に対して宣教しながら、自分自身が失格者とならないためである」(田川訳)
「26ですから、私の走り方は[目標の]不確かなものではありません。私の打撃の仕方は空を打つようなものではありません。27むしろ、自分の体を打ちたたき、奴隷として引いて行くのです。それは、他の人たちに宣ベ伝えておきながら、自分が何かのことで非とされるようなことにならないためです」(NWT)
26節で、NWTが「打撃の仕方」と訳しているギリシャ語は、pukteuoで「ボクシングをする」という動詞です。
27節で「打ちたたき」と訳している語も拳闘用語で字義的には「相手の目の下にパンチを打つ」という意味の一語の動詞(hupopiazo)です。
KIの字義訳でもputeuo=I am boxingと訳していますし、hupopiazo=I am hitting under (the eye)と訳しています。
ところが英訳は字義訳ではなく、誤魔化して訳しています。英訳(26節)=the way I am directing my blow と訳し、(27節)I pummel my bodyと訳しています。
boxingとすれば済むことをわざわざ原文を無視してまで解釈して丁寧に説明してくれ、さらには見慣れないpummel=pommel(こぶしで殴る)という語を使っています。なぜpunchではダメだったのでしょうか。
聖書は、朽ちない冠を得るためには、上手なボクシングをするように、的確に自分の体にKOパンチを入れるように従わせなければならない、と言っています。パウロは、自分は空振りするようなボクシングはしない、と自慢しています。
パウロがわたしのボクシングを見倣え、と言っているのですから、聖書はボクシングをOKしていると解釈できるのではないでしょうか。(W)少なくてもNGとはしていないと解することができます。
ボクシングがOKなら、他の格闘技がNGである論理的な聖書的根拠はなくなります。
WTはイザヤ2:4やミカ4:3「戦いを学ばない」という旧約の句を聖書的根拠にあげますが、新約で「ボクシング」がOKなら整合性が取れなくなります。話が変わって来るでしょう。
もっとも、ローマの兵士であるコルネリオはバプテスマをを受ける前に聖霊を注がれています。その後、コルネリオが兵士を辞めた、という記録もありません。
格闘技どころか、兵士でもクリスチャンになっていますから、格闘技を禁じる理由が分かりません。コルネリオが現代のJWなら、バプテスマどころか、排斥ですね。
他の人たちに宣ベ伝えておきながら、伝える人間の方が何かのことで非とされることがないように注意したいものです。
パウロから「失格者」と呼ばれても、あらあらあなた様がそうおっしゃいますか、とは思いますが、神からは「失格者」とも「非」とも見なされないようにしたいと思います。