●閑話休題(愛について)
(追記あり)
聖書を好きになった人の中には、第一コリント13章の「愛の讃歌」の箇所に感銘を受けた人も多いことと思う。
「愛は辛抱強くまた親切です。愛はねたまず、自慢せず、思い上がらず、みだりな振る舞いをせず、自分の利を求めず、刺激されてもいら立ちません。傷つけられてもそれを根に持たず、不義を歓ばないで、真実なこと共に歓びます。すべてのことに耐え、すべてのことを信じ、すべてのことを希望し、すべてのことを忍耐します。愛は決して絶えません。」(NWT)
この言葉をクリスチャンの追い求めるべき道、と考え努力している人も多いことと思う。空で言える人もいることでしょう。この記事があるので、パウロのことも尊敬しているし、聖書が神の言葉であると感動した人もいる。事実、わたしも感動した人の一人である。
特に、冒頭の「愛は辛抱強くまた親切である」と「辛抱強さ」と「親切」を同格で、密接不可分の特質としてあげられているところに、神の霊の導きを感じた。
「愛」を「親切」と捉えることはすぐに理解できる。しかし、愛が「親切で辛抱強い」のではなく、「辛抱強くまた親切である」と、逆の順番になっている。
このことの奥深さを本当意味で認識できたのは、AC問題で「コントロール」の罠について学んだ時である。「コントロール」は優しい暴力である。「愛」ではない。「親切」が先に立つと、「愛」は「コントロール」になる。つまり「親切」を前面に押しだし、「辛抱強さ」を後回しにする「愛」は、実のところ「愛」ではなく、「コントロール」でしかない。「優しい暴力」であると気付いた。
聖書が教えている「愛」は、「コントロール」ではない「愛」である、と気付いた。それを聖書は「愛は辛抱強くまた親切です」と教えているのだ。だから「辛抱強く」が先にあるのだ、と感じた。聖書は「コントロール」の罠を避けるように、実に簡明な表現で言い切っている、と思った。
(「コントロール」とは、条件付けの愛を与えて、相手を支配しようとすること。JWが忌避を「愛」というのは詭弁に過ぎない。相手の悔改めを望むために忌避するというのは、「辛抱強く」という特質を示しているかもしれないが、相手がそれを望んでいないのであれば「親切」なことではない。「忌避」を条件付けにして、自分が望むとおりにしようすることである。「愛」ではなく「支配」である。それは「条件付けの愛」であり、「コントロール」でしかない。「コントロール」は「暴力」の一種である。相手が「忌避」されることを望んでいないのに、「忌避」することは、「親切」なことでもない。「忌避」は「愛」だと叫びながら「真実なことと共に歓ぶ」ことはしない。したがって、「忌避」は、聖書の「愛」に反する。「忌避」を容認する組織も人も、聖書から見れば、暴力的な存在であり、「愛」を語る資格などないのではないだろうか。奇妙と思いながらも忌避に従う人は、組織からは愛されるだろうが、組織崇拝者であり、偶像崇拝者であり、聖書にも従っていない。神にもイエスにも倣ってはいないと思う。)
これまで、パウロに対する批判を原文から洗い出してきたので、読まれた方の中には聖書に対する信頼も薄くなった人もいるかもしれない。しかし、私は聖書全体を批判しているわけではない。今でも優れた言葉の宝庫であると思っている。
ただ、聖書全体が霊感を受けた神の言葉であることには根拠がないことは確信しているだけである。良いものはどこに書かれていても誰が書いたものでも良いものである。個人の好みで著作のすべての言葉まで否定するようなレッテル貼りはしない。
第一コリント13章は、パウロが書いたものではなく、別人の手による付加であるという学説を御存じであろうか。わたしは田川訳を読んで初めて知った。
その根拠を次のように語っている。(「訳と註」から要約)
この章はパウロ的でない言葉遣いが多い。単に他では用いない単語が多く出て来るというだけでなく、文法的にもパウロが他では使わない構文が出てくる。また理念としてもあまりパウロ的とは言えないものが多い。
加えて12章と14章は同じ「霊の賜物」の問題について論じている。間に挟まっている13章は、その問題とは全く関係が無い。いかにも強引に12章と14章の間に割って入ったように見える。
それで、13章はパウロが書いた文ではない。後世の挿入だとする説が登場する。後世と言っても、現存のすべての写本がこの位置にあるから、現存する写本がつくられる以前のどこかで、付加したものだとする説や、パウロが若い頃に書いたものが、ここに紛れ込んだのだ、とする説もある。またパウロの一貫性のない書き方は、珍しいものではないから、やはりパウロが書いたのだ、とする説もある。
ただし、パウロのものだとする説は、12章と14章のつながりの悪さは説明できるが、ここの語句、構文、理念が非パウロ的であることの説明はできない。
これまで、この13章について、納得のいく説明は提供されていないし、おそらく無理であろう。
第一コリント13章がパウロのものかそうではないのか解らない。しかし、パウロのものでなければ、「愛の讃歌」の価値が失われるわけでも、パウロの言葉であるから信頼に値する言葉になるわけでもない。誰の言葉であろうと、聖書のその箇所には、現実にその言葉が存在しているのである。最初に抱いた感動が薄れるわけでもない。
その言葉を心の糧として生活を営み、人間関係を構築し、豊かな人生を送ることができるのであれば、パウロが書いたかどうかは、それほど重要な問題ではないように思う。
まさに、銀を探し求めるように、宝となる言葉を集め、生きた言葉となるように活用したいと思う。