不敬な仕方で「記念式」のパンとぶどう酒に預かるならどうなるのだろうか?

第一コリントス11:29-31より

 

聖霊を注がれていない人が「記念式」の食事に預かることは、「ふさわしくない仕方」で食べることであり、聖霊に対する「罪」である、と考えているJWは多い。場合によっては、神からの裁きを招き、悔い改めないなら、ゲヘナ行きになると教える人もいる。

パウロは何を意図して「裁きを受ける」と言っていたのであろうか。

11:29-31

29何故なら、食べたり飲んだりする者は、もしも身体を判別しないとすれば、自分自身に対する裁きを食べたり飲んだりすることになる。30この故にあなた方の中では多くの者が弱く、病気になり、またかなりな人数の者が亡くなったりしているのである。31もしも我々が自分自身に判別していれば、裁かれることはなかっただろうに。」(田川訳)

 

29食べまた飲む人は、もしその体をわきまえないなら、自分に対する裁きを食べまた飲むことになるのです。30そのために、あなた方の中には弱くて病みがちな人が多くおり、相当数の者は[死の]眠りについています。31しかし、自分自身がどのような者であるかをわきまえるなら、わたしたちは裁きを受けることはないでしょう。」(NWT)

 

今回問題にしたのは、11:31の句全体。

この文は、英語で言うところの仮定法で書かれている。現在の事実に反する仮定を述べる条件法の文である。従って、もしもちゃんと判別していれば、あなた方は病気になったり、死んだりしなかっただろうに、という趣旨。

 

NWTは単なる仮定の未来形として訳している。「しかし、自分自身がどのようなものであるかをわきまえるなら、わたしたちは裁きを受けることはないでしょう」。ちなみに、口語訳や新共同訳、新改訳も同趣旨に訳している。

しかし、英訳は、but if we would discern what we ourselves are, we would not be judged.と仮定法で訳している。底本のKIも同様に未完了態の動詞を仮定法で訳している。仮定法なのだから、「……わきまえていたなら……裁きを受けることはなかっただろうに」と訳すべきだろう。

 

そうすれば、統治体の思惑通り、もうすこし、世界中で記念式のパンと葡萄酒に預かる人数が減るかもしれない。仮定法の構文がある言語には、脅しとして効くかもしれないが、この和訳では効果が薄い。油そそがれた者が急増中の、アフリカや他の言語については分からない。

 

しかし、仮定法の意味で訳すと、一世紀に死んだクリスチャンの中には、自分をわきまえないで、記念式のパンと葡萄酒に預かり、死んだ「相当数の者」がいることになる。

ほかにも、弱くて病みがちな人は自分をわきまえないで、「主の晩餐」に預かった人だ、ということになる。

 

何より、仮定法で訳すとWT的には、1世紀にも天的なクラスだけではなく、地的なクラスも存在したことになってしまう。

わきまえないで主の晩餐に預かったのが、天的クラスだけの話だとしても、霊的な認識のないまま死んだ油注がれた者が存在したということになる。聖霊が注がれていたにもかかわらず弱くて病みがちな油注がれた者がいたことになる。聖霊による癒しの賜物を授けられているのに、……である。

それでは、神が義に適った者に聖霊を注ぎ新しい契約を結んだというドグマとWTヒエラルキーも崩壊してしまう。

 

彼らは、どこに復活するのだろうか。天?地?それとも復活のない死のゲヘナ?

 

どちらにしろ、パウロは年に一度の「「記念式」のことを言っていたのではない。当時彼らは、集会の度に夕食を持ちより、おそらく集会後に一緒に食事をすることを「主の晩餐」と言っていたのであろう。そのような食事の際に、パンとぶどう酒を飲む時には、イエスのことを思い出しなさい、ということが、「わきまえた仕方で」パンとぶどう酒に預かることであった、だけのことである。

 

パウロの「主の晩餐」に関する考え方は、呪術的である。間違って「主の晩餐」に預かると、その食事は毒となって病気や死の原因になる、というのである。これを、パウロを弁護して、食べたものが毒となって作用するというのではなく、食べる際の態度が罰を招く、とする解釈もある。(コンツェルマン)結局は、病気や死に至る毒になるというのだから同じではある。単なる詭弁でしかない。

 

記念式で、聖霊で油注がれている証拠として、食事に預かるべきであり、ふさわしくない仕方で食べる者は、神によって裁かれる、あるいは病気や死ぬこともある、というのもパウロと同様、呪術的である。

 

WTの呪術に支配されたい人が、従えば良いだけであろうと思う。