●「頭の権」は神からのものですか(第一コリントス11:1-3より)
WTは、すべての者には、「頭」がある。頭がないのは「神」だけである。神→イエス→男→女とされている。組織上では、神→イエス→み使い→統治体→支部→会衆であるが、み使いは天では天的クラスの下になるから、統治体がどう思っているかは微妙。個々の成員間では、天的クラスと地的クラスが入り混じると微妙に順位の整合性が取れないことがある。
その人の権威主義度を測るために、交わりなどでよく、順位を付けてもらって、遊んだことがある。
「油注がれた兄弟」「油注がれた姉妹」「支部委員」「長老」「長老の姉妹(伝道)」「特開者の姉妹(独身)」「巡回の姉妹(開拓)」「兄弟(開拓)」「僕(伝道)」「僕の姉妹(伝道)」「姉妹(開拓)」……。
これらに順位を付けてもらう。例えば「油注がれた姉妹」と「支部委員」では、どちらが上か?とか経験の浅い会衆の「長老」と協会から任命された「特開者の姉妹」では、実質的にどちらが上か?と質問して遊んでいた。(W)
真剣に答えを出そうと、考えている様子を見て、その人の組織人間度を測っていたのであるから、思えば、性質が悪い遊びである。
答えは単純明快であるから記さないが、「頭の権」をことあるごとに強調するJWは少なくない。パウロはどういう意図で、「頭の権」をコリント会衆に対して引き合いに出したのであろうか。
第一コリントス11:1-3
「1私を真似る者となるがよい。私がキリストを真似る者であるように。
2あなた方があらゆる点で私を覚えていることを誉めておこう。私があなた方に伝承を伝えたとおりにあなた方は保っている。
3それならあなた方は知るがよい、すべての男の頭はキリストであり、男が女の頭であり、神がキリストの頭である、ということを」(田川訳)
「1わたしがキリストに[見倣う者]であるように、わたしに見倣う者となりなさい。
2さて、あなた方がすべてにおいて私のことを思いに留め、またわたしが伝えたそのとおりに伝統をしっかり守っているので、私はあなた方をほめます。3しかし、あなた方に次にことを知って欲しいと思います。すべての男の頭はキリストであり、女の頭は男であり、キリストの頭は神です」(NWT)
11:1 田川訳とNWTでは、順番が入れ替わっている。NWTでは、主文ではなく、「キリストに[見倣う者]であるように」という従文に重きが置かれている。原文は「キリストに」(キリストの属格)があるだけで、「見倣う者」という語は、主文にあるだけ。つまり、原文では、パウロが「わたしに見倣う者となれ」と言っておいてから、「わたしもキリストを見倣う者ですから」と付け足している文である。パウロにとっては、キリストに見倣うよりも、自分に見倣わせることの方が重要な問題であるらしい。
11:2 あらゆる点で
この語は、panta(すべて)という副詞化した不定代名詞。「いつも」と時間的な意味に解することもできるが、「あらゆる点で」と解する方が普通だ、田川訳の註にある。
NWTは、この代名詞を「「すべてにおいて」と訳している。11:1で従文の「キリストに見倣う者であるように」が強調されているので、あらゆる行為や動機の面で「すべてをキリストのように」という趣旨に読める。そしてその中には、続く文のパウロが伝えたキリストの「伝統」をしっかり守っていることも含めて、パウロがコリントの信者を誉めているのだ、という意味に読める。
しかし、この文はそのような意味ではない。
まず「私を覚えている」とは、パウロのことを気にかけている、という意味ではない。字義的に言えば、「パウロの言っていることをいちいちすべて覚えている」という意味。
つまり、パウロが以前コリントスの教会で不用意に発言したことまで、いちいち覚えていたことに対する皮肉。コリントスの信者たちは、パウロにあなたは以前にはこう言ったではないか、今になって違う意見を言うのですか、と批判したのだろう。
NWT「わたしのことを思いに留め」。パウロのことを気遣っている、という趣旨に解しているが、「わたしのこと」(mou)は属格で、「わたしの言ったこと」という趣旨。KI=of-meとしているが、英訳はmeとしているから、「パウロ自身のこと」の意味になる。むしろmineとするのが意味が伝わるように思う。
「誉めておこう」というのも、純粋に誉めているのではない。自分よりちょっとでも目下の相手だと思うと、すぐに上から目線から見下ろす言い方をする人がいるが、先生が生徒を、あるいは主人が召使を上から目線で誉めてやっている、という感じの言い方。22節での言い方からして、ここもパウロの皮肉であろう。
NWT「わたしはあなた方をほめます」。文の最後に持って来ているが、原文では「ほめる」は文頭にある。「わたしのことを思いに留め」ていたことをほめているのであり、kaiつながる文を同格でつないでほめているのではない。NWTは、パウロのことを気遣っていることとパウロが伝えた伝統をしっかり守っていることの両方をほめていることになっている。
そして、「頭の権」の文へと続くのである。
11:3 それなら (de)
接続小辞のdeを訳したものであるが、この場合のdeは、逆接の意味での「しかし」ではない。「もしもそういうことであるなら、それなら」という趣旨。「ここで」という趣旨にとする方が無難。
あなた方がいちいち私が伝えたことの伝承をこと細かく覚えていて、それを根拠に逆にわたしに反論して来るのなら、それなら次のこともしっかり覚えておきなさいよ、という感じ。
NWT「しかし」。逆接につなぐことにより、本当言いたいことは、信者を誉めることではなく、こちらの「頭の権」についてであることが明白になっている。誉めているのは、これを言いたかったための御膳立てに過ぎないことがばれてしまっている。
つまり、「頭の権」に関するパウロの発言は、神からのものでも何でもなく、パウロがコリントスの信者たちから受けている批判を黙らせるために、神の権威を振りかざし、キリスト信者には、皆キリストに服すべきなのだ。私は主の側にいて福音の側にいるのだから、頭の権に従い、キリストに従うように、私の言うことを黙って聞いておけばよいのだ、ということを間接的に言っているに過ぎない言葉である。
パウロの女性蔑視は、11:3にも顕著に現れている。この句には、三文あるが、最初の文だけ「頭」が主語で、後に二文は「頭」が述語。女性を主語にしている文は、一つもない。
ここまで露骨に女性差別を神の名において権威付けしようとするのは、古代といえどもいささか珍しいそうだ。
NWTは、第二文を「女の頭は男であり」と訳して、「女」が主語であるかのように訳している。しかし、原文は、「頭である」と言ってから「女の」という属格に、定冠詞付きで「男が」と置かれている。むしろ強調されているのは、「女」ではなく「女の頭」である「男」の方である。
パウロの「伝承」つまり、以前コリントス会衆でパウロが話したことをいちいち覚えておき、批判したのは、女性の信者たちだったのだろうか。
それともパウロは女性と性関係を持つことをユダヤ主義的に「汚れる」と思っているから、単なる女嫌いが、女性蔑視につながったのだろうか。
いずれにしても、イエスは女性差別はしなかったが、パウロは差別主義者である。キリスト教のすべての文書が「フェミニズム」であると画一的に判断するのは早計。パウロがイエスに見倣っていると豪語するのは、噴飯ものであろう。統治体がイエスを見倣っていると言うのも同様であろう。
JWは事あるごとに、「頭の権」を引き合いに出し、支配的に行動することを正当化するが、それは「神からのもの」だからではなく、権威を振るいたい者たちが正当化するための手段であるのだろう。パウロと同じように、権威にある者が、下の者の反対意見を黙らせるための、便利なシステムとして機能させたいのだろう。
パウロが「神からのもの」だとする「頭の権」とは、イエスが、誰でも神のご意思を行なう者はみな兄弟である、と言った精神とはまるで異なっているように思う。