●パウロの宣教者精神に見倣う(第一コリント9:22-23より)
パウロの宣教者精神は、第一コリント9:19-23によく示されている。
ユダヤ人、律法のない、弱い人など、あらゆる人をかち得るために、あらゆるものとなってきた、と言う。
その動機を、パウロ自ら次のように説明している。
第一コリント9:22-23
「22……ともかく何人かでも救うためである。23福音のゆえに、私は何でもしている。私が福音の共同者になるためである」。(田川訳)
「22……何とかして幾人かでも救うためです。23わたしは良いたよりのためにすべての事をするのです。それは[他の人々]と分かち合う者となるためです」。(NWT)
王国伝道者が模範とすべき宣教者魂、自己犠牲の手本であると励まされた方も多いと思う。私自身もそう思っていた。
ところが、原文から見るとパウロの動機は、どうも自己犠牲の精神ではなさそうである。
「ともかく何人かでも救うためである」とあるが、原文の「救うためである」は、一人称単数能動未来形で書かれている。二人称複数受身で書かれているのであれば、「あなた方が救われる」ために、身を粉にして自分を犠牲にしている、という意味になる。しかし、パウロが言わんとしているのは、「私があなた方を救ってあげているのだ」、という自意識である。
もちろんパウロは、他のだれよりも強く、救ってくれるのは神だ、と信じていたことだろう。しかし、他の人に向かって説教し始めると、すぐに隠しきれない本音が出て来てしまうようである。
そのことは「福音の共同者」(田川訳)「[他の人々]と分かち合う者」(NWT)となるために、すべての事をする、言っていることにも表われている。
この文は、パウロが皆さんと「共に」、つまり世の中の多数の人々と一緒に、同じように福音の恩恵に預かれるようになるために、すべての事をするのです、というのであれば、本当に宣教者精神の模範でしょう。
しかし、この「福音の共同者」「[他の人々]と分かち合う者」の原文は、一語の形容詞を名詞として使っているもの。sugkoinonosという語でsugはsynと同じ接頭語。「共に」という意味。koikonosは「参加する」「そちら側に加わる」という意味動詞から派生した形容詞。
つまり、パウロは、福音される側の人間たちと共に福音を分け合う者となると言っているのではなく、福音の側にいる神の仲間であると言っているのである。
どうやら、パウロが分かち合いたいのは、「他の人々と」ではなく、「神と」であるようである。「他の人々の救いのために」ではなく、「自分の自意識を満足させるために」すべての事をするようである。
要するにここでもパウロは、自分は一般の人間の側にいるのではなく、神の側にいる特別な存在であるから、福音の共同者となって、人々に救いをもたらしてあげている、と言っているのである。
パウロが、あらゆる人に対してあらゆるものとなってきたのは、「私があなた方を救ってあげているのだ」という自意識を満足させるためであり、神の側に立っている共同の福音宣明者という権威付けが欲しいためだったのかもしれない。
JWの中の福音宣明者の多くもパウロと同じ宣教者精神を抱いて奉仕していたとすれば、残念なことであるが、聖書的であり、パウロの模範に倣っていることにはなるのだろう。