結婚は主にある者とだけ、という本当の意味は……。

 

結婚に関して、二世にはある種の重荷がある。JW同士の結婚は、神の祝福を受けるが、未信者との結婚は神の祝福を得られない。得られるとしても限定的である、と多くのJWは信じている。

JWになる前に結婚していた人には、あまり問題になることのない聖句であるが、二世や再婚の自由を持つJWにとっては、大きな枷となる聖句がある。

 

第一コリント7:39である。JW的には「主にある者とだけ結婚しなければならない」、と解されている。

 

しかし、結婚は「神の取り決め」(創世記2:24、マタイ19:6参照)ともある。聖書霊感説に基づき、この二つを整合させるために、本当に神の祝福となる結婚とはクリスチャン同士の結婚のことである、と解釈する。

中には、未信者(「非」ではなく「未」とするのが傲慢ではあるが)と結婚したために、特権を削除された人や場合によっては排斥には至らなくても、会衆に居づらくなった人、断絶を決意した人もいるかもしれない。

 

この聖句は、本当に、結婚という関係を内部組織関係だけに限定して選択するように指図しているものなのだろうか。感覚的にはおかしいのではないかと思いながらも、聖句を否定するには、聖書そのものを否定するか、パウロを否定するかしかないのだろうか。

 

原文と比較しながら、確かめてみる。

「女は、生きている限りは、拘束されている。しかし夫が亡くなったら、自分の欲する男と結婚する自由がある。ただし主にあって」。(田川訳)

 

「妻は夫が生きている間はずっとつながれています。しかし、もし夫が[死の]眠りにつくことがあれば、彼女は自分の望む者と自由に結婚できます。ただし主にある[者と]だけです」。(NWT)

 

参考のために他の訳をいくつかあげておく。

「……ただし、相手は主に結ばれている者に限ります」。(新共同訳)

「……それは主にある者とに限る」。(口語訳)

「……ただ主にあってのみ、そうなのです」。(新改訳)

「……ただし、その場合、相手はクリスチャンに限ります」。(リビング・バイブル)

 

パウロが、再婚の自由を述べながら、付け足しのように「ただし主にある[者と]だけです」という趣旨で述べている箇所の原文は三語で構成されている。

 

monon en kurio=only in Lordである。

 

en kurioinを意味する前置詞+「主」を意味するkuriosの与格を組み合わせたもの。

パウロ文書の中で、このen+与格の「主」あるいは「キリスト」、「イエス・キリスト」という表現は、全部合わせると、100回以上用いられている。他には疑似パウロ書簡の著者が、意識してパウロを真似してこの表現を使うだけであり、他の新約著者は、この表現を使わない。

 

この表現の意味は、今日で言う「キリスト教にある」、あるいは「キリスト教的」という趣旨である。パウロがこの文を書いた時には、まだ「キリスト教」という言葉は存在しておらず、「クリスチャン」という語も一般的ではなかった。

 

NWTが、「主にある[者と]」という句の「者に」という語を、[ ]でくくっていることからも明らかなように、原文に「者」という語はない。解釈を補ったものである。原文「主にあって」を「クリスチャン」「主と結ばれている者」という趣旨に訳しているのは、いずれもin Lordsomeone that be in the Lordと解釈して、monon=onlyを言外の「者」に掛かると解したものである。

 

しかし、このen kurioに「者」ではなく、単に「~である」eimi=beを補い、「キリストにあってある」つまり「キリストにある存在となる」、「キリスト教に従って生きる」という趣旨にも解せる。monon=onlyを言外のeimi=beに掛かる副詞とみなすこともできる。

そうすると、この文は「彼女が再婚する場合も、彼女自身はクリスチャンとして振舞いなさい」と解釈できることになる。(バレット)

必ずしも、同じ組織の信者同士でなければ再婚してはならない、というのではなく、彼女は自分の望む者と自由に結婚できるが、彼女自身は、ただ主にある者として生きていきなさい、他の神に従うのではなく、ただキリスト教に従って生きなさい、という趣旨に解することも可能である。キリスト教(主にあること)をどのように捕えるかは、別の問題である。

 

あくまでも「同じ組織の信者同士」とするのは、組織の論理であり、原文はそこまで強く規定してはいない。原文では、パウロの意味のはっきりしない与格であり、曖昧で意味が広い言い方である。RSVのように単にonly in the Lordと曖昧なままにしておき、解釈は読む人に任せておく方が良いように思われる。

 

パウロは、女は夫が生きている限りは夫に拘束される、とは言っても、逆に男は妻が生きている限り、妻に拘束される、とは言わない。男は女に拘束されずに、自由に再婚できると考えているのだろう。結婚する自由は、再婚する女性にだけあるのではないのだから、パウロの女性蔑視に起因する、信者同士の結婚でなければならない、と言う枷に囚われる必要はないように思える。

もちろん、パウロ自身は、パウロのキリスト教を前提として書いているのではあるが……。

 

ちなみにKI=only in Lordとしているが、英訳は、only in [the] Lordとしている。この句自体には、動詞は含まれていないから、be動詞を補って解釈することになる。

結論として、only in the Lord自体に、主にある者と結婚する、という意味があるわけではない。