結婚すると、自分の肉身には、どんな患難を招くことになるのだろうか?

 

WT(伝統的なキリスト教も同じであるが)は、聖書が独身を高く評価し、結婚を推奨していなのは、生活上の思い煩いが結婚生活には伴うからである。専心的に主に仕えるのは独身の方が望ましい、と教える。

「それらの人々(結婚した人)はその身に苦難を受けるであろう。わたしは、あなたがたをそれからのがれさせたいのだ」(口語訳)

「ただ、結婚する人たちは「その身に苦労を負うことになるでしょう。わたしはあなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」(新共同訳)

「しかしながら、そうする人たちは自分の肉身に患難を招くでしょう。しかしわたしは、あなた方が[それに]遭わないですむようにしているのです」(NWT)

 

どの訳を見ても、表現は多少異なるものの本質的には同じことを言っている、と思えるかもしれない。しかし、結婚によって「その身が負うことになる苦労、苦難、患難」とは何を指しているのだろう。パウロは、何を言わんとしていたのだろうか。

 

原文の文脈から、確かめてみる。

 

25童貞の者については、私は主の命令を持っていない。しかし主に恵まれて信実であるようにされた者として、自分の意見を言おう。26現在の逼迫した状態の故にこれは良いことだと思う。すなわち、人間にとってそのようにあるのは良いことだと思う。27もしも女に縛られているのなら、それを解こうとするな。もしも女から解放されているのなら、女を求めるな。28しかしすでに結婚しているとしても、それは罪を犯したことにはならない。また童貞者が結婚したとしても、罪を犯すことにはならない。だがそれらの人々は肉体に苦悩を持つことになろう。私はあなた方に遠慮してあげているのである。」(田川訳)

 

25 さて,童貞の人について,わたしはから何の命令も受けていませんが,忠実であるようから憐れみを示された者として,わたしの意見を述べます。26 それで,現状による必要性を考慮して,わたしは次のことがよいと考えます。人は今あるままでいるのがよいということです。27 あなたは妻につながれていますか。放たれることを求めてはなりません。あなたは妻から解かれていますか。妻を求めてはなりません。28 しかし,たとえ結婚したとしても,それは罪を犯すことではありません。そして,童貞の人が結婚したとしても,その人は罪を犯すことにはなりません。しかしながら,そうする人たちは自分の肉身に患難を招くでしょう。しかしわたしは,あなた方が[それに]遭わないですむようにしているのです。」(NWT)

 

気になる訳語の違いについて、確かめてみる。

7:25 童貞の者 

男だけでなく「男女双方」を頭においている。しかし、結婚関係を「女に縛られている」状態として、論議を進めているから、「男」を中心として考えていることが分かる。「処女」とするのは、不正確であるが、「未婚の者」とするのも不正確。ここでは結婚関係の是非ではなく、肉体的な性体験の有無を「童貞性」の論点としている。未婚でも童貞ではない人は大勢いる。

NWT「童貞の人」。

文字通りの「童貞」のことではなく、自らの「童貞性」について論じていると註解されている。(洞-1「処女、童貞の人」参照)パウロは男性を中心に論じているが、本質的には大差ない。

 

7:25 命令 (epitage(_)

軍隊用語であり、承服することが要求されている、はっきりと「命令」という意味の語。7:10の「指示」(parangelos)よりずっと重い語。

NWT「命令」。

7:10「指示」。「命令」と「指示」の区別して考えているJWは少ないだろう。組織や長老から「命令」ではなく「指示」です、と言われても、従わなければ、「不従順」というレッテルを貼られることになる。

 

 

7:25 主に恵まれて信実である者

「恵まれて」(ele(_)me(_)nos)という形容詞は、「憐れみを受けて」と訳されるのが普通。自分がキリストに対して忠実であることができるのは、自分の実力で勝ち得たのではなく、主が憐れみを示してくれたおかげである、ということ。日本語の「憐れみ」は、劣っている人間に対する施しをイメージさせるが、この場合はむしろ、他より優れた恩恵を特別に与える、という趣旨。パウロはここで自分のことを、人間であるにもかかわらずキリストの代行者として振舞えるような特権を与えられた者と見ている。神の視点から見れば、人間に対して何かをする行為は、すべて「神の側から憐れみの恩恵」に過ぎない、とパウロは考えているから、「憐れみ」となる。日本語の「憐れみ」にはその感覚はない。

「信実である」(pistos)という語は、パウロの省略表現であるから、補う語により、意味が変わって来る。「神によって」を補い、第一テサロニケ24を根拠に「神によって信任を受けた者」と解釈する説。(現代版ルター、リーツマン、コンツェルマンなど)。口語訳=新共同訳「主の憐れみにより信任を受けている者」。しかしテサ①2:4には、「信実な」という形容詞も同根の語も出て来ない。

現代の英語訳の大半は、trustworthyとしている。直訳ではあるが、意味的には「人々によって」を補い、「人々によって信頼されるに価する者」という意味になる。「信実」が「主による」のではなく「人々」からのものとなってしまい、「恵まれて」との調和が取れない。

 

ここは、同じ第一コリントス書簡で、パウロ自身が同じことを言っている4:2と同じ意味に解するのが妥当であろう。そこではパウロは自分のことを「神の秘義の管財人」に例え、その特質は「信実であること」としている。パウロにとって「信実である」という特質は、人間ではなく「神」に属するものである。(コリ①1:9,10:13、コリ②118、テサ①5:24、ロマ4:5参照)

ここでもパウロは自分の持っている立場に関する神からの保証としての特質に言及し、「恵まれている」「信実である」という二つをあげている。そして、私は此の世においては神の意志を代表する者として、神から「恵まれた」だけでなく、神の特質である「信実である」という特質を持っている。従って、神が人間にとって絶対的に信頼できる存在であるのと同じように、私も神と同等の信頼され得るべき信実の特質を持っている者であると神から認められている。だからコリントスの信者たち(一般化してパウロのキリスト教を聞くすべての人)は、私の意見は神の意志を代表していると思え、という自己主張の言葉と解せる。

パウロの思い上がりもはなはだしいが、この種の思い上がりはこれまでも何度も出て来ている。

NWT「忠実であるよう主から憐れみを示された者」。

単に「忠実である」ではなく、「よう」としていることにより、表現が和らげられているが、原文は「忠実な……特質の者である」という趣旨。「よう」に相当する原文(ho(_)s)をKI=asとしているが、基本的には「同じように」という意味。

「憐れみを受けた」ではなく、「示された」としているから、神から選ばれた特別感は増しているものの、「憐れみ」が持つ被虐感は拭えていない。むしろ「受けた」とするよりも、神の心の懐の狭さを感じさせる表現になっている。

 

7:26 現在の逼迫した状態 (ton enesto(_)san ananke(_)n

  「現在の」(enesto(_)s)は、「そこにある」(eniste(_)mi)という動詞の完了分詞を形容詞として用いたもの。あくまでも「現在の」であり、未来や近未来の事を指しているのではない。完了分詞である以上、それは文法的に無理。パウロは、終末直前の危機的緊張感が現在すでに存在しているという意味で「現在の逼迫した状態」と言ったのである。

「逼迫した状態」(ananke(_))という語のそのものの意味は「必然」。確かに人間にとって「必然」は、たいてい有り難くないものである。それで「やむを得ないこと」という否定的な意味を帯びる。パウロはここで終末のことを考えている。終末とは最後の審判のことであるが、自分や信者にとっては永遠の救済の時であるから、「希望」である。(ロマ82024参照。テサ①1:3)

ここを「危機」の意味と否定的に解するのは、最後の審判を此の世のすべての終わりと解することによるもの。(口語訳・新共同訳「危機」)

ここは単に決定的に重要な時を前にした逼迫した状態、という程度の意味。

NWT「現状による必要性」。続く「考慮して」としている語の原文は、単なる前置詞のdia=through。「考慮する」は意訳。終わりを強調する教理を展開していながら、単に「現状による必要性」としているのは奇妙。本当は「信者の将来」や「終末が来る」ことはどうでもよく、現状の必要だけを考えればよい、と信じているように思える。

 

7:26 これは良いことだと思う

原文ではパウロはこの句を二度くり返している。最初の「これは」は直前の「童貞の者」を受ける。童貞であるのは良いことだ、という趣旨。それをパウロは、もう一度くどく言い直して、「すなわち、人間にとってそのように(童貞で)あるのは良いことであると思う、と繰り返している。

NWT「次のことがよいと考えます」。

toutoという代名詞を「これは」ではなく、「次のことが」と訳しているので、「今あるままでいる」ことを指すことになる。この文からだけでは、現状の状態ままでいること、結婚していな人は結婚しないままでいること、結婚している人は結婚しているままでいること、という趣旨に解せる。原文の「次のこと」(touto=this)が前の文の内容を受けているとは考えない。原文では、前の文章を受けて「これは」と言っている。それを前の文の内容を指す副詞「そのように」(houto(_)s=thus)を一つにまとめて「今あるままで」と訳している。

 

7:26 そのようにある 

パウロはこの章を通じて全体的に「現状にとどまっているのが良い」と言っているが、ここはそのような一般論を言っているのではない。この個所では、はっきりと童貞であることが良い、と言っているだけ

口語訳・新共同訳「現状にとどまっている」は意味を広げ過ぎ。「そのように」(houtos)とは「童貞であること」を指している。

NWT「今あるままでいる」。結婚という関係性を持つかどうかに関して、現状のままでいること、という一般論の趣旨に解している。前の文の内容を示す代名詞と副詞を一つにまとめて「今のままで」と訳したことによる、印象操作的改竄。

 

7:27 

多数の西洋諸語では「妻」と「女」を語で区別しない。「男」と「夫」に関してもほぼ同じ。日本語で「妻に縛られている」とすると、社会制度的、法的婚姻関係を想定することになる。パウロとすれば、結婚しているということは「女に縛られている」ということである。パウロの独身主義は、女ごときに縛られるはまっぴらだ、という考えがあるのだろう。

NWT「妻につながれている」。夫には「頭の権」があるとはいえ、夫の首を「つないでいる」のは「妻」なのであろう。

 

7:28

パウロが、独身主義を強く勧めていることは、コリ①7:7,8,38から明らかである。ここで、結婚と罪を関係させて、「結婚しているとしても、罪を犯したことにはならない」言い訳してるのは、以前にコリントスに居た時、あるいは前に書いた手紙の中で、キリスト信者は結婚しない方が良い、ということを主の命令であるかのように言っていたのだろう。

そうでなければ、わざわざ、この段落を始めるに際し、「童貞の者については」、と独身の者だけを対象にするかのように、言い訳しながら始めることはしなかったと思われる。7:7,8では、結婚なんぞをする信者は、此の世の誘惑に負けた者がすることである、としているのだから、信者となってから結婚するのは罪であると主張していたのだろう。7:10~はすでに結婚している人には、「命令」ではなく。私が「指示」する、と言っておきながら、私ではなく主が指示する、と言い訳している。おそらく、「主の命令」として、はっきり「命令」していたのであろう。だからこそ、7:28で「童貞の者については、主の命令をもっていない」が、「すでに結婚している者に対しては、遠慮して」言ってあげているのだ、と正当化を図っていると思われる。

パウロの独身主義と結婚蔑視をコリントスの信者たちは強く反論したので、ここで多少譲歩して、自分は何も結婚そのものが罪だとまでは言っていないよ、と言い訳しているのだろう。

 

7:28 童貞者 parthenos

大多数の写本はこの語に単数女性の定冠詞が付いているが、西方写本には定冠詞が付いていない。ここはparthenosが単数形であるので、主格定冠詞をつけるとしたら、男性(ho)か女性(he)かどちらかになる。25節は複数形parheno(_)nであるから、属格定冠詞はどちらでも同じ形(to(_)n)。ここは、parthenosが女性名詞として用いられることが多いから、冠詞も女性形にしただけであろう。

この個所も25節と同じく、男女を問わず、童貞の者、処女の者を意味すると取る方が自然。前後関係では、すべて男の側から「女を持つ」ことの是非を論じているのだから、ここだけ「処女」の女性の結婚問題に一言触れている、とするのは不自然。

新共同訳「未婚の女」。

NWT「童貞の人」。

 

7:29 肉体に苦悩を持つ

パウロがここで言っているのは、セックスなど経験しなければ性的欲望はまだ我慢しやすいが、結婚して性生活の喜びを覚えると、欲望の火が燃え盛るので困ることになるよ、という意味。原文には、はっきり「肉に」と書いているのだから、パウロが使う「肉」という意味で、「肉の欲望がもたらす肉体に対しての苦悩を持つ」ことについて書いている。性的禁欲主義者のパウロにとっては、性的欲望を持つことそのものが「苦悩」なのであり、どのようにその「苦悩」から解放されることが、関心事である。別に結婚関係に伴う経済環境や家族関係の問題、子どもの教育や親の介護の問題を心配しているのではない。

口語訳「その身に苦難を受けるであろう」。新共同訳「その身に苦労を負うことになるでしょう」。結婚したら、扶養家族が増えて苦労するとか、嫁姑問題で精神的に疲弊するとか、口うるさい奥さんになると面倒になるとか、という「苦難」「苦労」のことを言っているように読める。

NWT「自分の肉身に患難を招く」。この文をどのように解釈しているかは、数多くある。家族関係、経済関係、介護問題、子供の教育その他諸々。(WT08/4/15p20他参照)

 

7:28 あなた方に遠慮してあげている

この動詞(pheedomai)は、通常ものを意味する語を属格で伴い、「節約する、なしで済ます」あるいは「(けちけちと)惜しむ」という趣旨の語。(ロマ1121参照)しかし新約のギリシャ語では多くの場合、人を表わす語を属格においている。パウロはこれを「遠慮する」「相手に対して譲歩する」という趣旨で用いている。(コリ②1:23,13:2他参照)

ここでは、あなた方に遠慮して自説を主張しないでおいてやる、という趣旨。

これをNWTのように(口語訳、新共同訳他も同じ)、「相手を気遣って」、というような意味に解されたのは、20世紀になってから。リーマン(ich mochte euch das erspart wissen)RSV(I would spare you that)口語訳はRSVの和訳。しかし、原文には「それ」を指す代名詞はないし、この動詞には「のがれさせる」という使役の意味もない。勝手な作文。

ルター、ティンダル、欽定訳、ルイ・スゴン等は皆正確に訳している。(欽定訳I spare you

NWT「あなた方が[それに]遭わないですむようにしている」。口語訳・新共同訳と同じ趣旨に訳している。KIはego(_) de humo(_)n pheidomai=I but of-you I-am-sparing、英訳もBut I am sparing you。わざわざ進行形にして、「譲歩している」と相手を気遣っていると思わせるような表現にしている。「~しないように気を配る」という意味の場合には通例受身で用いるか、人を意味する目的語のほかに不定詞や前置詞句を伴うのが普通。それで原文にはない[それに]という語を和訳は付加している。「それに」に相当する語は、原文にも英文にもない。

ちなみに2013年版NWT英文はI am trying to spare youとパウロのオレオレ度をさらに下げ、神格化が進んでいる。

 

結婚によって、「自分の肉身に患難を招いた」JWは、一体どういう特質を持っている人だったのでしょうか。「自分の身体」でも「肉」でもなく、「肉親」と読み誤らせるような表現で「肉身」としているは意図的なのだろうか。