●「書かれている事柄を越えてはならない」という[定め]とは……?

長老やWT組織は、信者に「従順」を要求する場合に、よくこの句を引き合いに出し、説得しようとする。教理に疑念を抱いている場合や解釈の適用に意義を唱える場合には、出版物が持ちだされ、この句が引かれ、僭越だと判断されることが多い。

 

この句は、第一コリント4:6の一部である。どのような意味でパウロは、「書かれている事柄を越えてはならない」と言っていたのだろうか。

 

兄弟たちよ、これらのことを私は、あなた方の故に、私自身とアポロへと形を変えた。それは、あなた方が我々において、書かれてあること以上ではない、ということを学んでくれるため、またあなた方のそれぞれが、ある者に賛成し他の者に反対したりしてふくれ上がらないためである。というのも、誰があなた方特別視するのか。あなたは受け取ったもの以外に何を持っているというのか。受け取ったのであるとすれば、どうして受け取ったのではないかのように(最初から自分で持っているような顔をして)誇るのか。

あなた方はすでに満腹している。すでに富んでいるのである。我々ぬきであなた方は王となったのだ。いや、実際に王になってくれればよかったのに。そうすれば、あなた方と一緒に我々が王となったであろうから」。(田川訳)

 

6 さて,兄弟たち,わたしは,あなた方のために,これらのことを移し変えてわたし自身とアポロとに当てはめました。それは,わたしたちを例にして,「書かれている事柄を越えてはならない」という[定め]を学んでもらい,あなた方がそれぞれ一方に付いて他方を退け,思い上がるようなことのないためです。7 というのは,だれが他と異ならせるのですか。実際,自分にあるもので,もらったのではないものがあるのですか。では,確かにもらったのであれば,どうしてもらったのではないかのように誇るのですか。

8 あなた方はすでに存分に持っているのですか。あなた方はすでに富んでいるのですか。あなた方はわたしたちを抜きにして王として支配しはじめたのですか。いや,あなた方が王として支配しはじめていてくれたらと願うのです。わたしたちもあなた方と一緒に王として支配するためです」。(NWT)

 

4:6 形を変えた metasche(_)matizo

「形」(schema)に「変化」の意味を表わす接頭語metaをつけて他動詞化したもの。NWTは移し変えて……当てはめました」と訳している。しかし、「これらのことを私とアポロを例にとって語った」という趣旨に解すると、原文とは、微妙に話がずれる。

この動詞を「~に例える」という意味に用いることはしない。その意味の動詞は別にある。ここでパウロが本当に言いたかったのは、私とアポロの間の関係ではなく、「あなた方」(コリントスの信者たち)のパウロに対する姿勢についてである。あなた方がこともあろうに私(パウロ)のことを批判した、ということを問題にしている。

しかし、それを正面から非難したら、あなた方も理解しないであろうから、とりあえず私とアポロとの関係に形を変えて論じてあげたのだ、と言いたいのだろう。

 

4:6 書かれてあること以上ではない

この文だけでは、何のことかわからない。それで多くの写本が「考える」という動詞を補って、「書いてある以上に考えたりしない」としている。数は多いが、後世の諸写本。

ルターは「誰も自分を、現在書かれてある以上にみなしてはいけない」と訳している。なるほど、と思わせるが、意味の通じない文を通じるように作文したもの。「自分を……とみなす」、という語は原文にはない。

「書かれてあること」とは「旧約に書いてあること」を指すと解する学者が多い。ただパウロや初期キリスト教の語法としては「書かれてあるように」とか「書かれてあることが成就するため」と「ように」、「成就するため」という表現を用いることが多い。必ずしも「旧約に書かれていること」を指しているとは言えない可能性もある。

この「書かれていること」とは、パウロが5:9以下で言及している手紙で書いたことを指しているものと思われる。コリントスの信者たちがその手紙の中味を批判してきた。それに対してパウロが、書かれたことだけをしっかり受け取ればよいので、それ以上つべこべ言うな、というのがこの文の趣旨であろう。そう解すれば、4章のこれ以下の部分とも、5:6以下とも、手紙の全体の色調とも適合する。

 

NWT「書かれている事柄を越えてはならないという[定め]」。「書かれている事柄」とは、旧約に書かれている文言という趣旨になされているが、「定め」という語は、原文にはない。KIは、原文の関係代名詞ho=what (things)とあるが、英訳は、thingsruleと解して、 the [rule]: “Do not go beyond the things that are written”と旧約にある「定め」、「書かれていることを越えてはならない」という律法のことであるかのように訳している。

多くのJWはこの[定め]とは申命記4:2,12:32、箴言30:6、啓示21:18の言葉と同じように理解している。この「定め」を越える者は神に祝福を受けられず、呪いのもとにあると信じている。

しかし参照聖句を見ると、コリ①1:31、ヨハネ②9、ヨハネ③9があるだけで、旧約の箇所はない。統治体の「指示」や指導の任に当たって人たちの「取り決め」を旧約の条項と同じような「定め」と解させたいのであろう。(WT08//15p-7参照)

 

4:6 ある者に賛成し他の者に反対したりしてふくれ上がらない

直訳は「ある者がある者のことを他に対してふくれ上がらない」。多くの訳と註解は、これを「ある者を持ち上げ他の者に反対するような仕方で、思い上がってはならない」と解している。WTも同様である。(洞-2「慎み」参照)

しかし、自分以外の者を持ち上げることと、自分が思い上がることとは、別のことである。確かに褒め殺しや揶揄する目的で、他の人を持ち上げる人もいるかもしれない。しかし、自分が思い上がっているからではなく、純粋にその人を尊敬しているので、敬意を込めて他の人を持ち上げる人もいる。

パウロとしては、あなた方が私に反対して、ほかの宣教師、(たとえばアポロに)賛成するなどというのは、「ふくれ上がり」、つまり「思い上がり」に過ぎないのだから、そうならないように、私の言うことだけをおとなしく聞いていればよい、ということだろう。思い上がっているのは、パウロの方ではなかろうか。

 

NWTは、「一方に付いて他方を退け、思い上がるようなことのないためです」、と訳している。この句によれば、WTだけが神の組織なのだから、WTに堅く付き、他方は一切退けよ、と言っている時点で、「思い上がっている」ことになる。思い上がっているのはパウロと同じように統治体の方である。

 

4:7 特別視する (diakrino

「判断する」(krino)に接頭語dia「通して」を付けたもの。AとBの間を通して判断する、というところから、AとBを「区別する」という意味になる。(使徒15:9参照)ある者を他と区別するということから、特別に優れた者とみなす、という意味に派生した。それで「特別視する」となる。

パウロは、krino「正しく判断する」「批判する」「裁く」という語を使った語呂遊びをしている。4:3,4のanakrino「批判する」、4:5の接頭語抜きのkrino「裁く」、4:7で、diakrinoとダジャレ感覚。

 

NWT「他と異ならせる」。KI=judges-throughとしているが、英訳はdiffer fromとしている。

 

4:7 あなた (se

前後の節では、hemas,hemon,と二人称複数なのに、ここだけ二人称単数。ここだけ単数にする理由がよくわからない。おそらく直接呼びかける意図を強調するためであろう。7節「あなた」と8節「あなた方」の間にどういうつながりがあるかも不明。

NWTは前文の「あなた方を」を「人を」と一般化し、この文は主語なしで訳している。しかし、KIも英訳もちゃんとyouを入れて訳している。英訳=who makes you to differ from another

おそらく、続く「実際、自分にあるもので……」という文を、コリント信者に宛てたものではなく、一般論として解させるために、「あなた」という主語を避けた表現にしたのだろう。

 

4:7 受け取ったもの

「パウロから受け取ったキリスト教の教え」を指している。お前らにキリスト教を教えてやったのはこの俺様である。キリスト教のイロハからすべて教えてやったのだから、俺様に対して文句を言うな、と言いたいのだろう。

 

NWT「もらったもの」。文脈を無視して、キリスト教の教えだけではなく、「神から与えられているすべてのもの」を指している、と解釈している。ここではパウロがコリントの信者たちに対して述べているのであるが、一般論としてすべての人間に対して語られた言葉と解している。人間は神によって創造された被造物であり、命や財産、才能を含め、すべてのものは神によって一時的に所有権を委ねられているに過ぎない。それゆえ自分のものであると思えるものであっても、神から与えられたものであるのだから、誇ってはならない、という教訓とされる。

 

4:8 満腹する

「満腹する」は「富んでいる」「王になる」と同じ意味で使っている。宗教的な意味で「満腹する」、つまり宗教的に十分円熟した状態になる、という意味。

NWT「存分に持っている」。物質的な財産や神の賜物を十分に持っている、という意味か、霊的に知識や特質を十分に持っているという意味か不明。

 

4:8 王になる (basileuo

直訳は「王である」。この語は「王として支配する」という意味に用いられるが、この語に「支配する」という意味があるわけではない。宗教思想においては、政治的な王支配を考えているのではなく、宗教者の到達し得る最高の状態を「あらゆるものの上に立つ」という意味で「王になる」と呼んでいる。ここにはグノーシス主義の概念と共通する発想が見られる。

宗教的境地を表現したものにアレクサンドリアのクレメンスが引用しているヘブライ人福音書4節がある。「求める者は、見出すまでは休みことがない。見い出したら、驚くであろう。驚いたら、王になるであろう。王になったら、休むであろう」。宗教的境地の第一段階が、「求めて、見出す」こと。第二段階が「驚く」こと。この「驚く」とは「感動して激しく心が動いている状態」を指している。第三段階が「王になる」という状態である。「あらゆるものの上に立ち、円熟の境地に達している」ことを指している。そして最終段階が「休む」という境地で、もはやあらゆる動きを寂滅して、ただただ静かな心の状態に達するとされている。

「王になること」をこのような宗教的境地と位置付けるのはいわゆる「グノーシス主義」の文書に限ったことではなく、プラトン、ストア派などで「賢者」を指す表現として用いられている。ただしパウロの方がグノーシス思想より100年ほど前である。

 

NWT「王として支配する」。宗教的な意味ではなく、文字通り、政治的に「王として支配する」こと、再臨時におけるイエスの王国での共同支配を指すと解釈している。(WT08/1/15p22参照)

しかし、「存分に持っている」「富んでいる」「王として支配する」とは同義であり、いずれも「宗教的な意味で円熟した域に達している」という趣旨であり、イエスの王国支配とは無関係な表現である。

コリント信者たちはパウロのキリスト教とパウロの使徒職に関する根拠に疑問を抱いており、パウロはそれに反論しているに過ぎない。

 

また4:20「神の王国は言葉にではなく、力にある」の「力」とは、「実効的な支配力」を指しているのではない。19節の「力」を受けているのであり、パウロが今度コリント会衆を訪問した時には、霊を受けている証拠としての「力」、つまり「奇跡」を見せてやるよ、と息まいているセリフである。パウロは、「霊を受けている」証拠として、「異言」を語ることを、挙げている。(コリ①12:10参照)パウロは実際にキリスト信者たちに「異言」と「異言を解釈する力」を見せていたようである。恍惚状態になりわけのわからない言語でぺらぺらと語る、宇宙人語を話せるという人のようなことをして、「霊を受けている」証拠としていたと思われる。(コリ①2:4、ガラ3:5、コリ②13:12、ロマ15:19、テサ①1:5参照。コリ②4:7と6:7の「神の力」も同じ意味)

 

パウロの言う「書かれている事柄」とは、旧約の条項とは無関係の、パウロが以前コリント信者に宛てて書いた指示のことでしかない。旧約の律法遵守に対して、異議を唱えて、エルサレム教会のヤコブたちと論争し、律法の拘束から解いた人間が、旧約の律法に再び拘束されるような指示を出すはずがない。「書かれていること」とは、聖書とは無関係のパウロ個人の意見に過ぎない。

 

「王として支配する」とは、「天的クラスが神の王国での支配する」という意味ではなく、霊的に円熟した状態に達する、という意味であり、神の王国とは無関係の表現である。

 

WTが「越えてはならない」としている「書かれている事柄」とは、聖書とは無関係の、統治体の個人的な考えでしかないものが多々ある。