●「霊的なこと」に「霊的な言葉」を結び合わせると、どうなるのか?
前の記事では、この言葉を原文から考慮し、NWT訳の詳細について検討した。では、実際問題として、「霊的なこと」に「霊的な言葉」を結び合わせるのと、「霊的な言葉」によって、「霊的な事柄」を判断する、のでは大きな違いがあるのだろうか。
「13その恵みについてもまた我々は、人間的な知恵が教える言葉によって語るのではなく、霊の教える言葉によって語る。霊的な言葉によって霊的な事柄を判断しつつ。14(自然的)生命の人間は神の霊の事柄を受けることが出来ない。それは霊的に判断されるべきものだということが人間にはわからないからである」(田川訳)
「13わたしたちはそれらの事も、人間の知恵に教えられた言葉ではなく、霊に教えられた言葉で話します。わたしたちは霊的なことに霊的な言葉を結び合わせるのです。14しかし、物質の人は神の霊の事柄を受け入れません。それはその人には愚かなことだからです。又彼はそれを知ることができません。それは霊的に調べるべき事柄です」(NWT)
原文の趣旨は、「霊的なことを霊的なことによって批判する、正しく判断する」、のであるから、「霊的なこと」を「霊的な言葉」という基準によって正しく判断するのであり、逆はありえないことであった。
動詞の目的語である「対格の霊」は「霊的なこと」ではなく、補うのであれば「霊的な言葉」であろう。
WTの教えの中で、「霊的なこと」を「霊的な言葉」に結び合わせて解釈するとどうなるかの一例を示す。WT組織内では、「奉仕報告」が、その人の「霊的基準」の指標とされることが多い。「奉仕報告を提出する」ことは、「聖書的なこと」であり、その指示に従うことは、「霊的なこと」である、と説明される。
この命題は、「奉仕報告を提出する」=「霊的なこと」という前提条件が「真」でなければ、「奉仕報告を提出する」=「霊的な言葉」(聖書的なこと)という関係は成立しない。
しかし、聖書には、信者が教会や統治体に、各自が自分の奉仕の記録を報告した、という記述はどこにもない。つまり「霊的な言葉」(聖書的なこと)=「奉仕報告を提出する」という関係は成立しない。
「霊的なこと」を基盤にするのではなく、「聖書の言葉」を基盤にすると「奉仕報告を提出する」という行為は、「偽」であるということになる。
そこで、WTは、命題を成立させるために、詭弁論理学を利用するのであるが、「奉仕報告を提出する」→「霊的な言葉」ではなく、「霊的なこと」→「奉仕報告を提出する」という関係が成立すれば、「霊的なこと」=「奉仕報告を提出すること」=「霊的な言葉」であることが、証明されたように信じ込ませるのである。
しかし、「霊的な言葉」→「奉仕報告を提出する」という命題が、「偽」である以上、その関係は成立しない。
そこでWTは、キリスト教とは無関係の旧約にある数字に関系した記述を類似点として取り上げ、メタファーする。ノアが箱舟の中にいた日数の記録やモーセによる出エジプトの人数の記録と奉仕報告とは、本来何の関係もない。あるいは組織論を展開させ、業の進展を組織が把握し、今後の展開のために必要な情報であるかのように、論点をすり替え、「奉仕報告を提出する」=「霊的なこと」であるように論理を展開する。
しかし、実際には、「奉仕報告の提出」=「霊的な言葉」であることは、何一つ証明されていないのである。
それともKIはテキストを、synkrino=judge withと字義訳しているが、NWT英訳は、KIをも無視して、意図的に、sygkrino=combine,compareに読み変えたのであろうか。
ちなみにRSVはsygkrinoの読みをテキストとして採用している。
RSV=matching spiritual things to spiritual wordsと訳している。
NWT英文は、conbine spiritual [matters] with spiritual [words]である。
KI=judging spiritual things with spiritual things をRGVとmatchingさせて訳したのであろうか。そうであれば、これはWT的には、信仰合同ではないのだろうか。実のところ、NWTはKIを底本にもしていない。他の英訳の都合の良い部分だけをWTの解釈に合うように、「結び合わせて」作成されているのが、NWTの正体なのであろうか。他にもRGVを写しているとしか思えない個所がいくつも出てくる。
何でも一緒に結びつけてしまえば、同じになるというのであれば、信仰合同もみな「霊的なこと」とされるべきであろう。特定の宗教や信仰とは無関係の慣習を、無理矢理、聖句と結び合わせて、「信仰合同」と判断しようとしたり、ローカル・ルールがまことしやかに「霊的な言葉」に基づく、「霊的なこと」であるかのように、判断されるのは、この聖句の誤訳が作用しているのだろうか。それを企図して、NWTは「判断する」(judge)ではなく、「結び合わせる」(coombine)という訳を原文を無視してまで採用したのであろうか。
「神の霊的な事柄(the things)は、霊的に調べる事柄だからです」(NWT)とある。WTに関するthe thingsやmattersを是非とも「霊的に調べて」いただきたいものです。その結果、WTが本当に「神の霊の事柄を受け入れ」ている「霊的な人」(法人)なのか、それとも「受け入れていない」「物質の人」(法人)に過ぎないのか、正しく判断される必要があるだろう。
この段落におけるパウロの真意
この段落は、3章以降に議論や第二書簡の論議のための伏線である。コリントの信者たちに対する批判をパウロが展開するための序論でもある。
パウロは、三章以降、コリントスの信者たちがぶつけてきた批判に対して答えようとしている。パウロの「使徒職」に対する権威にかかわる事柄であり、パウロのキリスト教より先に、パウロとは別のキリスト教に接していたコリントスの信者たちにとっては、当然出て来るような批判である。
しかし、パウロとしては、事実であり、反論のしようもない。そこでパウロは居直って、お前ら、余計な批判なんぞしないで、おとなしくパウロ様の言うことを聞け、と居丈高に宣言するしかないのである。自分こそは神の権威を背負っているのだ、と繰り返し主張する。
「この世の知恵」なんぞに基づいてものを考えて、パウロ様を批判するのはけしからん。私は「完全な者」なのであり、「神の知恵」を語っているのだ」。(2:6,7)
神を認識した人間なんぞこれまで一人もいなかったが、私パウロは今や神の霊を受けて、神を認識したのだ。(2:11‐12)
わたしがあなた方に対して語っているのは「神の霊の言葉」なのだ!私は「霊の人」なのだから、一切を正しく判断できるが、あなた方は正しく判断できないのだ。そして「霊の人」のことを他の人間(コリントスの信者たちも)批判することなどできない。(2:15)
「神の叡智を知って神を教えることのできる人間などいない」(2:16)
この言葉をパウロは、神の叡智に対して人間は敬虔に頭を下げなさい、と一般論として言っているわけではない。この使徒パウロ様が、「キリストの叡智」を持っているのだ!だからあなた方は、このパウロ様に対して、一切批判がましい事を言ったりしてはいけないのであって、おとなしく私の言葉を神の言葉と思い、謙虚に受け入れなさい……。
これが、この段落におけるパウロの主張の骨子である。
ある意味、パウロの主張は、統治体の主張と非常に近いものがある。その意味では、統治体はパウロの同じように「霊の人」である。(皮肉)
パウロは1‐3章で、大上段から、コリント教会の分派争いを徹底的に批判している
コリントスの信者たちからすれば、当事者に確かめることなく、無責任な告げ口を根拠にして、文句を言われているに過ぎない。パウロ自身もクロエーの家の者たちによる報告が、どこまでが信頼できる情報なのか、自分でも自信がなくなってしまい、手紙の最後の方では同じ件を「そういう噂を聞いている」という言い方で誤魔化している。(11:18参照)
後になって、その情報が噂でしかないかもしれないと事実かどうか自信がなくなってしまったのならば、もう少し、罵詈雑言をコリントスの信者たちに詫びるのが筋であろう。
パウロと同じように「霊の人」であるWTの統治体の人々も同様であろう。後から教理を変更するのであれば、以前の教理により苦しめた人々や、不条理な教理によって排斥された信者たちに、詫びるのが筋であろう。
「主にあって誇る」ということを大上段に、パウロ自身は自分は、あらゆることを自慢しまくるくせに、他人がパウロのことを少しでも批判すると、自分のことを誇ってはならない、とエレミヤ9:22,23の句を利用して批判するのである。
実際には、パウロほど自分のことを自慢している人は、新約著者にはいない。自分は誇らない、と言い訳しながら、やたらと誇っている。(コリ②11:18‐12:10、コリ②10:8、ガラ1:14‐15、コリ②10:18,12:12,17、フィリ3:3‐6他多数)「誇る」という語を使っていない個所でも、やたらと目立つ。
その点でも、統治体とよく似ている。