●「聖書」は本当に天的クラスのクリスチャンに宛てて書かれているのだろうか?

 

  WTの解釈では、「聖書」とは、聖霊によって油注がれた144,000人に宛てて書かれたものであり、大群衆の地的クラスは、彼らを支持し、支えることにより、キリストの贖いの益に預かれると説く。果たして、本当に聖書はWTの説を支持しているのだろうか。

  その根拠として、よく取り上げられる聖句に、ガラテア6:16やパウロ書簡の宛書きがある。

  ガラテア6:16の「この行動の基準にしたがって整然と歩む……そうです、神のイスラエル」(NWT)に関しては、以前の記事で取り上げた。「神のイスラエル」とは「ユダヤ人」のことを指しているのであり、「キリスト教徒」のことではないことは、明らかであり、単なる並列のkaiを同格あるいは説明のkaiとは解釈できないことを確認した。

  また文脈からして、「割礼」も「無割礼」も重要なのではない、と言っている以上、「この行動の基準にしたがって整然と歩むすべての人」とは、ユダヤ人であるか異邦人であるかは問われておらず、すべてのキリスト信者が含まれているのは明らかである。

  つまり、ガラテア6:16では、天的なクラスと地的なクラスと神にとって立場の異なる二種類のクリスチャンが存在するようなことは何も述べていない、ということであった。

 

  ではパウロ書簡のあて先は、二種類のクリスチャンがおり、聖書が天的なクラスにだけ宛てて書かれた手紙であることを支持しているのだろうか。

今回は、WTがよく取り上げる第一コリント1:2を考慮して見る。

「コリントスにある神の教会と、キリスト・イエスにある聖化された人々招かれた聖者たちへ、またあらゆる場所で我らの主イエス・キリストの名を呼ぶすべての人々へ。イエス・キリストは我らの主であるとともに、彼らの主でもある」(田川訳)

「コリントにある神の会衆、キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ、聖なる者となるために召されたあなた方ならびに、いたるところでわたしたちの主イエス・キリスト、すなわちその主でありわたしたちの主である方の名を呼び求めているすべての人たちへ」NWT)

この文の構成を解りやするために、原文に置かれている順番に句ごとに分けてみる。

  1. コリントスにある神の教会……A

  2. キリスト・イエスにある聖化された人々=招かれた聖者たち……B

  3. またあらゆる場所で我らの主イエス・キリストの名を呼ぶすべての人々へ……C

  4. イエス・キリストは我らの主であると共に、彼らの主でもある……D

  大きく分けて、この文は、4つの句によって構成されている。Dの句は、説明のために付け加えられたものであることが分かる。

  NWTは、Cの句を二つに分解し、「ならびに、いたるところでわたしたちの主」で一旦切り、Dを挿入し、再び「方の名を呼び求めているすべての人たちへ」と繋げている。Dの句が、パウロが後でつけ足しに言った言葉であることが伝わらない。それだけでなく、原文の順番を崩すことにより、意味的にも重要な誤読を誘引する危険を秘めている。

 

  田川訳「また」、NWT「ならびに」と訳されている原文の語は、synという接続詞であり、A,B,syn Cに補足として説明文のDがくっついている、という構文である。英語で言えば、A,B and Cと言うべきところを、A,B with Cと表現した文である。つまり、ABCを並列に並べて列挙して言っている文である。

  これをWTは、「ならびに、C」との訳すことにより、CとA,Bの二つに切り離している。つまり、AとBを同格に解釈し、「コリントにある神の会衆」と「キリストと結ばれて神聖なものとされ、聖なる者となるために召されたあなた方」とは、「霊によって油注がれた者たち」「神と新しい契約によって結ばれているものたち」である144,000人を指している。そしてCが彼らのおこぼれにあずかる「その主でありわたしたち(144,000人)の主である方の名を呼び求めているすべての人」つまり「地的クラスのほかの羊」を指していると読ませようとしているのである。

 

これから、順番に語句の解説に入る。(田川訳ーNWTの順)

  1. コリントスにある神の教会―コリントにある神の会衆

    「教会」(ekklesia)が「会衆」と訳されているだけで、特に問題になるところはない。

     

  2. キリスト・イエスにある聖化された人々―キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ

     「にある」をNWTは「と結ばれている」と訳している。原文は前置詞のen=inである。この語に「結ぶ」という意味はない。KIから原文を確認すればすぐわかることであるが、NWTが「と結ばれている」と訳している箇所はほとんどが前置詞のenであり、「結ぶ」という動詞が使われているわけではない。直訳は「中に」であるから、「キリストを信奉している」という趣旨であるが、それを「結ばれている」とするのは「新しい契約によって神と結ばれている」という趣旨を読み込ませたいからであろう。当然原文にはそのような意味はなく、解釈である。解釈を原文に読み込んでおきながら、原文はそのように言っているというのは、手前味噌どころか、本末転倒の解釈であろう。原文を正しく読むことから、解釈が生れるのに、解釈を読み込んでおきながらそれが原文だと主張するのは、どのような神経なのだろうか。どうしてもenを「結ばれている」と読みたいのであれば、1で「コリントにある」の「にある」もenである。なぜここは「コリントと結ばれている会衆」とは訳さないのだろうか。

     「聖化された人々」「神聖なもの」の原文は「聖なる」(hagios)という形容詞の与格を、名詞的に「~の人々」の意味で使っている。この形容詞は基本的には神に属する語であり、神以外に関して使われる場合には、神に関連して「聖化されている」という趣旨であり、自らが「聖なる存在となっている」という趣旨ではない。それをNWTは自らが神聖な存在であるかのように「神聖なもの」とし、同格として扱っている次の句でも「聖なる者」と訳している。この「聖者たち」とは、現代で言えば「クリスチャン」ということである。当時はまだその言い方が普及していなかったので、パウロは「聖者たち」と表現しているだけである。

     

  3. またあらゆる場所で我らの主イエスキリストの名を呼ぶすべての人々へ

    ならびに、いたるところでわたしたちの主イエスキリスト、……方の名を呼び求めているすべての人たちへ

     NWTは、原文では文法的に、ABCを三つ並列に繋いでいる文を、意味的に二つを繋いでいるかのように読ませるために、AとBの繋ぎは、ただのコンマで同格としてる。さらに、synを単に「ならびに」と訳すだけでなく、前後をコンマで区切り、前文とは別の趣旨のものを並べていると読ませようとしているのである。

 この文を、聖職者階級と平信徒の区別を教理として持つ組織には、A=Bそれに+Cという趣旨に解釈するのは、組織のヒエラルキーを維持するためには重要な解釈となる。

 しかし、これは、文法的には、A,B,Cをすべて並列に置いているのであり、「神の教会」と「聖化された人々」だけでなく「キリストの名を呼ぶすべての人々」にも同列で呼びかけている、という趣旨である。つまり、単にコリントス教会にあてられただけでなく、世の中すべてのクリスチャンに読んでもらうことを意図した手紙であるということになる。

 epikaleo「呼ぶ」の原文は、kaleo「呼ぶ」に接頭語epi「上」を付けたもの。霊的な存在に対して「呼びかける」のであるから、接頭語の「上」が付いているだけ。

 

 

 

 

 

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()   パウロは現にクリスチャンたちは信仰においてキリストを見ているのだから、「キリストの名を呼ぶ」と言っている。信仰を見失ったり、まだキリストを知らないので、これから「キリストを呼び求める」ことになる人という趣旨で「呼ぶ」と言っているのではない。この語に「探す」という意味はない。

実質的には、礼拝などで信者の集まりで、声をそろえてキリストの名を呼ぶ行為を念頭に置いている表現である。

 

NWT「[]である方の名を呼び求めている」。KIはepikaloumenois=calling-upon。英訳も同じくcalling upon。和訳が「呼び求めている」と「現在見つかっていないもの等を呼ぶ」つまり「探し求める」の趣旨で訳している。単に「呼ぶ」、「呼んでいる」あるいは「呼びかける」で良い。

 

 4. イエス・キリストは我らの主であると共に、彼らの主でもある

   すなわちその主でありわたしたちの主である(方の名を呼び求めている)

 直訳は「我らのだけでなく、彼らの」。つまりパウロは直前で「我らの主」と言ったのが自分で気になって、イエス・キリストは「我ら」(コリントスの信者とパウロ一行)だけの「主」ではなく、「彼ら」(全世界のクリスチャン)の「主」でもある、と補ったものである。

 NWTは、原文の順番を崩し、Cの間にDを挿入句のように入れ、Dが「名」に掛かる句であるかのように訳している。

 田川訳「彼らの主」、NWT「その主」と訳している原文は、auto(_)nという男性複数属格の代名詞。「主」を補って訳している。「わたしたちの[]である方」も、原文は、he(_)mo(_)nという一人称複数属格の代名詞。「主」を補って訳している。

 そして、NWTはこの句全体を「名」にかけて訳している。原文は「彼らの主」と「我々の主」とkaiで並列につないでいる。どちらかと言うと、「その主」(原文「彼らの主」)が強調されている文である。NWTが「彼らの主」ではなく「その主」と訳したことにより、「その主」が副次的な位置に置かれ、むしろ原文とは逆に「わたしたちの主」が強調されることとなっている。

 原文の代名詞が、男性形であるにもかかわらず、日本語では「その」という指示代名詞を用いて、中性表現にしているのは、「わたしたち」と「その」とは同等ではない。「わたしたち」天的クラスを通して、「その者たち」は「わたしたちの主」とおなじ「主」を呼び求めることが出来る、と読ませたいのだろう。「その」とはあくまでも「わたしたちの」格下であり、「天的クラスを支持する存在」という趣旨で、人間扱いの「彼ら」ではなく、物扱いの「その」と訳したのであろう。

 しかし、NWTの底本であるKIはautou=of-themとして、男性形であることを示している。英訳もtheir Lord and oursとしているのだから、「彼らの」で良いはずである。それを、英語のthemだけからは、男性形か女性形か中性形かの区別はできないことを利用して、和訳で「その」と訳したのだろう。

 

  これを人称代名詞ではなく、指示代名詞で訳しているのは新世界訳の中でも「日本語」だけなのであろうか。アプリで各国語を開けば解るのであろうが、自分で区別ができる英独仏西語では男性形であった。

  翻訳に携わったJWは、西洋至上主義の自虐的日本人と同じように、天的クラス至上主義の自虐嗜好の自己否定人間なのであろうか。英訳他では、「彼らの(主)」と「我々の(主)」は対等の並列に繋がれているのに、和訳では、わざわざ「彼らの(主)」を卑下して、「その(主)」としているのだ。

 

  まるで日本語のNWTを読むJWは、神からは決して「天的クラス」とは同等に評価されることのない人間以下の存在で満足することを義務付けるかのような表現である。

  真の自尊心は、自己肯定感からしか生まれない。自己否定感から生れる自尊心は、歪んで肥大したプライドでしかない。自分を自分で正直に評価することはできない。ここの和訳には、「自己犠牲」ではなく「自己否定」を「善」とする伝統的日本人の宗教観が織り込まれているように思われる。

  「自己犠牲」とは、「自分の持っているものの中から自分の意志で喜んで与えること」という意味であり、そこに見返りを求める打算的な精神は何もない、という趣旨である。「自己否定」とは、「自分の人格を否定して、他の人の意志に合わせて行動すること」であり、自分の存在意義を否定する、という趣旨である。

 

        共観福音書がイエスの言葉としている「自分を捨て、わたしのあとに従いなさい。魂を救おうと思う者はそれを失う」とは、「自己犠牲」の勧めであり、「自己否定」の勧めではない、と思われる。

 

その根拠と詳細は、また別の機会に。