WTの「排斥」には聖書的根拠があるのか。

 

  WTには「排斥」処置なるものがあり、聖書的な取り決めであると主張する。

  しかし、実態は次のようなものである。(長老の任命が巡回監督の専任事項となる以前の手順であり、現在もこの手順で進められているかは定かではない。)

 

  会衆内で重大な悪行がなされたことが、長老団に提出された場合、会衆の奉仕委員は審理委員会を招集し問題について討議する。当事者を招き、聴聞会を開き、会衆の調整者、書記、奉仕監督で構成される奉仕委員会によって、「排斥」の決定がなされた場合、書記は、協会に審理過程を詳細に記した書類を送らなければならない。承認されると「排斥」の決定通知が支部から届き、当事者に伝え、上訴がなければ、一週間後会衆に発表する。資格削除の通知等も同様である。

 

  当然、信者を排斥に処する時には、正当な聖書的根拠が必要である。それで、書記は、排斥の根拠とされる聖句を用いて、作文をし、報告書を作成する。どのような文章を作成するかは、書記の感じ方に左右されることが多く、事実通りであるとは限らない。事実誤認を指摘したら、怒り出す書記がいて、何とか排斥処置に回避するように、取り計らうのに苦労した覚えがあるが、報告書は本人の承諾も取らずに、奉仕委員三人の署名だけで、協会に送られる。

  警察の調書であっても、取り調べを受けた本人の署名が必要である。軽微な交通違反の場合でも同様である。法的に証拠能力を持つためには、最低限双方の同意の「印」である、署名が必要なのである。

 

  しかし、WTでは、審理される側の署名は必要ではなく、審理する側の署名だけで、審理を受けた側の「同意」なしで、審理委員会による一方的な通知だけが、協会で審査されることになる。「審理問題」に関する書類は、二通作成され、一通は、会衆のコンフィデンシャル・ファイルに保管される。組織の指示により、極秘扱いの最重要文書とされているが、実は、「双方の合意」のない、法的に証拠能力の全くない、一方的な作文に過ぎないのである。

  長老団の決定を神からのものと受け入れるためには、「神の信」と「長老の信」の両方が必要とされる。客観的証拠のない内輪にしか通用しない組織上の取り決めでしかない。

  それにもかかわらず、審理委員会の決定を受け入れるためには、神(聖霊)によって任命された長老が、神のご意思通りに、聖霊によって導かれて、決定した事柄が、審理委員会の決定であることを信じなければならないのである。

  つまり、WTは、神に対する信仰だけでなく、長老(団)に対する信仰を要求していることになる。神以外のいかなるものに対しても信仰を示すことは「偶像崇拝」とみなしているにもかかわらず、WTは、WT組織=統治体に対する信仰だけでなく、長老団=長老に対する信仰も要求しているのである。「統治体」は、自らが偶像となっているだけでなく、偶像崇拝推進者でもあることになる。

 

  審理委員会そのものは、間違いを犯した者を「悔い改め」に導くために、招集されるものであるが、必ず巡回監督に知らせる必要がある。公式には、会衆の長老団の裁量権ということになっているが、巡回を無視して、「排斥」の処置などを決定してしまうなら、長老団は巡回訪問で面倒なことになる場合が多い。審理委員会は、「悔い改め」を判断する場でもあるのだが、権威主義が大好きなオレオレ長老様にとっては、大好きな権威を振るえる絶好の機会とみなし、生き生きする不心得者もいるようである。

 

  排斥の根拠として、適用される聖書の個所はいくつかある。第一コリント6:9‐10もよく利用されるが、「霊の実」と対比されている「肉の業」(ガラ5:20‐21)もその一つである。

 

  「肉の業」のリストにNWTが「みだらな行ない」と訳したギリシャ語aselgeiaがある。その前に出てくる「汚れ」(akatharsia)との違いをWT06/7/15「読質」で、「みだらな行ない」に「性的不品行」だけでなく、「臆面もなく権威を侮る厚顔無恥な態度を反映する行為」を含め、排斥の根拠となり得ると、解釈変更した。

  しかし、その言語解釈は、誤った解釈によるものである。WTのaselgeiaに関する解釈は、WT83/6/15, 81/5/15, 80/2/15, 73/12/15をみると、混乱ぶりがよく理解できる。記事間の矛盾だけでなく、同じ記事の中でさえ、矛盾している箇所がある

 

  この解釈変更は、組織批判に対する封じ込めを狙った脅しであろうと思う。日本では、もともとお上に対して従順な国民性の故か、私の周囲では、特に問題となることもなく、看過されていた。2013年度版の英文新世界訳改訂版の出版された時、brazen condct「厚顔無恥の行ない」と訳されたことを機に、英語圏でかなり問題視された。 (この語の詳しい解説はかつてどなたかがしておられたと思いますので割愛します。)

 

  あまり取り上げられることはないが、ガラ5:20の「口論」(constentions)もdissenssionsに変えられている。この改竄は、「厚顔無恥の振る舞い」(brazen conducts)と同様にひどい改竄である。

  NWTが「口論」と訳しているギリシャ語の原文は、eritheiaという語である。

  田川訳は「利己心」と訳している。

 

  この語は「党派心」(口語訳)などとも訳されているが、それは、古代から宗教改革を経て、近代まで聖書学者たちはこの語の正確な意味を知らなかったからである。伝統的に、「争いを好む」と訳されて来たのは、ヴルガータが、ex contentione(争い的な)と訳したことによる。それがルターに引き継がれ、zenckishとし、現代版ルターstreitsuchtig、英語ジュネーブ訳・欽定訳は、ヴルガータのままcontentiousとし、継承された。

  英語訳では、ティンダルは、rebellious(反抗的な)としたが、これは政治的な犯行を極度に嫌うティンダルの好みで、ヴルガータ、ルターの意味をさらに強調したものである。

 

  NWTの「口論」も、ルターから伝統「争いを好む」を言い換えたもの。同じ語を、コリ②12:20では「口論」と訳しているが、ローマ2:8では「争いを好み」と訳している。

  RSVはガラティア5:20はselfishnessとしているが、ローマ2:8ではfactiousとしている。口語訳は、RSVのfuctiousをガラティアにも適用し、「党派心」としたのだろう。しかし、「分派」が大嫌いなパウロはコリ①1:10以下、その他で「分派」について扱っているが、「分派」扱っている個所のいずれにもeritheiaという語は出て来ない。

 

  ヴルガータ以来の誤訳は、この語を、eris(争い)から派生した語と解したことによるのだが、この語は、erithos(賃金労働者)という語から派生した語である。この語から動詞が派生し、eritheoumai(賃金をもらって働く)となり、抽象名詞erithea(賃金労働)という語が派生した。erithosは、良く使われるが、動詞、抽象名詞、形容詞の用例はほとんどないそうである。

 

  eritheaがなぜ「賃金労働」から「利己心」となったか。

  アリストテレスのPoliticaの中で、選挙に関する不正を指摘する箇所で悪口として、賄賂その他私腹を肥やすために国政を利用する行為を指して、この語が用いられているそうだ。この用例からすると、おそらく、賃金労働者は公共のためではなく、自分個人の利益にためだけに働く、という悪口がまずあった。

  その悪口の単語が、賃金労働に関係のないところにも用いられるようになり、「私腹を肥やすこと」という趣旨で、一般化されたのだろう。

 

  もともと国政に携わっていた金持連中が、賃金労働者に対する偏見から作りだした言語のようである。国政を歪めるのはいつの時代も、下層の賃金労働者たちではなく、自らは働かずに税金でのうのうと暮らし、賄賂によって国政を曲げる為政者の金持の方である。

 

  パウロ書簡のeritheaは、すべて悪徳の表、ないしそれに類似した言い方の中に出てくる。(ローマ2:8、コリ②12:20、フィリ1:17,2:3、ガラ5:20)パウロの用法は単純な悪口の意味で用いているのであり、元となったerithos(賃金労働者)とは無関係である。おそらく、アリストテレスと同じ意味で、用いているのだろう。従って田川訳は「利己心」と訳したそうだが、「私腹を肥やす」あるいは「賄賂」の方が、良いのかもしれない、という。

 

  バウアーのこの辞書の項で、eritheiaeritheoumaiの動詞に由来するというのは間違い。どちらもerithosに由来するし、動詞を「自分の利益のために働く」と解するのは、間違い。本来の意味は単に「賃金労働者」である。

  口語訳「党派心」。新共同訳「利己心」。

 

  NWT「口論」。KI=contentions。英訳も同じ。しかし、2013版NWT英訳dissensions(同じ団体内の意見の相違、紛争)としている。

  勉強不足どころか、完全な改竄訳。語義のはっきりしなかった言語を、WT組織に都合の良い訳に仕立てている。WTは、組織内で聖書解釈や組織の指示に異議を申し立てる人間を「紛争」を起こす者として、排斥できる根拠とすることができることになっている。

 

  5:19原文のaselgeiaを「みだらな行ない」(loose conduct)からbrazen conduct(恥知らずな行ない)に訳し、組織批判を封じ込めようとしているのと同じ改竄である。

 

  信者の寄付でのうのうと生活しておきながら、信者の当然の批判や意見を、「紛争」「恥知らずの行ない」として「肉の業」に加え、字義訳聖書の名のもとに排斥の根拠にしようとする意図は、悪辣である。

  金持により組織運営を曲げて、「私腹を肥やす」ために信者を利用する行為を原文のギリシャ語では、eritheiaと言っている。統治体は、アメリカ大統領の娘婿とニーヨークの不動産取引をしている。取り方によっては政治家に対する「賄賂」である。ロシア大統領による信者に対する表彰を信者に対する宣伝に利用している。取り方によっては「厚顔無恥の振る舞い」である。

 

  自らが提出したaselgeiaの解釈や、eritheiaの原義からすれば、排斥に価するのは、むしろ彼らの方であろう。