キリスト信者は「約束された霊を自分の信仰によって受ける」ことができるのか?

 

  JWは、ご自分に信仰を働かせる者に対して、求める者すべての人に聖霊をあたえてくださる、と信じている。特に天的クラスの人々は、特別の仕方で「霊」を受けている、と言っている。もちろんこの「信仰」とはWT聖書解釈に規定される「信仰」に限定されている。その根拠には、イエスの言葉以外にも、パウロの言葉も取り上げることもある。その一つに、ガラテア314がある。

 

「それはアブラハムの祝福がキリスト・イエスにあって異邦人へと及ぶためである。我々が信によって霊の約束を受け取るためなのである」。(田川訳)

 

(その目的は、アブラハムの祝福がイエス・キリストによって諸国民に及び、こうしてわたしたちが、約束された霊自分の信仰によって受けるためです)。(NWT)

 

  神がアブラハム契約に基づいて、1Cのクリスチャンをはじめとし、144000人に聖霊を注ぐことを保証する聖句の一つとして取り上げる聖句である。果たして、本当にパウロは、信仰を抱く特別な人に、聖霊を注ぐという意味で、こう言ったのだろうか。

 

  まず「我々が信によって」(自分の信仰によって)と訳されている句に関してであるが、この言葉は、文脈を見るとわかるように、3:11「義人は信から生きる」(義人は信仰のゆえに生きる)というハバクク2:4の引用を下敷きにしている。

  ハバクク2:4のヘブライ語原文は「義人はその信によって生きる」、「義人はその信仰によって生きる」(関根訳)とあり、「信」(信仰)に「その」という代名詞が付いている。「その義人自身の信(信仰)によって」という意味である。

  70人訳は「私の信」となっている。この言葉は、神が語った言葉という体裁で書かれているので、70人訳の「私の信」とは「神の信」、「神の持つ信実さ」「神が偽ることはない」という意味である。つまり70人訳のこの句が、「神の信仰」、神が神以外の誰かに対して抱いている「信仰」、という意味ではあり得ない。70人訳のこの句の意味は、義人は「神の持つ特質である信実さ、神が偽ることが出来ないということ」を信頼して、生きる、という趣旨である。

 

  もしパウロが、70人訳ではなく、ヘブライ語原文を見て、意図的に「その」という代名詞を削ったのであれば、単に「信」となる。するとこの「信」は神と人間の両側からの「信」という意味を持ち得る。つまり、神が人間に対して信実の態度をとり続けたということと、人間が神の信に応え応じて神を信頼するということの両方の意味を持たせているのかもしれない。

 

  しかし、この前後でパウロは旧約を70人訳から引用しているから、ここも70人訳の意味であろう。

 

  ただし、ガラ3:14の「信によって」(dia te(_)s pisteo(_)sは、定冠詞が付いており、パウロのこれまでの「信」という語の言葉遣いからすれば、我々が霊の約束を受け取ることができるのは、神が我々に対して信頼を失わずに、その子を十字架にかけて我らを救ってくれた、その「信」のおかげで、ということであろう。前置詞の「によって」(dia=through)とは、そのような意味である。

  

口語訳「約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるため」。

新共同訳「約束された霊を信仰によって受けるため」。

NWTも、「こうして私たちが、約束された霊を自分の信仰によって受けるためです」とあり、口語訳・新共同訳等と同じ趣旨に解している。

 

    しかしながら「我々の信仰」なるものを、神が業績として評価して、御褒美として神が霊を与えてくださる、という意味では、ないようである。

 

   繰り返すが、原文から見ると、パウロが言っているのは、キリスト信者が神に対する強い信仰を抱き、より強い確信を抱くならば、JW的に表現すると、より霊性が高い人が、信仰によって霊を注がれる存在となる、という話ではない。少なくても「自分の」という形容句を付けているのは、原文を無視した統治体崇拝を前提とした表現であるように思われる。

  そもそも人間が信仰の業績によって、神からの信頼を獲得できるなどという話は、人間を神より上に置く行為であり、神に従うのではなく、神を従わせようとする人間の発想である。

 

  またNWTは、田川訳「霊の約束」を「約束された霊」と訳している。「約束」よりも「霊」に重きが置かれている。神が我々に与えると約束したもの、我々が受けることができるものとは「約束」なのであろうか。それとも「霊」なのであろうか。

 

  原文を見ると、「霊の約束」(約束された霊)(te(_)n epaggelian tou pneumatosとある。原文は、定冠詞付き対格の「約束」と定冠詞付き属格の「霊」。属格の「霊」は同格的属格と解し、佐竹氏は「霊という約束」という趣旨に解している。確かにそういう意味だろうと田川先生も同意している。

  KIも原文を、the promise of-the spiritと訳している。しかし、英訳が、the promised spiritと、定冠詞付き「約束」を「霊」に掛かる形容詞句と解して訳している。

  しかし、「受ける」という動詞の目的語となっているのは、対格の「約束」であり、属格の「霊」は「約束」に掛かる形容詞句である。「霊の約束」であり「約束された霊」ではない。「霊という約束」であるとしても「約束された霊」ではない。同格的属格であるなら、「霊」を目的語であるかのように訳して良いわけではない。

 

   NWTによると、パウロたちが「我々の」という共通の信仰ではなく、「自分の」という個人の信仰によって神から受けることが出来るものがあるという。しかしながら受けたものとは、「約束された霊」ではなく、「霊の約束」(霊という約束)だけのようである。

   現代に実際に「霊によって油注がれている」、あるいは「霊の賜物を受けている」と自称するWTの人々は、「自分の信仰によって」、一体どんな「約束」を受けたのであろうか。一度お聞きしてみたいものである。