●「キリストの信にあって生きる」とは?     (一部追記)

 

  「キリストの信にあって生きる」という意味と同じ趣旨でガラテア2:20には、「神の子の信において生きる」という表現が出てくる。

 

「……私が今肉において生きているところのものは、信において、すなわち私を愛しわたしのためにみずからを引き渡してくださった神の子の信において、生きているのである」。(田川訳)

 

「……実際、私は自分が肉にあって今生きているこの命を、神のみ子に対する信仰によって生きているのです。[み子]はわたしを愛し、わたしのためにご自身を渡してくださったのです」。(NWT)

 

  一読して解ることは、NWTも直訳的で解り難い訳という評判であるが、田川訳の方がさらに解り難い文となっていることである。しかし、これはパウロの原文が解りにくく、ごちゃごちゃしているのである。

 

  JWは、よく、真理は子どもにもわかるような明解なものであり、全人類のための音信であるから、誰にでも理解できるものでなければならない、と解く。翻訳本が原文と同じことを言っていることを信じて疑わないだけで、原典講読をしたことのない人が語る、酒席話のようなものである。

(私も含めてほとんどの人は翻訳でしか原文を理解できず、それだけ翻訳者の責任は重大である。翻訳は違う言語であるから、原文とまったく同じ意味にはなり得ないのが現実ではあるが、原文をより正確に理解するためには、いろいろな訳を比較しながら確かめる必要があるのは当然である。それを、自分たちが使う聖書だけが原文に忠実であり、他の訳は偽物であるかのように主張するのは、いかがなものか。根拠の乏しい解釈をしておきながら、他の解釈をサタンの影響を受けたものと断じるのは許しがたい暴挙であろう。現役時代、原文のギリシャ語から聖書を理解しようとしている、事を知った、長老団から、第二会場に呼ばれて、ありがたいお説教を頂き、反論を申し上げたことがありまして、つい興奮してしまいました。(W)追記)

パウロの文には、文として完成していないものや、文法的に整合性の取れない表現がいくつもあり、原文自体に解り難い箇所がいくつも存在するのである。

 

   「信において、……神の子の信において」(田川訳)「神のみ子に対する信仰によって」(NWT)と訳している箇所の原文は、en pistei zo te tou huiou tou theou=in faith I-am-living to-the oneof-the son of-the god。(KIの字義訳)「信において」「生きている」「(人)に対して」「神の子の」という語順であるが、tetouという冠詞が続けて出てくる。

 

      ここは、一旦「信において」(enpitisの与格)と言っておいて、それをもう一度「神の子の信において」(与格の定冠詞te+定冠詞付き「子」の属格tou huiou+定冠詞付き「神」の属格tou theos)と説明的に言い直している。与格の定冠詞を「信」の代わりに、あるいは「信」を省略して述べている。これが、最初の定冠詞teである。続いて出てくる冠詞のtouは、属格の「子」(huiou)についている属格の冠詞である。この言い方からしても、この場合の「信」は信者が持つ「信仰」の意味ではなく、神がキリストを通して示してくれた「信実」の意味である。

 

  つまりこの文は、神(の子)が、みずからを十字架につけるために引き渡すほどに人間たちに対して信実を貫いて下さった、そのおかげで我々は生きているのである、という趣旨である。「神の子に対する信仰」つまり、「キリスト信仰によって」生きている、という意味ではない。

 

  NWT「神のみ子に対する信仰によって」。与格の定冠詞を「対する」と訳し、前置詞のenを「によって」と訳している。KIはte=to-the-(one)と「人」=キリストを省略したものとしている。しかし、定冠詞のte(_)は女性形であり、「信」の省略、あるいは代わりである。抽象名詞は女性形で受けるが、「キリスト」であるなら男性形のto(_)で受けるのでなければならない。teは、対格ではなく与格の冠詞である。基本的に与格は補語に対応するものであるから、「~の、~である」と訳せても、与格を対格の意味で「に対する」ということはできない。「信じる」という動詞が省略されている、と解しているのであれば、与格支配になるが、その場合の定冠詞は、文法的には男性形toでなければならない。つまり、「み子に対する信仰」と訳しているのは意図的な改竄である。

 

その結果、NWT英訳は、I live by the faith that is toward the Son of Godと訳す。

 

  en=inbyと訳しているのも、単に「信仰のそばで」=「信仰に沿って」という意味だけはなく、「信仰」(faith)を規定する存在を意識して、行為者を示す前置詞の意味を絡めてbyを使ったのだろうか。

  そうであれば、WT=統治体の定める信仰によって、という趣旨と言っていることになる。単にI live in faith…であれば、自分の考えるキリストに対する「信仰」によって生きる、inであるからより献身的にという趣旨にはなるが、神の子に対する厳密な信仰を規定してくれる第三者的存在などは、必要がなくなってしまう。英語のinbyも日本語ではどちらも「よって」と訳せることを利用して、日本語でも二重の意味を持たせたのだろうか。

 

  パウロがクリスチャンに「キリストの信において生きる」(田川訳)「キリストに対する信仰のよって生きる」(NWT)ように勧めたのは、神がみ子を贖いとして差し出すほどに、人間を信頼して下さったのだから、わたしたちもその神の信頼に応えるような生き方をしよう、と勧めていることになる。

 

  このパウロの言葉には、特定の組織を通して出なければ、キリスト教の真理は理解できない、とか、特定の人の見解を受け入れなければ、あるいは特定の業に携わっていなければ、神に受け入れられない、という思想は微塵もない。2:19で言っているように、神に対して生きるためには、律法に対しては死んでいなければならない、というのがパウロの思想であったと思われる。

 

  つまり「キリストの信にあって生きる」とは、特定の「キリストの信」(キリスト教)の型に従って生きる、という意味ではなく、神が人間を信頼して、キリストを遣わして下さったように、キリスト信者も神を信頼に応えて、神を信頼して生きる、ということであろう。

 

   そうであれば、パウロは、自分の考えるキリスト教こそ真の福音であると考えてはいたが、特定のキリスト教の型をキリスト信者に要求するような派閥的権威主義的キリスト教を構築しようとしていたのではないとことになる。

 

   むしろそのような派閥的権威主義的キリスト教を席巻させようとしていたのは、使徒たち集団やイエスの兄弟ヤコブたちによるエルサレム教会であろう。彼らは、イエスの直弟子、使徒、というイエスにより選ばれた特別な存在と、キリスト信者からはみなされてはいた。しかし、イエス自身は彼らが主張するようなユダヤ主義的思想に対しては、反対していたことを示す証拠が聖書に数多く存在する。