パウロは、テサロニケの信者に対して、神に教えられた者について論じている。
第一テサロニケ4:9
「兄弟愛については、あなた方に書く必要はない。何故ならあなた方自身が直接神に教えられる者であって、互いに愛し合うようになっているからである」(田川訳)
「しかしながら、兄弟愛に関しては、あなた方に書き送るまでもありません。あなた方は、互いに愛し合うべきことを神から教えられているからです」(NWT)
どちらも、大差ないように思うかもしれない。
しかし、ここは単に「神から教えられている」と言っているのではない。原文は「あなた方は、theosdidoktoiである」という文である。この語(theosdidoktoi)は、「神」(theos)と「教わる者」(didoktoi)を合成した語で、「神から教えられた人間」「神から教わる資質を持った人間」という趣旨である。それで強調の意味を込めて田川訳は「直接」という語を入れている。パウロは自分から教わる者は神から直接教わったと同様であるという認識を持っていたのである。
また「互いに愛し合うよう」という句は、単に「教えられる」の目的語となっているのではなく、結果の意味の目的格である。つまり、あなた方は、theosdidaktoiであるから、その結果おのずと互いに愛し合うようになっている、という趣旨である。
NWTの底本となっているKIは、theodidoktoi=taught-by-Godと字義訳しているが、英訳は、この文をfor YOU yourselves are taught by Godとyourselvesを付け、強調して訳している。しかし和訳は、YOU yourselvesを単に「あなた方は」と訳し、「神から教えられている」から(for)です、と続けている。訳者は、このギリシャ語が強調された語であることを気が付かなかったのか、英訳のyourselvesを特に強調することもなく訳している。あえて強調を外したのであれば、パウロの持つ傲慢さを消したいと思ったのだろうか。原文に忠実に訳すのであれば、せめて「者」を入れて「神から教えられている者」だからである、とすべきであろう。
いずれにしても、「直接神に教えられる者」あるいは「神から教えられている」者とは、兄弟愛を実践している人を指している。どんな組織に属していても、あるいは属していなくても、兄弟愛の理念や美辞麗句、ましてや詭弁を弄して兄弟愛を実践するのではなく、徹底的に控えるように行動する人間は、「直接神から教えられている者」では決してないであろう。
教えている者はもちろんであるが、教えられているだけの者であっても、おのずと兄弟愛を示さず、無批判に兄弟愛を示すことを控える、うのみの塔信者も同様であろう。