「完全さ」と「不完全さ」は両立する、とWTは教える。

*** 洞‐1 1210ページ 神聖 ***
清い行状が不可欠  エホバのみ前でそうした聖なる立場を得ている人たちは,神の霊の助けを得て,神とキリストの神聖の域に達するよう奮闘します。(テサ一 3:12,13)それには神の真理の言葉を研究し,それを自分の生活に適用しなければなりません。(ペテ一 1:22)また,エホバからの懲らしめにこたえ応じなければなりません。(ヘブ 12:9‐11)人はもし本当に聖なる者であるなら,あくまでも神聖さや清さや道徳的廉直の道を歩むはずです。クリスチャンは自分の体を聖なる犠牲として神に差し出すよう訓戒されています。それは,古代の聖なる所で差し出された受け入れられる犠牲が聖なるものであったのと同じです。(ロマ 12:1)行状の面でも聖なる者となるよう命じられています。「あなた方を召された聖なる方にしたがい,あなた方自身もすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,『あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである』と書かれているからです」― ペテ一 1:15,16。

 

   この註解に出てくる聖句の一つ第一テサロニケ3:13のNWT訳の矛盾について、考慮してみたい。

「あなた方の心が聖性において責められるところのないものとなるよう、あなた方の心を堅固にしてくださいますように」(田川訳)

「あなた方の心を確固たるもの、神聖さの点で責められるとこのないものとしていただくためなのです」(NWT)

 

赤字部分の原文のギリシャ語は、eis to ste(_)nxai humo(_)n tas kardas amemptous en hagio(_)sune(_ 

KI=into the to-fix-firmly of-you the hearts unbalamable in holiinessと訳している。

英訳=make your hearts firm,unblamable in holiness。

 

 

 原文の最後にある「聖性において」(en hagio(_)sune(_))は、前にある「責められるところのない」(amempotous)に掛かる副詞句。「責められるとこのない」(amempotous)はその前にある「あなた方の心」(humo(_)n tas kardas)を形容する「聖性において」と同格の形容詞。また「堅固にする」(ste(_)nixai)は「あなた方の心」(humo(_)n tas kardas)を目的語にしている。

 

 

口語訳「強め、清く、責められるところのない者」。三つを並列関係にある形容詞として訳しているのは文法的に論外。

新共同訳「聖なる、非のうちどころのない者として下さるように」。「聖なる」と「非のうちどころのない」とを並列させているのはよいが、「非の打ちどころのない」という表現が問題。

 

 

 

 

 

 


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 また口語訳も新共同訳も「もの」を「者」と人の意味で訳しているが、正確には、「堅固にする」の目的語である「あなた方の心」を受けているのだから、この「もの」とは「心」を指している。心を持つのは人間だけであるから「者」でも同じようだが、NWTの「神聖さの点で」という語が付くとニュアンスが違ってくる。

 

  「聖性において」(en hagio(_)sune(_))とは、今で言えば「宗教的に」という趣旨。宗教的な水準で責められるところのなきものとなる、という趣旨。完璧な生き方をするというよりは、むしろ良心的な生き方をするという趣旨。それを「清く」(口語訳)とするのは、一元的な基準で物事を測ろうというもの。  「非のうちどころのない」(新共同訳)とするのは、形式的な意味は同じでも視点が異なる。「非の打ちどころのない」という表現は、「完全さ」を基準にした視点で評価して言葉である。「責められるところがない」の方は、どちらかというと消極的な意味であり、「不完全さ」を前提にしている。原文の(amempotous)は、完全さを前提に物事を見ているのではない。

 

NWTはそれを「神聖さの点で責められるところのないもの」と訳している。

  原文の(en hagio(_)sune(_))を、単に「聖なる」とではなく、「神聖さの点で」と訳し、神自身が持つ神聖さと同一視するように、と要求している。「完全さ」に関しては、神の「完全さ」を前提での表現をしておきながら、「責められるところのない」(amempotous)に関しては、「不完全さ」を前提とした表現で訳している。つまり、神は、不完全な人間に、神が持つ完全さを要求していることになる。これは両立しえない概念で、一つの文が構成されており、文そのものに矛盾をはらんでいる。人間が「不完全」であることを前提にしているのであれば、どんなに努力しても「神聖さの点て責められるところのないもの」となることなど不可能であろう。

 

hagio(_)sune(_)hagiosに由来する与格女性名詞で、「神聖さとともにあるもの」という趣旨。神の完全性が信者に要求されているのではなく、むしろ、神の恵みを受けられるような信仰の質や人間性に焦点が当てられている言葉のようである。hagiōsýnē (another feminine noun derived from 40 /hágios) holiness (sanctification) which focuses on the Holy Spirit's influence of preparing the believer for eternity. (The suffix, -synē, expresses this transformation as a character-quality that comes by the grace of God.)

 

 

 

 

 

 

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NWTには、この種の、人間が「不完全性」に属することを前提としながらも、神に属する「完全性」を要求しているように受け取れる訳が非常に多い。(マタイ5:48、エフェソス5:1、ローマ12:2ほか多数)これでは、罪悪感から精神が疲弊して、鬱になる信者が増えるのもうなずける。純粋で真面目にWT教理に取り組む人ほど、蝕まれていくのであろうか・・・。

 

 

 

 

 

 

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少なくてもこの個所の原文からは、自分が出来る範囲で、良心的に努力し、神からの恵みを受けていることを感謝して、生きて行くことが大切なのであり、強迫的に「神が持つような完全さ」に達するよう、限界を超える努力をし続けるべきである、とは言っていないように思える。

 

       さらに原文は祈りの文であり、11節の「まっすぐに導き」と12節の「豊かにし、大きくし」が希求法で書かれている。しかし、「堅固にする」が結果を意味する不定詞句であるのを、NWTは逆手にとり、全体を希求文で結ぶのではなく、神からの要求であるかのように「ためなのです」と結んでいる。この表現が強迫観念をより強くしているのだろう。(青字追記)