山上の垂訓⑥神の国を求めよ。そうすれば・・・(ルカ12:30~)
マタイ6:32-34の並行記述である、ルカには次のようにある。
並行ルカ12:30-33
「30こういったことはすべて世の異邦人が求めるものである。汝らの父は汝らがこういうものを必要としていることを知っておられる。31むしろその国を求めよ。そうすればこういうものは汝らに加えられよう。32恐れるな、小さき群よ、汝らの父は汝らに御国を与えることをよしとしておられるのだ。
33自分の財産を売って、慈善をほどこせ」(田川訳)
「30 これらはみな,世の諸国民がしきりに追い求めているものですが,あなた方の父は,あなた方がこれらのものを必要としていることを知っておられるのです。31 それでやはり,絶えず[神]の王国を求めてゆきなさい。そうすれば,これらのものはあなた方に加えられるのです。
32 「恐れることはありません,小さな群れよ。あなた方の父は,あなた方に王国を与えることをよしとされたからです。33 自分の持ち物を売って,憐れみの施しをしなさい。」(NWT)
マタイ6:34の「次の日を思い煩うな」に対し、ルカ「神の王国を求める生き方をする」ことの結論として、12:32で「恐れるな、小さき群よ、汝らの父は汝らに御国を与えることをよしとしておられるのだ」と付け加えた。
この「小さき群れ」(poiminion)とは、「群れ」(poimine)に小辞詞-ionを付けたもので、新約中、ルカ文書(ルカ12:32、使徒20:28,29)と第一ペテロ(ペテ①5:2,3)にしか出て来ない。第一ペテロは最もパウロ信奉的な文書であるから、パウロ後のパウロ派教会では自分たちの教会信者集団を指して、「小さき群よ」と呼びかけていたのだろう。
マタイとルカの「神を求める」生き方を勧めるイエスの発言は「空の鳥、野の花」について「ソロモンの栄華」と対比されていることからわかるように、神に対する純粋な信頼に基づく自然賛歌であり、安心して神を信頼して生きなさいという人生訓である。
それをルカは、神様は自分たちの宗教組織集団だけに神の国を与えてくださるのだから、安心していなさい、という教会説教にした。
NWTは、12:32の田川訳「よしとしておられるのです」を「よしとしておられたからです」と「から」をつけて訳している。原文の動詞の態はアオリスト形で、過去の一度の行為を表わすものであり、その時点で「よしとしておられた」という趣旨である。
NWTがそれを「よしとされたから」と、原文にはない「から」という理由を表わす副助詞をつけ、完了形の意味を持たせて訳している。つまり、「あなた方に王国を与える」ということはすでに完了した決定事項であり、その状況はずっと続いて行く。今後も変更のない決定事項であると読み込ませたいのだろう。原文にはない「から」をつけたことによる改竄のおかげである。
しかし、ルカでは、イエスが「小さな群れに王国を与えることをよしとした」ことに続いて、12:33では次のように命令している。
「自分の財産を売って、慈善をほどこせ」(田川訳)
「自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしなさい」(NWT)と。
この「自分の」とは「小さな群れのあなた方」を指す。WTは、「忠実で思慮深い奴隷」が、144、000人天的クラスを指すという解釈から、2013/7/15で「統治体」を指すと解釈変更しているので、同時に「小さな群れ」も「統治体」に解釈変更しなければならないはずであるが、今だに光は煌めいていないようである。
いずれにしても「統治体」の成員が油注がれた者たちだけで構成されており、ルカ12:32の「小さな群れ」であるというのであれば、続く12:33の聖句にも従って、「自分の財産を売って、慈善をほどこしたら」いかがでしょうか。(W)
また彼らに協力して、「小さな群れ」に連なる者であることを自負なさりたい霊性の高い方々は、イエスの命令に従い、信者に寄付を要求したりせず、自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしていただきたいものです。
もっとも、NWTは、12:33は段落を変えて、前の文に続く文ではないかのように、印象操作していますが・・・。(W)原文から見ると、「自分の」とは明らかに、「小さな群れ」を指して、使われている。
並行のマタイ6:19では、「自分のために地上に宝を蓄えるな」としている。「小さな群れ」と称する人々は、本当にイエスの言葉に従っているのだろうか。(W)