山上の垂訓⑤王国と神の義を第一にすれば・・・(マタイ6:32~)

「王国と神の義をいつも第一に求めるならば、必要物を神は備えてくれると保証してくれている」。JWはそのように教えられ、ほとんど文字通りに信じている。原文から見て、この言葉は、本当に神の生活保証の言葉なのであろうか。

 マタイ6:32-34

32こういったことはすべて異邦人が求めるものである。天なる汝らの父は汝らがこれら一切のものを必要としているのを知っておられる。33まず、御国と神の義を求めよ。そうすればこれら一切のものは汝らに加えられよう。34だから明日のことを思い煩うな。明日のことは明日みずからが思い煩ってくれる。その日の悪はその日で十分なのだ。」(田川訳)

 32 これらはみな,諸国民がしきりに追い求めているものなのです。あなた方の天のは,あなた方がこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。33 ですから,王国と[]の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これら[ほかの]ものはみなあなた方に加えられるのです。34 それで,次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には[次の日]の思い煩いがあるのです。一日の悪いことはその日だけで十分です。」(NWT)

 

マタイ6:33田川訳は「まず、御国と神の義を求めよ」となっている。NWTは「ですから、王国と神の義をいつも第一に求めなさい」となっている。

どちらも同じ意味に思えるかもしれないが、大きな問題が三つ。 

一つは、田川訳の「まず」(原文proton=first)は、「御国と神の義を求めよ」という文全体に掛かる副詞となっている。一方NWTは同じ語を「第一に」と訳し、「求めなさい」という動詞にだけ、掛かる副詞としている。 

二つ目は、NWTが「ですから」と訳した語。原文のdeという接続小辞。文頭を示すために用いられるギリシャ語の接続助詞の中でも最も頻繁に使用される部類の軽い語の一つ。KIT=but、英訳=thenとしているが、田川訳は省略。それを「ですから」と前文の趣旨を受ける理由を示す接続詞が使われているかのように訳している。 

三つ目は、原文には「いつも」という語がないこと。それにもかかわらず、「第一に」に掛かる副詞が原文にあるかのように、強調されている。

 

NWTはdeという接続助詞は主語の交代を示すために用いられているに過ぎないのに、「ですから」と訳すことにより「求めなさい」という動詞に掛かる、副詞句を導く接続詞となっている。

原文は三人称単数未来形であり命令の意味を持つが、「まず、御国と神の義を求める生き方をしましょう、あるいは、するがよい」という意味でしかない。

  狂信的に王国と神の義を第一に求めなければ、必要なものさえ与えられなくなる、と強迫しているものではない。

 

並行のルカ12:31は「その国」。「その」は直前の「父」を受けるから、「父の国」の趣旨。しかし、多くの写本が「神の」としている。ルカの時代、あるいはルカの属する異邦人の多い教会では「神の国」という言い方が普及していいたのだろう。 

マタイの方も「神の国」とする写本が多いが、「神の」が付かないのが原文。マタイはユダヤ教の背景を持つ律法学者が多い教会に属していたから、ユダヤ人の習慣に従い「神」という語を用いるのを避ける傾向にある。マタイは「神の国」と言うより、「国」という語に定冠詞をつけて、te basileia=the kingdomという言い方を好んで用いる。 

マタイでは、続けて6:34で「だから明日のことを思い煩うな。明日のことは明日みずからが思い煩ってくれる。その日の悪いことはその日で十分だ」と、6:33の趣旨を補強した。その結果、まず、神の国とルカにはない「神の義」を求めて、神に頼って生きる生き方をより強調することとなった。

マタイはユダヤ教用語の「義」という言葉が好きである。共通資料(Q資料)をルカと比較してみると、原文には「義」という言葉がなかったことが理解できる。マタイが6:33に共通資料にはない「神の義」を追加したことにより、王国と神の義を第一に求めても生活必需品にも事欠くようになっているのは、「神の義」が不足しているからであるとの強迫観念を生む素地を提供することとなった。

 それをNWTは、語順をより神に依存するように変え、「求める」を出来るだけ強調することにより、必需品を備える神の生活保証の言葉として認識されていったのだろう。

WTは、長年マタイ6:33‐34を物質的必要物に対する神の保証、信仰生活の保証としてきた。

*** 塔12 6/1 23ページ 収入が減ったとき ― どうしたらよいか ***

創造者エホバ神は,わたしたちの必要とするものすべてをとてもよく知っておられます。エホバがみ言葉 聖書を通して差し伸べておられる実際的な助言は,多くの人にとって,生活を向上させ不必要な思い煩いを拭い去る助けになってきました。もちろん,それによって当人の財政状態が急に,劇的に改善されることはないかもしれませんが,イエスは,「王国と神の義をいつも第一に求め(る)」なら生活必需品はすべて与えられる,と保証したのです。―マタイ 6:33。

それを、王国と神の義をいつも第一に求めるすべてのクリスチャンに、神が生活保証を与える言葉ではないと否定した。

*** 塔14 9/15 22ページ 読者からの質問 ***

イエスは,神は王国の関心事を生活の中で第一にする忠実な僕たちの必要を満たしてくださる,と保証しています。マタイ 6章33節でこう述べています。「王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのもの[食物や飲み物や衣服など]はみなあなた方に加えられるのです」。しかしイエスは,ご自分の「兄弟」たちが迫害のゆえに,飢えを経験することがあるとも示唆しています。(マタ 25:35,37,40)そのことは,使徒パウロの身に生じました。パウロは,飢えと渇きを経験しました。―コリ二 11:27。

この約束や他の同様の約束は,神の民全体としての安全を保証するものです。とはいえ,個々のクリスチャンは,試練に遭って命を落とすこともあります。 

 

「神の民全体の安全」ではなく「神の民全体としての安全」である。「安全である神の民」が存在しているのであれば、個々のクリスチャンは神の民であろうがなかろうが、彼らが安全でなくても、「安全である神の民」とは関係がない。彼らが神の民あろうとなかろうと、命を落としても、それは「試練」である、という解釈である。 

王国と神の義を第一にすれば必要なものは備えられるのは、すべての人に当てはまるのではない、との見解を出した以上、その日暮らしの生活が破綻しても、神も組織も責任は取らない、すべて自己責任であるとの宣言したのである。 

     神の国に入れるような、神に愛されるような生き方をしようという趣旨が、「神の義」が強調されることにより、「義」を定める人間や組織の指示に服従することが重要な視点にすり替わったのである。

 

     「義」とは、ユダヤ教の律法に従うこと事から得られる神の是認をさす語である。ユダヤ教支配体制の機構そのものを批判したイエスが、「神の義」を第一に求めるよう、人々に勧めるはずがない。マタイ派教会が信者たちを統制するために、付け加えた支配者的説教である。図らずもマタイは、イエスの言葉の真意を換骨奪胎させることとなった。