山上の垂訓④別の頬を差し出すのはなぜか?

 

イエスの言葉として有名なものの中にマタイ5:39の言葉がある。

39しかしわたしは汝らに言う、悪人に逆らうな。汝の右の頬を打つ者に対しては、もう一つの頬を向けてやれ。」(田川訳)

39 しかし,わたしはあなた方に言いますが,邪悪な者に手向かってはなりません。だれでもあなたの右のほほを平手打ちする者には,他[のほほ]をも向けなさい。」(NWT)

 

        一般にもJW的にも、御存じのように、この聖句は、復讐を禁じる戒めであり、侮辱や屈辱を与える者に対しても寛容に行動することを教えるものとされている。

         自分の右の頬を相手が打つには、普通右利きであるから、相手の掌ではなく、手の甲の側で打つことになる。手の甲で相手を打つのは、手の平で打つことよりも失礼にあたる。手の甲の側を使うのは、相手を汚れた存在とみなし、手の平が汚れに触れるのを避けるためだからである。それゆえマタイのイエスが言わんとしていることは、単に暴力に対する無抵抗だけではなく、屈辱的な仕打ちに対する寛容さと敵を愛する愛を示すことがクリスチャンには求められていると解釈されている。

        古代からマタイ5:43‐48「敵を愛せ」の話と結び付けられて、そう解釈されて来た。

 

 

並行記述のルカ6:29には次のようにある。

29汝の頬を打つ者に対してはもう一つの頬を与えよ。」(田川訳)

29 あなたの一方のほほを打つ者には,他[のほほ]をも差し出しなさい。」(NWT)

 

    ルカは単に「頬」としてあり、マタイとは異なり「右の頬」を先に打つことを前提にはしていない。つまり、侮辱を与えることを目的として頬を叩くのではない可能性がある。聖句の文脈から黙って頬を打たれたままにしておく真意を探ってみる。

ルカ6:27‐29

27だが、あなた方聞いている者たちに言う、汝らの敵を愛し、汝らを憎む者によくしてやれ。28汝らを呪う者を祝福し、汝らを悪しく扱う者のことを祈ってやれ。29汝の頬を打つ者に対してはもう一つの頬を与えよ。汝の上着を取り上げる者には、下着も妨げるな。」(田川訳)

27 「しかし,聴いているあなた方に言いますが,あなた方の敵を愛し,あなた方を憎む者に善を行ない,28 あなた方をのろう者を祝福し,あなた方を侮辱する者のために祈り続けなさい。29 あなたの一方のほほを打つ者には,他[のほほ]をも差し出しなさい。また,あなたの外衣を取ってゆく者に対しては,下着をさえ与えることを控えてはなりません。」(NWT)

 

   ルカでは「敵を愛せ」の話に続けて、「他の頬も差し出せ」とある。しかし、別々のロギアを並べただけであり、「他の頬も差し出せ」に続いて、「上着も下着も」逆らわずに差し出せ、とある。ルカは略奪や強奪に遭っていることを想定した文脈の中で「もう一つの頬を与えよ」と言っているようである。

 

マタイの文脈はどうか。

マタイ5:38-41

38目には目を、また歯には歯を、と言われていることを、汝らは聞いている。39しかし私は汝らに言う、悪人に逆らうな。汝の右の頬を打つ者に対しては、もう一つの頬を向けてやれ。40また汝に対し訴訟をおこして、下着を取り上げようとする者には、上着をもゆだねてやれ。41汝を徴用して千歩行かせようとする者(がいれば)、その者とともに二千歩行ってやれ。」(田川訳)

38 「『目には目,歯には歯』と言われたのをあなた方は聞きました。39 しかし,わたしはあなた方に言いますが,邪悪な者に手向かってはなりません。だれでもあなたの右のほほを平手打ちする者には,他[のほほ]をも向けなさい。40 そして,もし人があなたと一緒に法廷に行ってあなたの内衣を手に入れようとするならば,その者には外衣をも取らせなさい。41 また,だれか権威のもとにある者があなたを一マイルの奉仕に徴用するならば,その者と一緒に二マイル行きなさい。」(NWT)

 

   マタイは「邪悪な者」、「法的手段に訴えて、下着を取りあげようとする者」、「マイルを徴用する者」を対象に「左の頬を差し出せ」と言っているようである。ルカではまず「上着」だったが、マタイでは「下着」が先に取り上げられている。

 

   「訴訟を起こして」とあるが、ここは貧しい人たちが着るものがないので、どうぞ下着を一枚下さい、と訴えているような場面ではない。金を貸している相手に金を返せ、と訴訟を起こして相手の衣類を奪おうとするのは、借金のかた取り上げる、ということである。当時の繊維製品は手作業の織物であり、値の張るものであった。

   「下着」(chiton)は、現代の肌着ではなく、足先まで届く長い衣を指す。「上着」(himation)は、「外套」のようなもので、外出する時のマントのような役割と、夜寝る時にかぶって掛け布団代わりにしたものを指す。旧約律法には、貧しい者から借金のかたであっても「上着」を取ってはならない、と規定されている。(出エジプト22:25‐27、申命記24:12‐13参照)

   つまり、マタイは借金取りの場面として描いている。律法を熟知していいたマタイは学者たちは、「上着」を借金のかたに持って行くというのは考えられないことであった。貧しい人は「上着」は一枚しか持っていなかっただろうが、「下着」なら二枚は持っていたであろう。その一枚を借金のかたとして持って行こうとする者には、「上着」までも差し出してやれ、と言っているのである。

   ルカは、異邦人であり、ユダヤ教のこのような律法を知らなかったのだろう。それで強盗か何かの場面を想定し、まず「上着」を要求されるはずだから、そのような者には「下着」まで差し出してやれ、ということにしたのだろう。それで、「下着」ではなく「上着」が先になったと考えられる。

   「徴用する」(anagareuo)とは、軍隊用語で、ローマの官憲や軍隊などが荷物を運ばせるために現場で徴用することを指す。ユダヤ人社会ではヘロデ家やエルサレムの神殿貴族に関しても用いられた。当時の権力者は現地の一般人を奴隷のように強制して荷役の仕事をさせることができた。この言葉は、「1マイルの徴用を求められたら、余分にもう1マイルを文句も言わずに運んでやるがいい」という趣旨である。なぜか、下手に逆らうと、余計に虐待されるからである。

 

    「他の頬を向けない」というイエスの言葉も、同じ趣旨であろう。権威者から殴られ、反抗的な態度を取るなら、余計にひどく殴られるだけである。不当な仕打ちであるとわかっていても、黙って殴られたほうが良い。先に他の頬を向けた方が、より安全だからである。

 

    現代の大部分がこの話を寛容の精神、道徳的美学に仕立て上げているのは、殴られる側の立場でものを考えていないからであろう。原則として殴られる位置にいない支配階級の者が、何かの拍子に殴られたとしても、自分の道徳的品性を示すために、笑って耐えることができる。本当は殴った側のことを我慢してやっているに過ぎない、という相手を見下した精神構造から出てくる寛容さであり、根底には底意地の悪い邪悪さが潜んでいる。

 

    「右の頬を打つ者には他の頬をも向けよ」とのイエスの言葉は、打ち叩かれてばかりいる社会的弱者が、権力者に無言で抵抗するための手段であり、安全を確保するための方策であった。

    イエスの真意は、説教壇の上から、権威に対して従順にあるように説くようなものでも、自分の道徳的優位性を示すための、パフォーマンスのために寛容な精神を示すためでもない。民衆の側にたち、支配者に屈することなく、また権力に媚びることなく、誇りを持ち生き抜くための手段と安全のための具体的な方策であったのであろう。