●神に返すべき「神のもの」とは何か?

 

マルコ12:17 「イエスは彼らに言った、「皇帝のものは皇帝に納めなさいな。そして神のものは神に」。(田川訳)

      「そこでイエスは言われた,「カエサルのものはカエサルに,しかしのものはに返しなさい」。(NWT)

 

マタイ22:21 その時、彼らに言う、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に納めるがよろしい」。(田川訳) 

      「そこで[イエス]は言われた、「それではカエサルのものはカエサルに、しかしのものは返しなさい」(NWT

     

ルカ20:25 「彼は彼らに対して言った、「それだったら皇帝のものは皇帝に、神のものは神に納めるがよろしい」。(田川訳)

        「 [イエス]は彼らに言われた,「では,ぜひとも,カエサルのものはカエサルに,しかしのものはに返しなさい」。(NWT)

 

   納めるべき「皇帝のもの」とは、「税金」のことで、納めるべき「神のもの」とは、忠誠や信仰など崇拝に関連したものを指している、と一般に解されている。本当にそうなのだろうか。

 

   原文を見ると、マルコは、「皇帝のもの」を文頭におき、次に命令形の動詞の順。「皇帝のものを、納めなさい、皇帝に。そして神のものは神に」の順となっている。

   一方マタイとルカの方は、命令形の動詞を文頭に置き、目的語の「皇帝のものは皇帝に」と「神のものは神に」を「そして」で並列につないでいる。「納めなさい、皇帝のものは皇帝に、そして、神のものは神に」の順。(マタイに接続小辞のoun=thereforeが入っているだけ)

   マルコの言い方は、「皇帝のものだというなら、皇帝に納めればいいんじゃないの」と説明的に言っておいてから、本音を付け加えて、「それで、まあ、神様のものだって言うなら、神様にね・・・」という感じになる。

   マタイとルカの言い方は、「皇帝のものを皇帝に納めることも大切だが、神のものを神に納めることも同じように大切だ」というニュアンスになる。

 

   もともとは、ローマに「税金を納める」か否かの話だったのが、神に納めるものが、「税金」の話ではなく、「宗教信仰」にかかわる話であるとする解説が多い。

   1959年「イエスの使信、過去と現在」E.Stauffer以前にも、オリゲネスなど古代の教父たちの時代から、これは、本来皇帝に属するものは皇帝に返却すべきであり、本来神に属するものは神に返却すべきである、という意味に解されて来た。イエスはここで、皇帝に税金を払うことをいやいや認めているのではなく、人間としても当然の義務責任とみなしてきた、と解説される。

 

   しかし、エルサレムの神殿境内で「納める」ことに付いて議論しているのだから、「皇帝のもの」が「人頭税」を指すのであれば、「神のもの」とは「神殿税」を指すと考えるのは当然である。

  実際「納める」(apodidomi)という動詞は、この時代においては、すでに税金の納入について用いる術語となっていた。従ってこの語を「返却する、本来その人に属するものをお返しする」という意味だなどと無理して読み込む必要はないだろう。

 

 

 

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   イエスの時代はまだ、人頭税支払い義務がローマ直轄地のユダヤとサマリアに限られており、ガリラヤには課せられていなかった。神殿の権益を握っていたヘロデ家の者たちも人頭税を支払う必要のない立場だった。さらに、マタイ17:24-27の話から、イエスは神殿税を払わなかった、という噂が出回っていたことが分かる。

 

   イエスにこの質問をしているのは、エルサレム議会当局から派遣された者たち、つまりみずから神殿税で肥え太った神殿貴族階級の者たちである。イエスはマルコ1115-18の「宮潔め」の話で宗教貴族の搾取を強盗と批判している。

 

   従って、ここでの彼らに対する「神のものは神に納めよ」との言葉は、「(人頭税が)皇帝のものなら皇帝にお納めになったらどうですか。(神殿税を)神のものなら神にと、言っているくせに」という趣旨である。

 

   つまり、「あなた方は、神のものは神に納めよ、などと言って神殿税をいい気になって徴収し、自分の懐を肥やしているではないか。そんなあなた方が、皇帝に税金を納めるのが是か非かなどと議論を吹っ掛けてくるとはどういう神経だ。同じ穴のむじなではないか。とてもそんな議論に付き合う気はないね」という皮肉以外にない。

 

 

  NWTは、マルコの「そして」を「しかし」と訳し、原文の付け足し感を、より重要なものであるかのように逆転させている。これでは、マルコの皮肉がまったく伝わらず、「皇帝のものを皇帝に返すことも大切だが、神のものを神に返すのはもっと重要だ」という趣旨になる。

   更に「納める」(apodidomi)という動詞を、「返す」と訳すことにより、税金の話ではなく、崇拝に関係した説教話であるかのようになっている。

   和訳は、マタイとルカの接続小辞の違いを訳し分けているが、すべて同じ訳で統一している。原文のkai=andをKIはすべてandにしているのに、英訳がすべて、butに訳している。原文は、並列につないでいるのに、すべて「神のもの」に重きを置く訳にしている。

Mr12:17= Ta Kaisaros apodote Kaisari kai ta tou theou to  theo

                Pay back Caesar’s things to Caesar, but God’s things to God

 

 

 

 

()  Mt 22:21= Apodete oun ta Kaisaros Kaisari kai ta tou theou to theo

               Pay back, therefore, Caesar’s things to Caesar, but God’s things to God

 

 

 

 

 

(Lu 20:25= Toinun apodote ta Kaisaros Kaisari kai ta tou theou to theo

 

 

             Well now  pay back Caesar’s things to Caesar, but God’s things to God

 

 

 

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実際には、税金の話を崇拝の話に展開させ、パリサイ人やサドカイ人まで驚嘆させた。だからイエスは素晴らしい説教師であり、教師である。私たちが崇拝するイエス様は、反対者でさえ立ち向かえない、と信仰心を熱くする話ではない。

   マルコのイエスの権力側に対する反逆的な思いを、マタイとルカは、「皇帝のもの」も「神のもの」もどちらも大事だ、という話にすり替えたのである。それを後代の「皇帝のもの」の側に重用された、「神のもの」を大事にする教会権力者が、信者のイエスに対する信仰心を深め、その経路となる教会崇拝を盤石したいとの意図を持って、説教壇からの話に利用したのであろう。

 

 

   本質の話を別の話にすり替え、権威を持っている者が有利になるように事を運ぶ点では、どの組織も大差ないようにも思うが・・・。



   少なくても神に仕えていると自認しているのであれば、そのような詭弁は頑として慎むものであろう。

 

 

 

 

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