●パウロの言う「受けるより与える方が幸福である」とのイエスの言葉とは?

 

   「受けるより与える方が幸福である」。この格言的な言葉は、イエスの言葉としてよく引き合いに出される。時には、「受ける者」が都合よく解釈して、図々しくも「与える者」に無心する時に利用する言葉でもある。パウロはこの格言的な言葉を、イエスの言葉として、告別説教の中で引き合いに出している。

 

使徒20:35

35私は一切をあなた方に示した。労苦して、弱っている者を支え、主イエスの言葉を覚えているべきことを。イエスは言ったのだ、受けるより与える方が幸いである、と」。(田川訳)

 

35 わたしは,このように労苦して弱い者たちを援助しなければならないこと,また,イエスご自身の言われた,『受けるより与えるほうが幸福である』との言葉を覚えておかなければならないことを,すべての点であなた方に示したのです」。(NWT)

 

使徒20:35 イエスは言ったのだ、受けるよりは与える方が幸いである、と

  パウロは、この言葉をイエスによるものとして紹介しているが、福音書にはこの言葉と同じものは記述されていない。パウロにとって重要なのは「復活したキリスト」だけであり、かつて生きていたイエスのことにはあまり関心がない。パウロ自身がそう繰り返し宣言している。

  例えばコリ②5:16「もしも(以前は)キリストを肉によって知ったとしても、今はもはやそのように知ることはしない」。生前のイエスの活動や言動は重要ではなく、重要なのは復活したキリストだけである、と宣言している。

  ローマ15:18でも「キリストが私を通じて、言葉と業でもって・・・働き給うた事柄以外については敢えて何も語るつもりはない」、と生前のイエス、イエスの教えに関しても無関心である。

 

  パウロはイエスがどのような人物であるかを説明するのに、実際のイエスの姿ではなく、旧約の引用を並べ立てて(ローマ15:3~)、自分の宗教観に合致するキリスト像を構築している。

  イエスの言葉を引用する場合も、他の人の批判に反論するための自己弁護のために、自分もイエスの言葉を知っていると言い訳がましく付け加えている。(ローマ14:14~)

 

  聖パウロさんが、イエスがそう言った、と聖書に書いてあるから、そう言ったのだ、と信じたい人は信じればよいだけであるが、実際のイエスの言葉であるとは考えにくい。

 

  福音書に数多く記されているイエスの発言を何一つ重要視していないパウロが、このセリフだけはイエスの言葉であると思っていたのであるから、面白い。ここでも田川訳では、イエスが言ったとされる「主イエスの言葉」を引用しただけとしているが、NWTは、実際に「主イエスが言われた」ことになっている。まさにその点にパウロの人となりが滲み出ている。

 

 

  イエスは「求めよ。そうすれば与えられる」と言った。(マタイ7:7)イエスは、貧しい人たちが、神に求めればいつか必ず与えられる時が来る、と祈り、願った。イエスの視点はいつでも弱者からのものであり、最下層の立場の人の視点からの言葉である。

  持たない者にとって、「与えられる」、つまり「受ける」ことがどれほど有難いか、幸いかを知っている。また与えようにも与えることのできない「受けるだけの者」の惨めさと、心ある者から何も言われずに「与えられた」時の喜びと感謝の念を深く心に刻み込んでいることも・・・。

 

  パウロは「受けるより与える方が幸いである」と言った。確かに自分が持っているものを人に与えることができれば、そして与えられた人が喜んでくれるなら、それは与えた方にとっても嬉しいことである。

  そうすることができるのであれば、いつでもそうすればよい。つまり、パウロは上からの視点で、「与える者」とは「与えるもの」を十分に持っていることを前提に語っているのである。

  福音書の著者が上からの視点での教訓や説教をイエスの口に置いている箇所は沢山あるが、間違いなくイエスの言葉であろうとされているものの中で、イエスが、物質的に豊かに恵まれている「与える者」の側である上からの視点から、教会の指導者側の視点でものを教えている箇所はどこにもない。

  当然である、イエスの生前に教会は存在していなかったのだから、指導者も存在していないはずである。イエスの言葉は、常に被支配者、庶民の視点に立った言葉である。

  同じ言葉でも、加害者側が言う言葉と被害者側が言う言葉では、状況によっては、全く違う意味になることもある。例えば、「右のほほを打つ者には左のほほを与えよ」という格言的なイエスの言葉も、支配者側と被支配者では全く異なる意味を持つものとなる。(福音書のイエスの言葉についてはいずれ扱うつもり)

 

  大金持ちの男に、どうしたら永遠の生命を受け継ぐことができるか、と質問された時、イエスは冷たく言い放つ。「持っているものを売り払って、貧しい人に与えよ」。(マルコ10:17~)

  大金持ちではなくても、僅かな余裕しかなくても、人に与えることができることができれば、幸いであることには違いない。しかし、その「幸い」は「与える者」であるから「受ける者」より「幸い」なのである。まさに持てる者の傲慢から生じる上から目線の「幸い」でしかない。

  しかしながら、「受ける者」でありながら、「受ける」ことによって「与える者」の幸福に寄与してあげている豪語する者がいる。「受ける者」でありながら、与えることもせず、「与える者」よりさらに上からの視点から語る。このようなご立派な「受ける者」の共依存者は、まず「与える者」の幸いを十分行なってからにして欲しいものである。

 

  いずれにしても、福音書にあるイエスの視点とパウロがイエスの言葉としている「受けるより与える方が幸福である」との視点は、真逆であり、とても同一人物から発せられたものとは考えにくい。

 

NWT「主イエスご自身の言われた、「受けるより与える方が幸福である」との言葉」。

  考えてみれば、WTが信者のために何かを「与えた」ことがあるのだろうか。王国会館を建設するにしても、地元の会衆の寄付によるものである。建築費をWTが立て替えてくれた、と言う人がいるかもしれないが、毎月返済しているのであって、WTが地元の会衆に与えたものではない。貸し付けているだけであり、WTは一円も地元の会衆には寄付してはいない。大会ホ―ルも同じである。集会の運営にしても、KHの維持に関しても、すべては地元の会衆、つまりは信者たちの寄付によって運営されている。更にそこからWTやさまざまな必要のために寄付までしている。

 

  「受けるより与える方が幸福である」から「与えろ」とWTは信者に要求する。常に支配者側からの視点でしか話さない。この言葉をイエスが言われたと本当に思っているのであれば、是非イエスにならって、パウロもそう信じているのだから、是非とも、「受ける」だけでなく、世界の信者たちに惜しみなく与えて、「与える者」の幸福を「あなた方にも」味わってもらいたいものである。

 

  本当にイエスにならうのであれば、弱者の視点から、「与えられる者」となって、「求めている者」に「与える者」となっていただきたいものです。