●告別説教(使徒20:18-35)から見えるパウロの人格(2)
更にパウロの告別説教には、信者の行く末を案じる予言的な言葉が続く。
使徒20:28-29
29私が離れた後、獰猛な狼どもがあなた方の中に入り込んで来るということを私は知っている。彼らはこの群れを容赦しない。30あなた方自身の中からも歪んだことを語り、弟子たちを切り離して自分たちの後について来させようとする者が出て来るだろう。(田川訳)
29 わたしが去った後に,圧制的なおおかみがあなた方の中に入って群れを優しく扱わないことを,わたしは知っています。30 そして,あなた方自身の中からも,弟子たちを引き離して自分につかせようとして曲がった事柄を言う者たちが起こるでしょう。(NWT)
20:29 獰猛な狼ども(田川訳) 圧政的なおおかみ(NWT)
「獰猛な」(barys)の字義的な意味は「重い」という形容詞であるが、比喩的には「野蛮な、暴力的な」という意味にも用いる。
どういう人たちを指しているのかいろいろな議論があるが、著者ははっきりとは特定していない。しかし「グノーシス主義」を指すとの解釈は、パウロの生きていた時代にはまだ存在していない概念であるから、考えられない。
パウロは、自分とは違う思考の人たちが影響を及ぼして来ることを極度に警戒し、他派の人々の悪口を言う性質がある。コリントで宣教した時にパウロより先に宣教していたがパウロと同調しなかったアポロに関しても、聖書に通じてはいたものの正確な理解を得ていないと批判的である。(使徒18:24-25、第一コリントス3:3-6他)
また手紙の最後に、自分の「福音」に賛同しないキリスト教を信じる人に対して悪口を言う傾向がある。ガラティア6:11~では、ユダヤ教の割礼に執着するキリスト信者に対して、「肉を誇りたいというだけ」(田川訳)、「肉において誇る理由を持つため」(NWT)とその動機を断定的に批判している。
ローマ16:17~でも、パウロから学んだ「教え」に反するキリスト教の教えを説く人を、一方的に「分裂や面倒を引き起こす者たち」(田川訳)、「逆らって分裂とつまづきのきっかけをもたらす人たち」(NWT)とレッテル貼りしている。
フィリポイ3:2にいたっては、「犬ども」(田川訳)、「犬」(NWT)と、律法上の汚れた動物に例えて、辛辣に批判している。
ここの使徒行伝の箇所でも、パウロ派に同調しないキリスト信者もいるという現実を踏まえて、単なる可能性を妄想的に危惧しているだけであろう。
ルカはパウロのそのような癖を知っていたので、この告別説教でははっきりと付け加えたか、あるいは、むしろ、はっきりとパウロがそう言ったのだろう。
ここから見える、パウロの人格は、非常にコントロールが強く、思い込みの激しい排他的な性質を持つ人間像である。プライドの高い、自信家であり、敵も多いが味方も多い、かなり極端な人格特性を持っていた人物のようである。むしろそのような特質をもっていたからこそ、エルサレムのユダヤ主義キリスト教と対立しながらも、ヘレニストのグローバルキリスト教の教義的精神的支柱となれたのかもしれない。
NWT「圧政的なおおかみ」。現代の「圧政的なおおかみ」、あるいは「不法の人」(第二テサロニケ2:3)の描写は、まさしくJWの中の「統治体派」そのものに思える。
一世紀のユダヤ主義者は、ユダヤ教もキリスト教ユダヤ主義者も偶像崇拝者ではないと豪語し、真の崇拝者を自認していいた。確かにエルサレムに神をかたどった偶像は存在してはいなかった。
しかしながら、神殿そのものが偶像だったのであり、神殿中心のユダヤ教体制支配の存続が社会生活の絶対条件であった。現代のWTも、一世紀の「神殿」が「組織」に置き換わり、「神殿支配体制」が「統治体支配体制」に置き換わっただけである。
それゆえ、WTが「パリサイ化」、「律法主義化」していくのは当然の成り行きのように思える。初期エルサレム教会が第二次ユダヤ戦争後消滅したように、ユダヤ主義的キリスト教は消滅していくのであろうか。
クリスチャンは「自由の民」であると唱えながら、WT内で自由なのは、「自ら腐敗の奴隷」となっているやりたい放題の一部の支配者層である。その自由は、多くの「不自由の民」を犠牲にして成立している。彼らこそ傲慢かつ無責任な「獰猛で」「圧政的なおおかみ」そのものである。